パンチの独り言

(6月3日〜6月9日)
(見当違い、行き止まり、普通なのか、性差、揺らぐ心理、老化対策、自己崩壊)



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6月9日(日)−自己崩壊

 将来への不安、を抱かない人は、居ないだろう。では、その不安を、解消する為の手立ては、持ち合わせているのか。こちらに、確かな答えを、出せる人は、居ないのではないか。だとして、何をどうすればいいのか。答えが出せないままに、時間が過ぎていく。
 そんな中で、不安を煽るような、報道がなされた。社会的な仕組みが、整えられる中で、人々の暮らしは、ある意味、楽になっている。だからこそ、長生きする人の数が、増え続けて、平均寿命が、伸びていく。となれば、人々は、長く続く将来を、どう生き延びるかに、気持ちが向く。そこに、役所の調査結果が、届いたというのが、報道の中身だ。そこには、庶民から見れば、高額な蓄えが、必要となるという、ある意味での、警告にも似た内容が、綴られていたとある。将来への不安が、公的な支えの脆弱さから、来るものだけに、そこへの整備を、高める代わりに、個人の努力を、促すような内容は、強い反発を、招いたようだ。そこには、今更、高額の蓄えと言われても、何の備えもないのだから、無理難題と、受け取る風潮があったらしい。だが、不安があるなら、その備えをするのは、当然のこと、という論理は、そこには存在せず、何もかも、頼りきりたい、という期待ばかりが、前面に押し出されている。全体に、そんな調子があり、何事にも、今は楽しみたいが、将来については、考えたくない、という身勝手な論理が、適用されている。これを、不思議と思うかどうかも、人それぞれであるに違いないが、だからと言って、このような反発が、当然と見るべきかは、全く違うように思う。だが、庶民の叫びを、殊更に取り上げる報道は、この機に乗じて、無理難題を、持ち出そうとしているようだ。このまま行けば、出すものは出さず、貰えるものを貰う、という無理が、通りそうにさえ、思えてくる。自滅が、目に見えているのに、何故なのか。

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6月8日(土)−老化対策

 交通事故で、亡くなる人の数は、減り続けている。徐々に、安全が確保されつつある、とも思えるが、本当に、そうだろうか。そんなことを、思いたくなるのは、毎日報道される、事故の状況が、昔と変わらないだけでなく、新たな様相を、示し始めたからだ。
 その中でも、高齢者による事故は、人々に、様々な思いを、抱かせている。思い通りに、動かぬ体で、無理を承知で、運転する高齢者達は、それぞれに事情が、あると言われているが、だからと言って、人の命を、奪うような行為が、許されるものではない。だが、だからと言って、何の検証も無く、ただ、権利を奪えばいい、というものでもないだろう。元々、運転における免許制度は、様々な制限を、設けている。例えば、ある年齢に達しないと、取得できないのは、その典型的なものだ。そこから、下限だけでなく、上限を設ける、という考えに、結び付くのは、ごく自然なことに、思えるのだろう。自由意志による、返納という行為に、期待が持てない為に、無理矢理はぎ取ってしまう、という蛮行にさえ、話が及ぶ状況は、問題の深刻さを、表している。だが、権利を保障することと、制限をかけることは、相容れない考え方で、簡単には、結論に至ることはできない。だったら、どうすればいいのか。今の状況は、極端な例を、挙げるばかりで、答えには、到達できそうにない。一方で、取得の時と同じように、最低限の能力が、維持できているかを、確かめる方法も、続けられている。ただ、これについても、年齢制限の上に、課せられるだけで、歪んだ考え方、と見做せる。だとしたら、どんな方策があるのか。ただ奪うことだけでなく、代替を設けることも、重要とされる。そちらについても、社会として、どんな方策が、あるのか。この問題も、解決しなければ、先へは進めない。

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6月7日(金)−揺らぐ心理

 人間の心理とは、まことに不思議なものだ。実際がどうなのか、に関わらず、自分が何を望むか、が表に現れる。根拠となるのは、直感でしかなく、他人に説明しようとしても、うまくいかないことが多い。だが、それでも、信じる者は、救われるとなるのだ。
 一方で、内からではなく、外からの働きかけで、心理が、振り回されることも、多々ある。自身の中から、出てくる不安を、打ち消すことも、難しいものだが、外からとなると、影響を与える力は、自分の力で、どうにかなる訳ではない。その為、必死で抵抗しても、解消されることのない、不安に押し潰されることも、起きるらしい。所詮、自分は自分であり、他人が関わってきても、解決するのは、自分の力でしかない。にも拘わらず、様々な形で、圧力をかけられて、潰され兼ねない状況に、陥ることとなる。だが、これも、自分で脱出するしかない。それを、いつまでも、やられるままに、放置しているとしたら、責任は、自身にあるとなる。だったら、どうやれば、こんな状況から、脱することができるのか。考えるより、先に、行動した方がいい。放置していても、うまくいかないのなら、動いてみて、失敗を繰り返した方が、余程ましなのではないか。では、悩むことは、無駄なのか。これに関しては、すぐには、答えは出せない。やってみて、失敗したら、やり直す。その繰り返しが、危機を脱する、きっかけとなる。だが、そこから逃げては、何も掴めない。だったら、無駄だろうが、なんだろうが、動くしかない。たったこれだけのことに、何故、多くの人が、悩み苦しむのか。その答えは、やはり、すぐには、出てこない。だけど、やってみたら、という助言は、やはり、大切なものとなる。頑張ってみたら、何とかなるのだ。

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6月6日(木)−性差

 性の違いを、どう論じるかが、定まっていない。差は無い、との主張が、注目されており、それを支持する根拠も、明らかになりつつある、と言われる。だが、心情的には、少ないながらも、差が確かに有り、それに合わせた対応が、必要と思う人も居る。
 一つだけ、確かなことは、次の世代を、産む能力であり、その差は、埋められないもの、となる。だが、これとて、自らの性を、どう考えるかにより、その能力を、拒む人が出たり、様々な要因により、失ってしまう場合もあり、それだけを、拠り所とするのは、差別意識を、芽生えさせることになる、という懸念が伝えられる。だが、社会には、別の差を、際立たせようとする人が、居ることも事実だ。差別ではなく、区別の一つ、と捉えているが、性差が、様々な能力に、反映されるとする主張は、怪しげなものもあるが、一部には、科学的根拠を、示している、と受け取られるものも、あるようだ。だが、その多くは、明確な差を、示したものではなく、統計的な処理により、意味の有る差が、示された、としている。つまり、多くの場合に、差が存在するものの、それは、性が異なれば、全く異なる能力に、結び付くというような、単純なものではない。だが、差を示し、それを基に、主張を通そうとする人には、それだけでも、十分なものとなる。そこから、区別を明確にし、役割分担を含め、あらゆることに、それを結び付けようとする。社会では、正反対の動きに、注目が集まるだけに、強い逆風が吹くと、思えるのだが、実際には、支持者の数は、かなりに上るようだ。この違いは、何によるのか。単純には、根拠よりも、感覚の方が、優先されており、ある種の先入観が、強く出た結果、と言えるだろう。ただ、議論が沸騰する中でも、はじめに書いた、確かなことだけは、無視しないようにしたい。

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6月5日(水)−普通なのか

 普通では、いけないのだろうか。人と違うことを、行う人々に、注目する傾向が、強まっている。現状を、打破する力に、期待が向くのだが、それが、普通ではない、という考えに、違和感を覚える。人と違わないと、打ち破れない、と考えるのは、どうしてだろうか。
 成長を続けていた頃、こんな考えを、持ち出す必要は、全く無かった。皆が、一つの方向に、向かうことで、成長が、約束されていたからだ。だが、その勢いが、鈍り始め、更に、負の値を示すと、皆の頭の中に、新たな展開を、期待する考えが、生まれ始めた。それでも、従来のやり方に、しがみつく人々は、新展開に、漕ぎ出そうとは、思わなかった。そこで、社会全体として、推進する為と称して、人並みではない提案を、優先的に取り上げることに、なったのだ。これにより、単純に、現状打破を、目指した筈だが、今の所、思惑通りには、進んでいない。それでも、この方策の重要性を、強調したい人達は、依然として、枠から外れた人を、拾い上げようとする。実際には、こんなことの是非を、論じても、仕方ないのだろう。それより、普通では駄目だ、という考えを、矯めさねばならない。この考えが、拠り所とするのは、平均では不足する、という実情らしいが、ここに、大きな問題がある。成長が止まり、現状維持が、やっとという状態では、人々の意欲は、高まることなく、維持を目指そうとする。それにより、人並みが、最大の目標となり、いつの間にか、釣鐘型の分布ではなく、歪な分布を、示すようになった。以前なら、平均と普通が、重なり合っていたのに、今では、最も大きな集団が、普通でもなく、平均でもない所に、位置している。本来なら、こちらの方が、普通でないのだが、多数というだけで、普通として扱われる。ここにこそ、重大な問題がある。皆と同じだから、普通であるという主張には、明らかな誤りがある。

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6月4日(火)−行き止まり

 自動、という一言に、込められた意味は、それぞれに、異なっている。事故を起こした、路線の場合は、多くの営業路線と同様に、個々の列車の、自動制御と同時に、中央管制的な、総合的制御も、行われている。そうでなければ、多数の編成を、同時に運行できない。
 鉄道の制御は、自動化されたとしても、単独のものだけでなく、複数のものを、総合的に制御する必要があり、単純な仕組みでは、成立しない。だが、最近、盛んに話題に上る、自動車の自動運転は、個々の制御のみで、総合的な仕組みは、採り入れられていない。鉄道路線と異なり、限られた範囲での整備では済まず、多種多様な制御を、一から始めるとなると、個々の企業が、推進するだけでは、到達できない。それに比べれば、路線が限られ、既に、その整備が済んでいる、鉄道の場合は、制御を担うソフトの開発で、殆ど全てが終わる。この違いは、小さく思えるかもしれないが、実は、非常に大きなものだ。逆に言えば、個々の整備で済む、自動車の自動運転は、それぞれの問題として、解決すればよく、異常が起きても、他には波及しない。しかし、鉄道では、仕組み全体の問題であり、解決には、かなりの時間と手間が、かかることになるだろう。だが、今回の事故に限れば、中央制御と個々の編成の、互いの間で起きた矛盾としても、根本的に、回避できる仕組みを、採り入れていたかどうかが、最大の課題となる。運行途中での、異常な動作と違い、本来、起きる筈のない動作だけに、それを、回避する仕組みが、何よりも優先されるように、設定されていなかったとすれば、基本設計として、欠陥があったとなる。終着駅から、折り返し運転を、行うのは、当然の動作だが、だとしたら、そこを越えて、先に暴走することは、何よりも優先して、起きないような設定が必要だ。それが起きたのは、まさに、基本を怠った結果、なのかもしれない。

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6月3日(月)−見当違い

 事故が起きる度に、議論が始まる。原因究明に、参加するわけではなく、単なる、野次馬に過ぎないが、まるで、豊かな見識を、有するが如くの言い様に、強い違和感を覚える。専門家でもなく、発する言葉に、責任を負う様子は、見えてこない。だが、強い主張は、見える。
 庶民感覚で、感想を述べることが、どれ程の意味を、持つのかはわからない。だが、画面に登場する、多くの人々は、個々の感想を、連ねている。その行為が、どんな影響を、及ぼすのかは、殆どわからないが、多くの時間を費やし、無駄なことを、繰り返しているのか、疑問に思うことは、多々ある。今回の事故も、無人運転の電車が、想定外の動作を、示したことから、強い反応が、示されている。だが、そこから、引き合いに出されるものが、自動運転となると、知識のないままに、話題を広げる危険性に、違和感どころか、怒りまで覚えてくる。電車の運行において、各車両が、独自の制御で、走らされる訳ではなく、他の車両の状況を、把握する中で、無人のまま、走っている。自動と言いながら、今、話題に上る、自動車のものとは、全く異なる方式で、運行されているのだ。その理解もないままに、更に、そこに話題が及ばないままに、議論が続けられる。ここから先は、心配とか、危険とか、そんな言葉が、羅列するだけで、何の意味もない。何故、という疑問も、方向違いが続き、無駄な時間でしかない。この事故の場合も、どんな安全策が、講じられていたか、全く論じないままに、異常ばかりに、目が奪われる。科学に対する知識欠如が、こんな状況を、招いているとされるが、実は、そこには、知識欠如よりも、姿勢にこそ、問題があるのだ。安全を目指す為に、策を講じようとすれば、多くの可能性を、拾い上げる必要がある。その気を持たずに、表面的なことだけで、議論する程、馬鹿げたことはない。

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