国際的な評価を、高める為と称して、様々な方策が、講じられている。改革は、大いに結構なことだが、それによって、何をどうより良くするのか、殆ど考えられていない。いやいや、ちゃんと考えられている。それは、評価を高める為だ、と言われる。
だが、これでは、本末転倒だろう。評価は、後から付いてくるもの、成果が上がってこそ、その意味が出てくる。この問題は、色々な所で、取り沙汰されている。中でも、教育機関については、国の将来を、担う人材の育成に、関するものだけに、疎かにしてはいけない。ここでの国際評価は、当然ながら、外国の機関が、下したものである。その基準は、実は、理解に苦しむ部分もあり、教育事情が、国ごとに異なることを、痛感させられる。だが、そんな事情は、全く無視され、出された結果のみが、取り上げられる。世界で、何番目に位置したか、ここ数年の変化はどうか、等々、議論の材料が、突きつけられる。だが、肝心なものが、含まれていないことに、誰も、気付かないのだろうか。教育とは、本来、次代を担う人材を、教え育むことである。だが、この評価で中心となる「国際」の基準は、如何に、国外の人々の、魅力となっているか、とされる。長い目で見れば、これでも、人材育成に、十分貢献できる、とされるが、人を育てる上で、国際的な指標は、ほぼ無意味なものだ。彼らが、能力として、何を身につけるか、という点が、全てであり、その中には、国際性という指標が、無い訳ではないが、肝心な、核となる能力が、不十分なままで、国際性だけが、伸ばされても、何の意味もなさない。では、何が肝心なのか。論理性とか、思考力とか、そんな指標で、見るべきものは、「国際」という括りとは、かけ離れたものだろう。もう、こんなこと、追いかける必要はない。それより、人を育てることに、精を出せ。
予想通りの結果、だったのだろうか。多額の助成金を、一部の機関に、注ぎ込んだ結果は、結果的に、効率の悪さを、露呈することとなった。選択と集中、今の時代に、持て囃される戦略だが、それによって、得られた成果は、高くつくものとなった。
こんなことを、今更のように、掲載した意図は、何処にあるのか。金にものを言わせ、という感覚を、揶揄するものか、あるいは、警告のつもりなのか。何れにしても、捉え方により、全く異なる結果が、出てくることだけは、示せたのだろう。だが、これで、何が言えるのか、という点に関しては、まだ、何も出ていない。単に、効率良さも、一つの指標となる、ということだけは、示せたと言われる。でも、どうだろうか。研究における、効率とは、何を意味するのか。地道な活動で、長い時間をかけ、確実な結果を、手にすることは、効率とは、正反対の状況ではないか。もし、効率だけを、求めるのなら、誰もが知る結果を、得ることこそが、早道と思える。だが、これでは、新しい発見は、望めない。最近は、専門の研究機関だけでなく、所謂、市井の研究家による、発見に、注目する動きがあり、その一つの例が、高校生による研究、となっている。経費は、当然、少なく済むし、彼らは、極端な言い方をすれば、勉強の片手間で、行っているだけだから、金額だけでなく、時間に関しても、短くまとめられている。それでも、耳目を集める成果が、得られたことに、社会が注目するのだが、だからと言って、専門的なものも、同じようにできる、とは言えないだろう。ただ、今のような状況では、人件費が、最も大きな経費となり、それが、一種の足枷となっている。何故、こんな状況に、陥ってしまったのか。選択と集中、と言いながら、状況に、大きな変化が起きたことに、気付かないからなのか。
成長が確実だった時代には、少々の問題には、目を瞑る、と言われていた。心理的な余裕、と論じる人も居るが、当時、そんなことが、取り沙汰されることは、全く無かった。その代わり、先行投資に似た感覚が、其処彼処に、漂っていたのではないか。
ただ、この感覚も、今のものとは、大きく異なっている。将来の為、という点では、同じ線上に、乗っかっているが、その先の見方が、大きく違っている。役に立つ、という掛け声に、皆が同調するのが、今の考え方で、その保証があってこそ、投資の意味が出てくる、とされている。だが、嘗ての感覚は、そんな下らないことに、誰も、目を向けておらず、将来は、不確定なもの、という前提が、置かれていた。道筋が、決まっていないからこそ、様々なことを、試みる必要があり、そこには、一切、無駄はない、とされていた。だが、成長が止まり、衰退が始まると、世知辛い時代が、覆い被さってくる。何の役に立つのか、何に応用できるのか、等々、明らかにせよ、との要求が、高まってきて、幅が、極端に狭められてきた。結果は、まさに、悲惨なものとなっている。経済状況は、改善する気配も見えず、その中で、更に、圧力が高められ、多方面に、悪影響が広がっている。人材育成も、その一つであり、即戦力という言葉の、意味さえも、大きく変わってきた。だが、最も深刻なのは、実は、庶民にとって、遠い存在だったものに、現れている。研究、それも、応用を標榜するものではなく、「基礎」と括られるものが、深刻な事態に、陥っている。国際評価でも、低下は著しく、元凶を、見つけようと、躍起になる人も居るが、実は、はじめに取り上げた、考え方こそが、問題なのだ。多種多様が、許された時代、偶々当たった話が、時に見つかったが、今では、結果が明らかなものしか、対象となり得ず、結果、外れ籤ばかり、となってしまう。予想通りの研究結果は、所詮、役立たずであり、それこそ、目的には、合致しないのだ。
的を外している、と思えることが、急激に増えてきている。特に、と思うのは、やはり、教育に関わる部分、だろう。資質とは、各自が持ち合わせる能力、と思われるが、それを得る為に、より高度な教育を、受けようとする。これを、当然と見るだろうか。
もし、賛同するのなら、それは、おそらく、時代遅れの象徴、と見做されるだろう。今では、教育とは、単に、ある権利を、得る為のもの過ぎず、それさえ、手に入れば、それで十分、とされている。権利とは、人生を、楽しく暮らす為のものであり、そこまで到達すれば、満足が得られる、と言われている。資質があるからこそ、権利が得られる、と考えるのは、的外れなのだ。肩書きについて、色々と取り沙汰されるが、学歴も、その一つと言われる。何を学んだか、ではなく、何処に通ったか、が問われる社会では、履歴書に書き込む、学校名こそが、重要となる訳だ。能力給とか、学歴不問とか、そんな時代と言われるが、現実には、得た権利を、行使することだけで、現場での能力は、問われることなく、人生の日々が、過ぎていく。自らを、高める為の進学、などと惚けたことを、書き並べても、現実は、まさに、現実的なことしか、気にしていないのだ。こんな時代となり、教室は、ただ、出てくることだけで、義務を果たした、と思い込む、不埒な連中で、溢れている。教える側も、何の反応も示さず、ただ、せっせと、書き写すことだけに、精を上げる連中に、働き掛ける気は、とうに薄れている。社会に出ても、一部の成り上がり者を除き、多くは、現状に満足し、その権利に、しがみつくだけだ。そんな人達に、どんな権利が、と思う人は多いだろうが、彼らにも、立派な権利がある。ただ、それに付随する形で、出てくる筈の義務は、何処かに消し飛んでしまっただけだ。
誰も見てない。こんなことを、言い訳にする人が、殆どなのだろう。お天道様、などと言われたのも、遥か昔、罰が当たる、というのも、同じ根にあることだが、こちらも、殆ど通用しない。信心の問題、と考えることも、できるのだろうが、実際には、別のことだろう。
子供の頃から、こんな思いを抱きながら、悪さを繰り返した、経験を持たない人は、多分、居ないだろう。何しろ、興味を抱けば、試してみたくなるのは、人の常なのだ。欲に駆られて、という考えは、もっと後になってから、出てくるもので、多分、小さな頃には、欲というには、あまりにも単純な、ことによるものだろう。だが、それも、年齢を重ねるうちに、徐々に、制御が利くようになる。秩序を、優先して考えることで、たとえ、周囲に誰も居なくても、いけないことは、いけないことと、考えられるようになる。などと書くと、そんな筈はない。という声が、聞こえてきそうだ。その通り、そんなに簡単に、正しい道を、歩み始める訳がない。悪さは、いい大人になっても、続く訳で、最近は、それを、周囲の責任として、勝手なことを、続ける人々が居る。多分、精神的な不安定や、心の弱さなどが、大元の原因なのだろうが、社会性の確立を、最優先とせず、個人の権利を、優先させた結果、こういう事態に、対処することが、難しくなった。教室でも、秩序が守られず、各自が、勝手なことを、繰り返している。教師の指示を、守ることなく、興味本位の行動を、繰り返している。それでも、指示が、聞こえているなら、まだましだろう。彼らの多くは、他のことに、集中しており、教室には、座っているだけ、なのだ。子供の頃から、こんなことを、繰り返してきた人間に、突然、秩序を、持ち出しても、意味さえ、理解できないだろう。では、どうすれば、いいのか。はてさて、どうしたものか。
大きな政府と小さな政府、根本的な考え方の違いが、表面化したものとして、議論された時もあった。だが、今では、そんなことに、話題が及ぶことは、殆ど無くなった。依然として、その違いは、歴然とあるとされるが、現実には、実務など、別の問題があるからだ。
効率を考えるとか、経費を考えるとか、そんなことが、話題になるが、国民の関心は、そこだけではない。実務が、円滑に行われるか、という点こそ、実生活に関わるものとして、注目が集まるのだ。この国では、四半世紀程前に、再編と称して、省庁の統合が、行われた。再編と言っても、分掌を変更する、という表面的なものではなく、二つの異なる役割を、担うものを、無理矢理、合体させるというもので、無謀とも噂されたが、結局、断行されたのだ。だが、今、その経緯を、思い出そうとしても、殆ど何も、浮かんでこない。所詮、役割分担を、どう変えようが、庶民にとっての意味は、表に現れる部分だけだからだ。では、現状、何がどう、問題となっているのか。最大のものは、権力の集中、と言われる点だろう。全体を束ねる組織に、力を集中させることで、命令系統は、明確となった、と言われるが、それによって、個々が果たすべき役割に、様々な問題が、生じ始めたのだ。誰が、どう決めるのか、について、明確になることで、果たすべき役割への、責任が、疎かになる。官僚政治と呼ばれたものが、崩壊したのは、実は、この再編に、原因があるのだろう。それこそ、政治家達が、目指したものだが、集中した権力を、行使する組織には、必要不可欠な能力が、欠けていた為に、今の問題が、起きている。庶民とは、無関係に思える、研究という課題も、以前は、二つの省庁が、関わっていたのに、それが、合体することで、期待された効率が、的外れな方に高まり、荒廃とまで、揶揄される状況に、陥っている。厚生と労働という、無理筋の統合も、大きな矛盾を生じている。他も、同様なのだろう。だが、今更、分離することは、不可能なのだ。まるで、袋小路に迷い込んだような、行政に、出口は見えてこない。
金さえあれば、何事も、巧くいく筈、という論理だろうか。矛盾に満ちた、隣国の体制は、彼の国が、模索する中で、生まれたもの、と言われるが、実際には、他の大国の、都合に合うか、合わないかが、優先されていた、のではないか。だから、今の矛盾も。
国の体制は、国民の望んだ形に、という思い込みは、自由な国家では、現実のものとなるだけに、社会体制として、強い制限がかかる国で、全く違う方向に、進んでいることに、違和感を覚えるのは、当然のことだろう。それも、先駆けて、その体制を始めた国に、追従していった国の多くは、理想と思われたものが、脆くも崩れた結果に、強い落胆を、覚えたに違いない。ただ、隣国の場合は、その前から、先行する体制との、決別に至っていただけに、別の形を、模索するしか、方法がなかったのだろう。それが、社会と自由との、相容れない体制を、両立させるような、矛盾に満ちたものに、変貌していった。これは、人口の多さから、大きな生産力と消費力に、期待する側からは、歓迎すべきもの、と受け取られた。その上、歴史的なことから、国土の一片とはいえ、一部の統治を続けた国とも、権利の謙譲が、行われた地域についても、体制の激変も、可能との解釈が、なされてしまい、強い矛盾が、先送りにされた。今更、混乱が起きたとしても、それは、大国の都合が、反映されただけで、そこに住む人々には、何の利益も、もたらさなかった。悪くなることが、あったとしても、良くなることはない。とまで、言われていたことが、最近、また起きたらしく、混乱は、その地域だけに留まらず、自由を当然とする国々から、支援が寄せられるようになり、大国間の論争が、また、強まるのではないか、と懸念されている。その中で、議論の場が、設けられる訳で、期待する声も、高まるものの、どうも、情勢は、それ程には芳しくない。というのも、従来からの論争の中に、更なる火種が、投げ込まれたからだ。また、内政干渉、で片付けられるのだろうが。