納税は、国民の義務の一つだが、理不尽な制度、と思う人は少なくない。自分の生活を、守ることに必死な人々にとって、そこから奪われるものを、少しでも減らしたい、と願うのは、当然のことに思える。だが、集まった税金を元に、生活が守られているのでは。
その辺りに、治世者と国民の間の、考え方の乖離が、ありそうに思える。治める側は、国を守り、秩序を保つ為に、様々な仕組みを、導入する。だが、その多くは、国民全てを対象とせず、一部を対象とする為に、恩恵に浴すかどうか、国民それぞれに、異なる解釈が、出てくる。なるべく、多くの人に、利益が巡るように、様々な工夫を凝らし、平等感を、催させようと、努めているけれど、受ける側の判断は、思い通りにはならない。そこで、多種多様な形で、工夫を行うことで、対象の幅を、広げようと努める。だが、これとても、完璧にならず、一部、抜け落ちてしまう。また、額の多少に応じて、得られる利益が異なると、そこに意識の差が生まれ、差別意識が強まる。最近の傾向は、ここに問題が、集中しているようだ。納めた額に応じて、利益が還元される、となれば満足するが、そうでないと、不平等を掲げ、反対の声を上げる。だが、この考え方には、大きな誤解が潜んでいる。高額納税者は、それだけの利益を得ており、それは、本人の努力によるものだが、その利益の源には、社会全体の関与がある。得た利益を、社会に還元することは、義務の一つと、考えられなくもない。ただ、この考え方には、自分中心の見方は、殆ど現れてこない。同じ考えに、基づくものとは、言えないだろうが、住んでいる場所とは、異なる場所で、税を納める行為が、最近持て囃されているのは、似たものかもしれない。ただ、現状では、利益追求が、優先されており、制度の歪みを、却って強める結果となり、問題が、拡大してしまった。改正が行われても、おそらく、一度根付いた、利益への考えが、消える筈もなく、また、別の問題が、生じるに違いない。根本からの見直しが、必要なのだ。
科学の世界では、確固たる根拠が、拠り所となる。その為に必要なのは、決まった条件で、何度も試みて、得られた結果と言われる。客観性、と呼ばれるものだが、細かな点で、決められない要素があり、それにより、値がばらつくことが、何度も試みる理由だろう。
それでも、一定の値が、得られないことを、想定する必要があり、確率を用いた、検証が行われる。絶対を、論じることができないのは、確率を、0にできない為で、そこを攻撃の標的とする、人々が、身勝手な論理を、押し付けてくる。ただ、確率で見れば、偶然もあり得る。そこにまた、付け入る隙ができ、偶然を必然と見做し、持論を展開する。どちらも、科学的な観点を、完全に欠いた論理であり、付き合う必要は、全く無い。にも拘わらず、完全否定が、できないことをいいことに、嵩に懸かって、攻めてくるのだ。こんな輩を、排除する為には、科学的な論理展開が、不可欠なのだが、どうも、感情に走る動物には、不向きな人が多いようだ。先日も、首を傾げたくなるような、報道が、なされていた。今、殆ど全ての原子力発電所が、停止させられているが、その再開の条件には、科学的とは思えぬものが、多々ある。確率を、根拠とする筈が、率の数値より、事の重大さを、優先する論法は、科学とは無縁と思う。天変地異は、長い歴史の中では、必ず起きるもの、と見做すことができる。だが、発電所の稼働期間では、と括ると、状況は一変する。先日の例では、津波の危険性を、避けるためとして、新たに設置された防波堤の、高さを超えるものが、想定されるとの指摘で、それを、参考値とするのは、曲論だとの意見だったが、その数値の、偶然とも思える一致に、驚いた人が居るだろう。22メートルの堤に、22.5メートルの波が来る、との想定は、流石に、と思ったが、科学的に十分検討した結果、とされている。だが、これは、と思いたくもなる。たとえ、それが非科学的だとしても。
分かり易い話に、飛び付く人が居る。そして、結局、騙されてしまった、と悔やむことになる。確かに、考えなくても、簡単に分かる話は、すぐに理解できた、と安心してしまい、隠されている、大切なことに、気付かない場合がある。それで、騙される訳だ。
一方で、うまい話には、というのも、困りものなのだ。欲が出ると、つい、都合よく考えて、肝心なことに、気付かないまま、失敗してしまう。こちらは、欲を抑えれば、防げるようだが、分かり易さは、そういう欲とは、違うもの、と思う人が多い。だが、こちらも、実は、欲によるものなのだ。分かりたい、という欲は、普段、あまり意識せずに、過ごしている。だが、分からなかったことが、分かった時に、それを喜ぶことを、考えてみれば、満足感という、欲を満たした感覚が、あるのだろう。この習慣が、次の問題を、招いていることは、更に、気付かれ難いものだ。分かり易い話に、自分が喜ぶことが、立場を変えれば、他人を喜ばせることに、話を分かり易くする、ことが結び付く。そこで、難しい話を、なるべく分かり易く、とすること自体に、問題はないのだが、嘘や間違いを、採り入れるとなると、大きな問題が起きる。この考え方の根本には、分かり易さの優先があり、間違いや誤りが、多少あったとしても、それが、理解を促すのなら、問題ないと考える。これをきっかけに、皆の注目を浴びると、その傾向が、更に強まり、嘘に嘘を重ねることも、止む無しと片付ける。それが、評価に繋がれば、好都合となると思うだろうが、これでは、欺瞞でしかない。不都合な結果を、捨て去り、都合のいいものだけを、残して、自分の主張を、貫くことで、高い評価を得ても、そんなものは、長続きはしない。教育現場で、こんなことが、頻繁に起きているが、問題とされておらず、困ったことになりつつある。
危険な人物が、何処に居るかを、明確にすべき、との意見がある。確かに、未然に防ぐ為に、様々な手立てを、講じる必要はあるが、と言って、人間が持つ権利を、侵すことは、できない。勢いで、論じようとする人には、この感覚は、無いようだが、そこにも、危険がある。
それと、似ているかは、はっきりしないが、凶悪事件を、起こした人間が、自らの命を、絶ったことが、伝えられると、多くの人が、「自分だけで」、との意見を掲げていた。多くの賛同が、得られていたが、そこに、異論を唱える意見が、投げかけられた。騒ぎを、起こしているだけ、と思えたので、読む気も起きず、放置したが、こういう遣り取りは、何の目的で、行われるのだろう。「一人で」、との思いを抱くのは、人の命の重さを、考えれば、当然のものと、思われるが、それを、妨げようとする意図は、すぐには見えてこない。だったら、読んでみれば、と言われるだろうが、偏った見方を、覗き見たとしても、役に立たない、と思えるのだ。如何にも、という調子で、こんな意見が、人々の目に、触れる機会は、確かに増えた。だが、その多くが、単に、不快を催し、気分を悪くするだけなら、無視を決め込むのも、一つの手立てでは、ないだろうか。最近は、こんな調子で、悪意に満ちた意見や、異常とも思える意見が、公開されるから、逆に言えば、そういうものを、拒否する権利を、行使する必要がある。これは、単に、見ずに済ます、ということで、彼らを、排除するとか、権利を剥奪するとか、そういった話ではない。危険を回避する為に、逃げるというのと、同じように、そういう危険思想を、避けることこそが、自分の権利を、守ることになる。確かに、面倒に違いなく、首を傾げたくなるが、それ程、危険な状況にある、ということだろう。
凶悪事件が、起こる度に、話題となるのは、如何にして、自分の身を守るか、という点だろう。狂気の果てに、人の命を、殺める人に対し、どう対処すべきか、皆は、大真面目に、議論している。だが、その場に、居合わせた時、何をどうするか、考えられるのか。
咄嗟のことで、何もできなかった、という人が居るのは、無意味なことと、思えるかもしれないが、実際には、それが、難を避ける秘訣、なのかもしれない。野生動物に、襲われた場合も、対峙し、対決するより、逃げる行為の方が、助かる確率は、遥かに高いと言われる。だが、熊や猪と違い、人間は、標的を定め、執拗に攻撃する。それを、見過ごすことが、できずに、助けに走れば、危険度は、確実に増すのだ。身内を、守る為に、という考えも、心情としては、理解できることだが、同じく、身の危険は、確実に増す。皆で、逃げることの、大切さは、今更、検討する必要は、無い。だが、それができるかは、各人の、気の持ちように、よるものとなる。萎縮してしまえば、行動も、鈍くなり、逃げることも、難しくなる。一方、危険を察知する力は、測る手立てが無いので、一般には、あまり理解されないが、重要な要素の一つだろう。これは、凶悪事件だけでなく、普段の、事故への対応でも、重要となる。だが、周囲を見回すと、そういう危険を、全く感じない人が、街に溢れていることに、気付かされる。安全安心が、心の底まで、染みているからか、危険な存在を、意識することもなく、危ない行動を、平気でしている。確率で考えれば、それでも、生き延びる方が、遥かに、可能性が高いから、少しくらい、注意を促しても、普段の行動に、変化を起こすことはない。ほんの僅かな、可能性とはいえ、少しでも、起こり得るのなら、普段から、注意した方がいい。何かがある度に、騒ぐくらいなら、始めてはどうか。
誰だって、失敗はしたくない。特に、礼を失したり、無作法を露呈するのは、恥の一つとも見做され、忌み嫌うものだ。だが、不慣れな場では、無意識で、そんな失態を繰り返し、時に、嘲笑の対象と、なってしまう。海の向こうから、やってきた人物も、そんな具合だった。
まるで、観光客、などと揶揄されたが、一般の観光客に、あれ程の手厚い、扱いはあり得ない。そんな中で、舞台に上がり、自らが持ち込んだ、賞を授与する、役割を果たしていた。だが、その一挙手一投足に、人々の注目の目が、釘付けとなり、失態とも思える挙動に、苦笑いを、した人も多かったろう。館内では、強面の見張り役が、取り囲む中で、流石に、馬鹿にするような態度を、とることは、憚られたろうが、画面のこちら側では、安心して、冷ややかな目を向けていたろうが、まさか、と思うことも、あったに違いない。だからこそ、その後の報道では、その光景が、流されることは、なかった。それは、片手に保持した、表彰状を、読み間違いのないように、強張った表情で、読む姿ではなく、その後に、優勝力士に、手渡す姿にあった。読んだ時同様に、片手で持ったまま、相手に、手渡す姿は、見慣れた光景とは、明らかに違っていた。受け取る側も、戸惑いの表情を、表しつつ、突き付けられた賞状を、神妙に、両手で受け取っていた。そこに漂っていた、強い違和感は、場内では、強まらなかったようだが、やはり、悪い印象を、残したようだ。だからこそ、その後の報道には、その姿は、流されることなく、重い賞杯を、助けを借りつつ、手渡す姿が、何度も流された。どんな印象を、残したのだろうか。海の向こうの新聞でも、後者の写真が、使われていたのは、何かを、意味するからだろうか。
礼儀作法、伝統に基づいた、あるべき人間の姿を、表すものと言われる。だが、最近は、生き死にに無関係で、無駄なものとして、蔑ろにされる場合が、多いのではないか。理解ある年寄りは、何もできない若者に、苦言を呈することなく、優しく接している。
だが、優しさだけが、好まれる中で、叱責などの、厳しさを表す行為は、忌み嫌われ、それを端緒に、敬遠されることに、なると言われる。それを恐れるからか、年長者が、それまでに、身に付けてきた、礼儀作法を、次の世代に、繋げようとせず、常識外れの行動を、放置している。確かに、気楽に暮らせれば、誰もが、人生を、楽しむことができる。だが、それが、突然、厳しい対応に遭遇し、精神的な圧迫から、楽しみが、飛んでしまうとしたら、考え物ではないか。最低限の礼儀や、形式に則った作法に、無駄との烙印を、押す人が多いが、互いに、気持ち良く過ごす為の、方策と考えれば、様子が違ってくる。思ったことを、全て口に出せば、相手に、不快な気持ちを、起こさせる。自己中心的な言動を、繰り返せば、場の雰囲気を、壊すことになる。そんなことが、起きぬように、配慮することに、無駄と叫ぶ人の多くは、自分が、逆の立場にある時、まさに、強い不快感を、表明するのではないか。お互い様、という考えも、この国独特と、思われているが、実際には、世界中、何処に行っても、程度の違いはあれ、存在しているものだ。人が集まり、生活する中で、互いの気持ちを、良好に保つ為の工夫として、長い時間をかけて、編み出された方法を、一刀両断に、してしまうのは、間違いと言える。また、自分の身を守る為の、手立てとして、礼儀や作法が、あるのだと考えれば、納得できるのではないか。