パンチの独り言

(6月10日〜6月16日)
(正当化、支離滅裂、無政府状態、不都合、コロコロと、減点法、染め直し)



[独り言メインメニュー] [週ごと] [検索用] [最新号] [読んだ本]



6月16日(日)−染め直し

 教育現場が、荒れている、と伝えられる。そう聞けば、多くの人は、いじめや暴力などを、思い浮かべるだろうが、それだけでは、ないようだ。子供を、育てる場としての役割を、果たせなくなり、何処に向かうべきかが、見えなくなる。そんな深刻な状況、なのだ。
 最低限のことは、役所が決めた通りに、行えばいい、となっているが、それさえも、不確かな状態が、続いている。政策の過ち、と言ってしまえば、その通りなのだが、あれやこれや、試してみたが、どれも、うまくいかなかった。そんな状態が、長年続いた結果、現場の状況は、皆が思うより、遥かに深刻なものと、なっている。何故なら、その長年の積み重ねで、現場で活躍すべき、人材の多くが、混乱の中で、効果を示せなかった、盲撃ちの教育を、受けてきたからだ。人間は、自分の経験を基に、他の人への関わりを、作っていく。確固たる仕組みが、できていれば、そこに積み上げるのも、ただ単に、載せればいいだけのことだ。だが、基礎が不安定では、何を積み上げても、傾いたり、崩れたりする。そんな不安は、自信を築かせず、怪しげな事柄や、危うげな物事を、さも確かなことのように、伝えていくことへと、繋がっている。一部の評判に、振り回されて、明らかな間違いさえ、教え込もうとする人間が、現場にうようよ居るのだ。結果、その不確かさや誤りが、無垢な子供達を、染め上げて、間違いを、間違いとして、批判できない人間が、育て上げられる。鵜呑みにしたり、正しいことを、認めなかったり、そんな人間を、育てることが、現場に任された、務めでは、決してない。にも拘わらず、それが繰り返されており、歪みは、解消されることなく、社会全体に、蓄積しつつある。経験に基づく以上、この歪みを、取り除くのは、容易なことではない。白い画用紙に、色をつけているのは、大の大人なのだ。

* * * * * * * *

6月15日(土)−減点法

 高度成長が止まり、停滞から、衰退へと、移り変わっていた時代、給与体系に、大きな変化が、現れていた。年功序列が、当たり前とされる中、能力給と呼ばれる、仕組みが導入された。しかも、他人による評価ではなく、自己評価のみを、採った所もあった。
 画期的とも、持て囃されていたが、いつの間にか、姿を消してしまった。当たり前となり、取り上げられなくなった、のかもしれないが、一切、話題に上らなくなったのは、やはり、廃止されたのではないか。自己評価として、確固たる目標を定め、その達成度合いを、給与に反映させることは、自分を磨き、向上させようとする、意欲を、引き出す為に、有効とされていた。だが、何処かで、歯車が狂ったようだ。向上ではなく、停滞が目立つようになり、企業全体の業績が、振るわなくなると、勢いを失ってしまった。元通りの、年功序列に戻り、安定を手に入れたが、成長期と異なり、衰退期では、悪化を避ける気持ちばかりが、前面に押し出され、業績の回復は、更に遅れてしまった。これが、予想以上に長く続き、閉塞感が、強まり始めると、再び、現状打開を、望む声が、強まってきた。となれば、意欲を高める方策が、必要となる。能力給が、復活し始め、評価の重要性が、再び、強調されてきた。だが、衰退、閉塞は、依然として、止まる気配を、見せてこない。となれば、長所を評価するだけでは、不十分との声が出て、ついには、短所を拾い上げ、それを、負の評価へと、結びつけようとの動きが、始まったようだ。だが、これでは、まるで懲戒処分に思える。本来、倫理や法律に反する行為への、懲罰としての減俸は、社会秩序に必要と、見做されるが、成績不振や目標未達成を、その対象としては、意欲減退を、招きかねない。それを、強要するような仕組みの導入を、組織が図っているとしたら、やはり、強い反発が、湧き出すのではないか。

* * * * * * * *

6月14日(金)−コロコロと

 今、新聞の履歴書を、書いている人物は、役人から、ある意味の頂点へと、登り詰めたと言われる。まだ、役人時代の思い出だけが、綴られているが、これだけでも、彼らの果たした役割が、見えてくるのだろう。ただ、官僚政治、と言われた時代とは、今は違う。
 腐敗政治の象徴として、官僚達を、槍玉に挙げたのは、誰だったのだろう。政治家とは異なり、役職だけでしか、公に知られない人々が、暗躍している、と指摘したのは、やはり、一部の報道者だろう。彼らは、政治家への攻勢を、強めていた時代を経て、次の標的として、官僚への攻撃を始めた。始めに書いた人物も、国を支えようと、全力を尽くした、と述べているが、その自負心を、揺るがすような攻撃に、逃げ出す人も居ただろう。それが、次代を担う人々の、参加を妨げることとなり、名誉より金を求める風潮は、官僚の質の低下を、招いたとも言われる。そんな状況が、如実に表れているのは、ここ数年、話題に上ってきた、官僚達がしでかした不祥事であり、名誉さえ、捻じ曲げた業績により、手に入れるようと、不正を繰り返した結果、と言える。質の低下が、著しいと思えるのは、猫の目行政とも言うべき、朝令暮改政策の、乱発という事態だろう。数年前、予算確保の問題から、一部の法人の給与体系を、変更する指針が、示された。退職金を準備する為の、予算の確保が、難しくなるので、それを、定年までの期間に、組み込むことで、回避しようとの方策だったようだが、5年も経たぬうちに、方針転換が、始まったとある。回避する筈が、実は、各年に分配した筈の給与が、膨らんだ結果、予算の確保が難しくなり、前言撤回した訳だ。だが、それぞれを担当したのは、違う係官であり、彼らは、何の責任も負わない。単に、現場の混乱が、強まっただけで、省庁に巣食う、血の巡りの悪い役人達は、何の反省もせず、押し付けを続ける。こんな輩が、書き上げた政策を、能の無い政治家が、議論しても、国を支えることは、できる筈がない。

* * * * * * * *

6月13日(木)−不都合

 都合が悪い、とされたと伝えられる。だが、何が、どう、都合が悪いのか。その理由は、定かではない。ただ単に、感情的な反応が、著しくなったから、ということに、思えてくる。しかし、そこに書かれた試算は、確かな調査を基に、行われたものだった筈だ。
 だから、逆に、都合が悪くとも、それが起きる可能性が、高いからこそ、明記されたのではないか。だとしたら、都合を、これ以上悪くしない為にも、各自が、それぞれなりに、対策を講じることが、重要なのだ。にも拘わらず、煽ることを、務めと任じる人々は、ここぞとばかり、都合悪さを、強調している。政治家の思惑を、読み取ろうとする動きは、突如として、大きくなった。きちんとした計算より、不確かなことを、あれこれと論じる方が、得意な人々は、我が意を得たり、とばかりに、誤った解釈を、さも、当然のことのように、世に広めようとする。だが、間違いは、間違いであり、試算と比べると、その解釈は、杜撰としか言えない代物となる。年金だけで、十分な生活を、保てるとの主張を、役人達が、挙って行い、それを盲信した、政治家達が、自分達の主張として、請け売りを続ける。だが、もし、何もかもが、矛盾なく成立するなら、今回の増税は、不要となるではないか。そちらでは、必要性を主張し、一方で、足らなさを主張する。これは明らかな矛盾であり、それを埋め合わせる為に、必要なことを、試算した結果に過ぎないものを、不都合とばかり、破り捨てようとする。煽りに夢中の人々も、流石に、中身を読んだらしく、試算の為の、前提こそが、核心と気付いたらしい。今更のように、妥当な解釈を施し、不都合との判断を、糾弾し始めた。掌を返すような、身勝手な言動を、繰り返すのは、彼らのお家芸だが、そろそろ、そんなことに振り回されず、自分なりの判断を下すことが、必要なのだ。

* * * * * * * *

6月12日(水)−無政府状態

 昨日の人物は、確かに、企業の長であり、人々を率いる力が、あるとの評価は、正しいだろう。だが、政治経験は、皆無な訳で、支離滅裂となるのは、当然のこととも思える。にも拘わらず、選んだ人々は、彼の主張に同調し、その強硬姿勢に、期待したのだろう。
 だが、政治の世界では、私企業での力関係が、通用しないのは、火を見るよりも明らかで、乱暴な手法は、様々な批判を、浴びることとなった。それでも、強大な力を、有していることに、変わりはない。あれやこれやと、すり抜けられる部分で、強行策を、断行し続けている。ただ、それでも、公約の遂行には、足らない部分が多く、再選を目指す中で、奇策を講じようと、暗躍しているように思える。愚民政治の展開、とも思える状況だが、同じことは、海を挟んだ国でも、起きている。こちらは、政治家が、引き起こした混乱、とも言われ、責任を取る、という形で、舞台を去る党首の姿に、正反対の状況を、思い浮かべる人も多い。つまり、本来、政治的な判断で、国の進むべき方向を、定めることが、政治家に課せられた責任の筈が、それを、確実にする為と称して、国民全体に、判断を委ねた結果、自らが進めたいものと、異なる結果が出たとして、その任には当たれない、として退陣したのだが、これを、無責任と見るのは、間違いなのか。その後を継いだ首相も、彼女なりの努力を重ねたが、所詮、無理筋を、抑えることしか、できないままに、賛同が得られず、再び、辞任の憂き目を、見ることとなった。議会に属する、所謂「政治家」達が、ほぼ全ての提案に、反対した結果だが、議論の行き着く先を、示せないままに、議決を取るのでは、当然の帰結、とも言えそうだ。多くの国での混乱は、同じ原因によるもの、と思えるが、それを、解決する為には、政治家が、基本に立ち返り、政を、行うしかないのだ。

* * * * * * * *

6月11日(火)−支離滅裂

 何故、選ばれたのかが、依然として、明確にはなっていない。最近の選挙では、どの国でも、ある傾向が、突然強まり、それが水準を超えると、予想外の候補でも、勝利を得ることができる、と言われる。元々、投票行為に、決まった法則がなく、こんなことも起きる。
 それでも、何重にも、選び続ければ、結果として、最適な人が、選ばれる、と言われた方式も、今回は、勢いに押され、不適格とさえ、言われていた候補が、白い館に入った。これという政策もなく、極端な意見を、前面に押し出すことで、一部の熱狂を、勝ち得たことが、結果を招いたとも言われる。だが、そんな人間が、選ばれれば、極端が継続するばかりか、その程度が、更に強まるとは、多くの人は、思い描けなかった。対抗馬に、票を入れた人間は、それはそれで、やはり、という思いを抱くだけで、早く、こんな酷い時代が、過ぎればいいのに、と祈るだけだが、一方の、期待を抱いて、票を投じた人々は、その後の展開に、一喜一憂するしかない。極端さと意外さ、皆が期待したものは、その後、どんな展開を見せてきたか。おそらく、皆を満足させることは、できていないだろう。にも拘わらず、依然として、高支持率を保つことには、何かしらの秘訣が、あるのではないか、と思わされる。だが、やっていることは、単純なのだ。極端と意外、それだけを求め、出鱈目を続ける。要するに、支離滅裂なのだ。この人物に関する書籍は、数多く出ているが、中でも、多く売れたと伝えられたものを、珍しく、手に取ってみた。結果は、やはり、支離滅裂だった。こんな人物を、捉えようとの試みは、成功したのかもしれない。が、結果は、失敗なのだ。支離滅裂は、所詮、出鱈目の山積みで、それを、説いたとしても、理解不能であり、意味不明の連続なのだ。だが、話題性だけで、政は、できないのだが、さて。

* * * * * * * *

6月10日(月)−正当化

 誰だって、悪者には、なりたくない。それは、国とて同じことで、歴史上の出来事に、様々な間違いがあっても、それらの正当性を、訴える。誰が見ても、過ちと思えるものは、流石に、無理と片付けられるが、そうでなければ、手練手管を弄してでも、正当とする。
 ただ、この行為では、個別の例に対して、正当化を試みるから、多種多様な例について、一貫性が保てなくなる。その多くは、攻撃の標的となり、厳しい批判が、浴びせかけられる。それでも、国としての体面を、保とうとすれば、そこにある矛盾も、多くは、意図的に無視される。勝手な都合で、様々に論じられるが、そこに、妥当性は見出せない。そのままに、国内事情としては、正当化が整い、何の問題もない、と結論付けられる。まさに、その状態にある、と見えたのは、6月4日に起きた事件の、総括に関する、あの国の政府の姿勢だ。彼らの拠り所は、経済発展による、国民の生活水準の上昇にあり、それを根拠に、嘗ての弾圧を、正当化している。まるで、そんな事件が、無かったかの如く、情報統制を続け、事実を知る人々への、依然として続く弾圧の、正当化を、徹底して続けている。互いに矛盾する仕組みを、組み合わせることで、爆発的な成長を、勝ち得たことは、事実として、認められるべきことだが、それが、続けば続く程、互いの矛盾の溝は、深まるばかりであり、圧力は、増し続けている。その中で、体制の保持には、変化をしないことが、最善の策と、ある方針の転換が、図られてきた。それが招いたものは、確かな安定であるが、それが早晩、腐敗へと結び付くことは、建国からの経緯を、見返せば、容易に明らかとなる。経験から、防ぐことが、可能との見込みが、後押しするとの期待も、これまでの、多くの国の存亡を、眺めれば、危うさが見え隠れする。総括さえせず、情報を、隠すだけの姿勢では、崩壊の危険性は、高まるだけだ。外圧を、敵と見做し、内圧を、下げる手立ても、無駄に見える。

(since 2002/4/3)