パンチの独り言

(5月20日〜5月26日)
(地力向上、暇な足、異常さ、餌やり、的は何処、理解させる、目標)



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5月26日(日)−目標

 目標を定めることは、誰にとっても重要、と言われる。だが、漠然としたものだと、達成できたかどうかさえ、はっきりせず、次の目標、という話にも、転換できない。だから、社会では、数字で、目標を表そう、とする動きが、優先されたり、歓迎されるようだ。
 数値目標は、確かな標的を、定める為の、手段の一つとして、挙って定められている。それに向かい、努力を重ねる、という意味では、定めた効果は、確かにあるのだが、いざ達成してみると、その内容に、疑問を抱く声が、出てくる。数字は、確かに、達成できたのだが、状況が、どのように変化したかが、はっきりしないことが、多いからだろう。特に、達成を第一に考え、数字を操作した結果、可能となったことは、結果的には、良かったのだろうが、終わってみると、殆ど何も、変わっていないことに、気付かされると、より高い目標の設定や、数字だけでなく、質の追求などについて、反省の声が、聞こえてくる。では、達成不可能とも思える、数字を掲げれば、いいのだろうか。こちらは、こちらで、到達できず、問題点の整理や、課題の炙り出しなど、肝心な手続きが、進まない為に、目標を定めた意味は、薄れてしまう。では、どうすればいいのか。模索が続いていて、答えが導き出せていないだけに、これという、確実な方法は、見出されていない。そこで、小手先に過ぎないが、まずは、数字を設定する際に、その中身を、吟味しようという動きが、起こされる。目標として定められる数字の多くは、総数であり、その内容に関しては、ある程度分類しなければ、明確には、示せない。全体として、達成を目指すことから、総数が、一つの指標になるのは、当然のことだが、多くの組織では、部門ごとに、細かな目標を、設定しなければ、検証が難しくなる。不慣れな人々は、すぐに、数値目標に、目が奪われるが、実際には、細かな事情を、解析しなければ、分析が難しくなるのだ。そう思い、見回してみると、意味不明な総数に、振り回されている場合に、溢れている。

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5月25日(土)−理解させる

 何様のつもり、と問われたら、「客」、と答えるのだろう。だが、学校は、学ぶ場であり、出された品を、食べる食堂とは、訳が違う。しかし、教えてくれない、とか、わかりにくい、とか、注文ばかりが、多くなっている。では、何故、そんなことが、起きているのか。
 客と店の関係は、嘗ての姿と異なり、主従関係の如く、扱われている。要求するだけの立場と、それを満たすだけの立場が、明確に区別されている。その間を、繋げているのは、金銭授受であり、それだけで、全てが済まされる。だが、現実には、金銭的な評価は、殆ど行われず、ただ、隷属を強いようと、高飛車に出る人間が、跋扈するだけだ。確かに、金にものを言わせれば、不可能なことは、ないのだろうが、低い評価でも、同じことを、やろうとする。世が荒ぶ背景が、こんな所にも、現れている。そんな雰囲気に、慣れた人々は、自らの努力を、棚に上げて、権利を手に入れようと、学校に進むらしい。だが、与えられるだけで、全てが身に付くと、考えるのは、無謀としか言えない。にも拘わらず、そんな要求を、声高に訴える人間が、教育現場に溢れ、それを後押しする、訳知り顔の大人達が、状況を、更に悪化させている。傲慢な若者達の、扱いに困った人々から、苦情が寄せられるが、対策は、講じられていない。他人に、ものを教えることの、難しさは、経験してみなければ、理解できない。だが、傲慢な連中は、理解できない、と文句を並べるだけだ。彼らに、説明させる経験を、積ませることが、不可欠なのではないか。自分が、理解できないのは、確かに、説明が、不十分な場合も、多くあるが、それと共に、理解しようとする態度が、重要となる。それを引き出す為の、手立てを身に付け、実践すれば、状況は大きく変わる。それと共に、習う時の態度にも、変化が起きる。食堂で出す、料理を作ることの、難しさと似たものだ。

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5月24日(金)−的は何処

 会議の目的は、何だろうか。議論は、当然のものだが、多くの会議は、それさえ行わず、ただ、結論を並べ、議決したとする。これにより、正当な手続きが、成された、とする訳だ。これ自体、馬鹿げたもので、こんな儀式を、実しやかに行うことが、目的なのだろうか。
 議題として、用意されたものが、結論であり、そこに至る話し合いは、元から、想定されていない。それでも、参加者全てに、認めさせることで、手続き上は、問題なしとする。だが、はじめから、結論ありきなら、話し合いは、必要ない。一方で、何度も、同じ会議を開き、いつまでも、結論が出ない、無駄としか思えぬものも、目立っている。こちらの問題は、何を話し合っているのか、参加者にさえ、理解できていない、ということだろう。議題は、確かに、設定されているが、曖昧な表現で、何を、どうするのかさえ、見えていない。それを、指摘する声も、時に出てくるのだが、曖昧さこそが、重要であり、幅広く議論することで、有意義な提案を、促そうとする、などという答えが、戻ってくる。これが、時間の無駄を、産んでいることに、気付けば、単純に、会議の前に、曖昧さを減らし、焦点を絞り込む作業を、済ませておくことが、大切だと、理解できる筈だ。だが、現実には、そこにこそ、問題がある。会議の主催者が、何を議論すべきか、考えていない場合が多く、人が集まれば、有意義な提案が、出てくるという期待で、開催しようとするのだ。確かに、結論ありきの儀式は、無意味なものに違いないが、自由討論を、時間制限なしに、続けるやり方では、話し合い自体は、盛んにできたとしても、結論には至らず、時間の無駄ばかりが、続くこととなる。たとえ、議論の対象が、絞り込めずとも、それに必要な、基礎データだけでも、揃えておくことは、不可欠だろう。問題を提起する、背景が何か、を明らかにすれば、見えてくるものが、ある筈だから。

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5月23日(木)−餌やり

 知らないことを、聞かれたとしても、まるで、知っているかの如く、答える人が居る。意見を、求められているなら、まだしも、それが、正しいかどうかの、判断を求められた場合、未知の事柄の、正誤の判断など、出来る筈がない。にも拘わらず、答えてしまうのだ。
 これは、知っているかを確かめず、尋ねる方の問題、と考える人も居るだろう。だが、答える人間の心理には、無知を知られることへの、恐れがあるとすれば、そちらの方も、問題なのだ。知らないことを、恥じる必要はなく、誰しも、知らないから、知っているへと、変貌する過程を、経ながら、成長を続けるのだ。その段階を、人知れずに、努力を積み重ねて、進んでいく人こそが、評価の対象となるのだが、今は、随分違った様相を、示している。知らぬとも、知っているふりをして、その場を凌げば、評価が高まる、と信じる人もいるのだ。無知を曝け出すより、それを覆い隠し、対応し続ける能力が、評価の対象となる、と思い込んでいる。だが、それは、誰もが、知らないことを、議論する場合には、当てはまるが、既知のことについて、議論する場合には、該当しない。ただ、何もかも、上から与えるような、現代の教育の仕組みでは、知らないことを、意識させるより、次々に、理解すべきことを、提示してやる訳だから、受ける側は、自らの無知を、意識することないままに、理解を進めるようになる。意識がなければ、積極性が、芽生える筈もなく、与えられたものしか、処理できない人間が、こんな仕組みでは、育成されるだけなのだが、こちらの方が楽だとか、苦労させる必要はないとか、何とも、不思議な論理によって、若い世代の成長を、妨げているのではないか。現状でも、既に、かなり危うい状態と、なっているが、現場では、そんな実感はなく、相変わらず、与え続けている。

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5月22日(水)−異常さ

 真実を、読み取る能力が、不可欠である、と言い続けているが、全く異なる形で、真相を、追い求める人々が、居る。一見、同じことが、求められているように、思えるのだが、現実は、全く違っており、ただ、受け取るだけのことで、吟味や検討など、何も無い。
 何故、こんなものを、欲しがるのか、理解に苦しむが、それが、当然の権利、と思い込んでいる。凶悪事件を、発生させた人間が、どんな意図で、何を目的として、そんなことを、犯したのかを、「真相」と呼ぶのは、実は、馬鹿げたことであり、単に、犯罪者の、身勝手な論理を、突きつけられ、正常な精神では、理解できないことを、並べるだけなのだ。それでも、異常な心理を、白日の下に晒せば、その危険性を、認識することができ、それが起きるのを、未然に防ぐことも、可能になる、と考える人が居る。だが、異常は、所詮、常識には合致せず、正常な心理では、そこに、近付くことさえ、あり得ないとなる。だとしたら、「真相」は、何の為のものか。単に、知りたがりの、野次馬根性でしかなく、それが、何かに反映されることなく、それ程までに異常なのだ、と納得するだけのことで、大袈裟に、目的を提示すること自体、全く無意味なもの、となるだけのことだ。こんな簡単なことに、気付かぬままに、裁判中の議論により、「真相」が明らかにされれば、何かが、満たされると信じ、いつまでも、狂気の沙汰を、吟味しようとする。まるで、それが、当然の権利と、見做す向きには、本人の弁明が、中途半端に終われば、消化不良に、終わる訳で、不平不満が、募るらしい。だが、そんな異常性を、知ることに、どれだけの意味が、あるというのか。ただ単に、異常に、納得するだけ、で終わるのだ。だとしたら、さっさと、消えて貰った方が、余程、気が楽なのではないか。異常は、異常として、片付けよう。

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5月21日(火)−暇な足

 自動車事故による、死亡者の数は、30年程前から、減少を続けている。実際には、半世紀前が、頂点となっており、それから10年程、減少を見せたものの、再び上昇を始め、30年程前に、第二の頂点を示した。その後は、ある意味、順調に、減少を続けている。
 様々な災害や、大震災の度に、膨大な数の、死亡者数が、伝えられるが、それと比べても、突発的ではなく、毎年、ある程度の数の死亡が、伝えられる点から、多くの対策が、講じられてきた。半世紀前には、座席に固定する仕組みが、設置されていたとしても、面倒だとか、自分は大丈夫だとか、勝手な理由から、使用しない人が、数多く居た。しかし、その後は、義務化され、その上、別の装置が、設置されることで、一時に比べれば、数自体は、激減したと言える。だが、それでも、0にならないことには、悲しむ人は、居なくならない。安全性を、高めたとしても、様々な誤操作や、無謀な運転により、起きてしまう事故を、無くすことは、まだまだ、難しいと言われる。自動運転への期待も、膨らみ続けているが、実験段階で、起こる事故から、過剰な期待は、無くなりつつある。それまでの間、自らの能力に、頼るしかなく、一方で、過剰な制限を、実施しようとする動きには、警戒が強まっている。ただ、日常でも感じるのだが、社会には、不思議な運転を、する人が居るように思う。赤い光が、点いたままで、加速し続ける、車やバイクには、首を傾げるしかない。制動と加速を、同時に行うのは、手と足を使う、バイクの場合には、可能ではあるが、それも、誤操作の一つとなる。一方、車では、一つの足で、両方を操作する筈だから、こんなことが、起きる筈がない。だとしたら、と思いつつ、まさか、両足で、操作するのだろうか、と想像する。加速時に、ギアの変える必要があった、仕組みの時には、左足は、専ら、変速装置の操作に、使われた。だが、その必要のない自動車が、世に溢れるようになり、暇な左足に、新たな役目を、と思う人が居るのだろうか。こんな疑問は、示されていないが、どうだろう。

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5月20日(月)−地力向上

 揚げ足を取る。こんなことが、日常的に起きている、場所がある。現実世界ではなく、仮想世界なのだが、参加するのは、実在の人々だ。各自が、端末を手に、そこに表示された、意見を眺め、その言葉尻を捉え、批判を繰り返す。異常な程の、真剣さを見せて。
 気軽に、意見を表明する機会が、端末を手に入れることで、訪れることに、若い世代は、何の疑問も、抱いていないようだが、少し上の世代になると、そこに強い思い入れが、生じている。顔が見えないことを、いいこととして、好き勝手な暴言を、吐き散らす人々は、所詮、何の価値もなく、単なるゴミに過ぎないが、中には、機会が訪れたことを、真剣に受け取り、激しい議論に、白熱していく。確かに、自らが、正しいと思う意見を、世に問うことは、昔なら、ほんの一握りの人だけの、権利と見做されていた。だが、誰もが、機会を得れば、玉石混淆、特に、現行の仕組みでは、悪いもの程、目立つこととなり、面白半分に、加勢する連中まで、登場してくる。ただ、議論の中心となる、主張に関する戦いならまだしも、その多くは、単に、言葉遣いの誤りを、指摘することで、良識を疑わせ、主張そのものへの、批判へと繋げる。これでは、真の議論とはならず、揚げ足取りの応酬、となるだけで、まさに、時間の無駄に終わる。こんな愚行に、精を上げる人々が、世に溢れていることは、将来への不安を、強め続けているが、渦中の人々は、そんなことは、委細構わず、端末との付き合いを、続けているようだ。確かに、議論が必要であり、その質を、向上させることが、重要なのだが、ただ単に、問題を指摘することが、議論と思い込む輩には、まともな話し合いは、期待できない。言葉尻の問題なら、手を入れるだけで、事が済むのだが、意見の違いは、互いの歩み寄りが、必要となり、時には、相手を叱責することや、罵り合いも、出てくる。それを恐れては、地力を、高めることは、望めない。

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