弱者保護が、強く訴えられるが、実際には、全く反対の様相を、呈しているように思える。弱者とは、被害者のことであり、対象となるのは、実際に、被害を受けた人である。だが、加害者とされた人が、ある日、被害を受けることに、なる時は、どんな扱いになる?
交通事故が、起こる度に、その状況が、伝えられる。最近では、高齢者が、関わるものが、増え続けており、深刻な問題、と捉えられている。だが、立場の違いから、その扱いは、大きく異なる。歩行者として、事故に巻き込まれた場合、その殆どが、被害者、つまり弱者として、扱われる。車を走らせていて、危ない、と思うことがあるのは、高齢者が、横断歩道のない所を、ゆっくりと渡る姿で、ほんの1分程、行けば、そこに信号や横断歩道があるのに、何故、と思う。だが、事故に巻き込まれれば、彼らは、何の過失もない、被害者と扱われる。運転者は、子供の飛び出しだけでなく、こういう横暴にも、対処を求められる。それに比べ、高齢者の運転は、今や、暴力の一種とさえ、言われている。自分の能力を、過信して、危険運転を、続ける姿は、加害者でしかなく、まさに、そのように扱われる。だが、無謀さという観点から、どちらにも違いはない。ただ、判断力の減退が、招いた結果でしかない。もし、自己判断が、難しいのであれば、周囲が、その手助けをすべきだが、被害と加害、弱者と強者の区別からは、そんな配慮は、出てこない。それどころか、害を及ぼす根源を、断つことこそが、最善とばかり、弱者と化した人々を、徹底的に糾弾する。明日は我が身、という真理は、顧みられることなく、目の前の悪を、裁こうとする。社会として、すべきことは、簡単に見えてくる。お互い様、という配慮を、心掛ければ、多くの障壁は、取り除くことができる。気持ちの余裕が、必要なのだろう。
老後への不安を、口にする人は、一杯居ると思うが、彼らの中で、それを解消する手立てを、講じている人は、殆ど居ないだろう。一つ一つの要素を、吟味することで、対策を講じれば、少しは、不安も減ると思うが、そんな面倒は、御免とばかり、放り出す。
だったら、不安などと言わずに、その日暮らしを、続ければいい、と思うのは、冷た過ぎるだろうか。だが、何もせずに、不安を口にするだけでは、何の解決も、得られない。世の中では、不幸な人々は、温かく迎えられ、救いの手が、差し伸ばされる。それをいいことに、次々に、要求を掲げる人が居て、その対応に、追われることとなる。これが、社会的な問題となり、解決への方策が、色々と検討されるが、その展開は、芳しくないようだ。敢えて、厳しいことを、突きつければ、老後への不安に、苛まれながら、対策を講じないばかりか、目の前に並ぶ、老人達に、救いの手さえ、伸ばさないのは、何故だろうか。今、その問題を、解決しておけば、自分が、その立場になった時には、少しは良い状況に、なるのではないか。だが、日々の暮らしに追われ、先のことを、考えようとしない人には、そんな思いは、出てくる筈もない、のだろう。こんなことは、深く考えずとも、すぐに、理解できる筈だが、彼らには、理解不能と映るようだ。老後の生活費は、最大の問題だろう。だが、それ以外にも、様々な問題が、山積みとなっている。にも拘わらず、解決への道筋を、考えようとする動きは、鈍いままのようだ。例えば、危険運転の問題も、資格を取り上げれば、解決する、と思う人も居るが、実際には、彼らの移動手段を、確保せずに、権利を奪えば、問題は、更に大きくなる。一つ一つを、論理的に扱い、解決手段を、講じていかねば、何も片付けられず、増やすだけとなる。こんな簡単なこと、何故、判らない!
不安や心配には、論理は無用なのだ。ただ、不安とか、心配とか、口にするだけで、皆が、同情してくれる。単に、情に訴えるだけで、そこに、確かな理由や、確固たる根拠が、ある訳ではない。それでも、感情に、揺さぶられる人が、寄り添ってくれるのだ。
こんなことは、世の常だ、と言われる。時代が、移り変わろうと、科学が、進歩しようとも、人間は、感情を中心として、生きている訳で、それを、満たすことこそが、重要という訳だ。だが、精神的に、振り回された挙句、壊れてしまったら、どうだろうか。不安と心配に、苛まれてしまい、自分だけでは、立っていられなくなる。それでも、寄り添ってくれる人が、居れば、大丈夫、という意見もあるが、現実には、折角、寄り添ってくれても、その人にさえ、不信を露わにすると、どうにもならない。苛まれた心は、誰の働きかけも、受け入れず、崩壊し続けるのだ。感情ばかりを、重視することは、こんな危険性を、孕んでいるのだが、今の世の中は、それを無視して、ただ楽しむ為に、感情を操ろうとする。それは、一歩間違えば、崩壊への、一途を辿るのに、気付かぬふりを続け、危険な歩みを、続ける。冷静に、考えてみれば、そのカラクリに、気付けるのだが、皆が楽しむ中で、自分も、加わろうとすることで、崖から、飛び降りることさえ、躊躇なく、行ってしまう。情に振り回されることは、時に、抗うことさえ、難しいものだが、今の状況は、それより、好んで突入している。こんなことを、繰り返さない為に、最も重要なのは、冷静に分析し、論理的に考えることだ。それができない人は、危うい状態にあるが、本人は、一時の享楽に、浸ることで、転げ落ちていく。危ない誘惑が、充ち溢れる中で、騙されない為には、頭を使えばいい。簡単なことが、できない人は、落ちていくしかない。
独り言を、書き始めてから、17年余になる。週毎のまとめの、数字を見ると、899となっているが、何度か、問題が起きて、書けなかった時期もあり、実際には、900週目に、入っているのではないか。一年が、およそ52週だから、そんなものなのだろう。
始めの頃とは、書き方も異なるし、内容も、大きく変化している。素性が、知られないように、気を遣い始めたのは、おそらく、独り言を読む人が、変わってきた、と感じたからだろう。始めは、ウェブサイトに、出入りする人を、対象として、話題を展開してきたが、その人々が、徐々に、少なくなるにつれ、そういう意識は、無くなってきた。それに加え、一時は、検索でも、表示されなくなり、出入りは、激減していた。今は、何とか、引っかかるようには、なったものの、殆ど、新しい出入りはない状態、と言えるだろう。それなら、何故、書き続けているのか。そんな疑問を、突き付けられそうだが、始めの頃に、書いたように、いつまで続けられるか、を気にしていただけに、なるべく続けたい、という気持ちの方が、強まったのだろう。とは言え、いつまでも、続く筈もなく、そのうち、書く気が失せるのかもしれない。ただ、どのみち、と思うのは、週毎のまとめの数として、三桁が終わる頃には、辞めるのだろう、ということだ。あと、100となり、その意識が、強まったので、改めて、そんなことに、触れてみた。あと2年弱、本当に、続くかどうかも、わからないが、やれる限り、という思いはある。題材は、いくらでも、転がっており、それに、困ることは、まず起きないだろう。だが、書こうとする意欲が、減退することは、いつでも、起きそうな気配だ。誰も、読まないものを、いつまで、続けるのか。自分でも、わからないのだが。
役所が、率先して、推進すべきなのに、あろうことか、改竄や誤魔化しを、繰り返していた、と指摘され、ケチがついた政策だが、改めて、数字が公表された、と伝えられる。障害者雇用の問題は、人権や平等意識、更には、高齢化による、人不足など、根深いようだ。
今度の数字は、信頼できるのか。というより、年毎の変遷を、伝えることに、どれ程の意味があるのか。統計は、経年変化など、数字の蓄積を、頼りとするだけに、改竄や誤魔化しは、その時だけでなく、時の流れに乗る、全ての事柄に、汚点を残す。だとすれば、今回の集計も、注意深く、検証する必要がある。だが、画面で伝えていたのは、ほんの一部を、切り取ったものであり、雇用者数が、増加したという傾向に、注目していた。確かに、それはそれで、重要な事項には、違いないが、実情に、少しでも触れたことの、ある人にとっては、増加が、何によるかが、肝心と思える。つまり、既に、雇用されている人が、障害者となったのか、あるいは、障害者が、新たに雇用されたのか、そこには、大きな違いがあるのだ。大元の集計に、それが含まれないとしたら、調査の手落ちだし、含まれるのに、そこに触れないのは、報道の手落ちとなる。更に、障害の種別により、状況を把握することは、今後の対策も含め、政策を施行する上で、重要な要素であり、目を向けようとしない姿勢は、問題の本質を、見抜く能力の、欠如を想起させる。科学的な解析において、数値化は、必要不可欠なものであり、大小関係を、形容詞でしか、表現しない報告は、信頼に値しない。それを、数字として、表現することで、科学の言葉で、語ることが、可能となるが、そうだとしても、数字を、どのように比較し、どのように並べるかに、不手際があれば、折角の解析も、的外れとなる。不完全な解析を基に、議論を始めても、所詮、無駄にしかならない。
手取り足取り、教え込むことが、重要だと言われる。背中を、見せるだけで、声掛けさえ、しなかった時代と違い、懇切丁寧に、一つ一つの要素を、教え込めば、有用な人材を、育成できる、とされているのだ。だが、現実は、程遠い状態に、陥っているのではないか。
教え込んだことしか、できないどころか、教えたことさえ、できない人間を、目の当たりにして、嘆息を漏らす人々が、巷に溢れている。あれ程丁寧に、教え込んだのに、何故、簡単なことさえ、できないのか、と呆れてしまうのだ。確かに、指導書を始め、多くの資料を手に、一つ一つの段階毎に、大切なことや、要所となる部分を、事細かに、伝えている。その要素には、一つの漏れも無い。なのに、教えを受けた人間は、穴だらけの知識で、無謀にも、事を進めようとする。その結果、肝心なことを、忘れてしまい、頓挫することとなる。これでは、教えた人間の、努力は、水泡に帰す。だが、何故、そんなことが、起きたのか、理解できない人が、多い。背中しか、見えなかった時代と違い、腹の底まで、見渡せるように、十分に配慮した筈が、何の結果も、残せないとなれば、失敗と受け止めるしかない。一から十まで、全てを伝え、それを辿るだけで、確実に、結果が得られる筈が、何も手にできず、途方に暮れる。では、何が、悪かったのか。見過ごされているのは、道を辿る速度、なのではないか。背中しか見えなかった頃、どんなに尋ねても、何の指示も受けず、放置されたことに、悔しさを覚えた人も、多い。だが、その中で、徐々に、要素を見つけ出し、それを組み上げることで、技術を身に付けていた。一方、今は、全てを示し、組み上がったものを、順を追って、教え込む。何の問題もない、と思う人が居るが、実は、整えられた道筋を、歩むことで、段階毎の理解が、追いつかないのだ。では、速度を緩めたら、となるが、それも、効果が上がらない。先が見えず、模索しながらの、習得と比べ、先まで見通せる、確実な習得には、こんな落とし穴があり、足らない部分に、気付かないのだ。
開発を目的とした研究が、行われている場所では、確かに、選択と集中が、行われている。だが、それが実行されるのは、実は、研究段階ではなく、開発段階に、限られているのだ。これという技術革新が、起きたとなれば、そこに資金を集中させて、現実化する。
このやり方は、誰でも、理解できるもので、当然の戦略と見做せる。では、改めて、研究段階は、どうなっているのか。利潤を追求する、組織においては、研究においても、ある程度、照準を当てて、対象範囲を、狭める必要がある。可能性の高さだけでなく、多様性の維持も、考慮に入れられるが、やりたい放題、とはいかないものだ。それでも、長い目で見れば、照準を絞り過ぎれば、確実なものばかりで、革新的な技術を、開発することは、難しくなる。この辺りの匙加減が、重要と言われるのは、これまでの、成功と失敗の繰り返しから、得られた教訓だが、成功を確実にする、絶対的な手法は、まだ見出せていない。だから、無駄を承知で、少しのばら撒きを、行う必要が出てくる。営利企業であれば、当然の戦略であり、その中で、成長を続ける為に、加減が肝心となる。では、利潤追求ではなく、単に、真理を追究したり、新発見を目指す場合は、どうだろうか。基礎的な研究が、進められた結果、広範に渡る、検証が必要となると、確かに、資金の集中により、結果を手に入れることが、決め手となるだろう。だが、それが、明白になる前には、多種多様な対象に、広く手を伸ばすことの方が、遥かに重要なこととなる。無駄と思えても、ある程度の寛容性を示し、様子を見守る必要が、あるのだろう。だが、現状はどうか。選択と集中を、絶対的な手法と、高く掲げてきた政策は、経済の衰退により、余儀なくされた面があるが、それ以上に、そのものの衰退をも、招いたとされる。こんな事態に、なってもなお、まだ、真っ黒な穴に、投げ込み続けるのか。