パンチの独り言

(7月8日〜7月14日)
(言い放つ、両面性、救いの手、使いよう、強欲、虎の子、看板倒れ)



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7月14日(日)−看板倒れ

 万能のように扱い、自らの生活を、便利にする一方で、生活の糧を、奪いかねない存在、とする。何とも、身勝手な解釈だが、世の殆どは、こんな受け取り方を、している。その原因は、情報の伝達者の、不見識にある。扇動者として、騒ぎを、大きくするだけの。
 確かに、耳目を集めるには、過剰な脚色も、不可欠なのだろう。だが、それが、事実と異なれば、単なる嘘でしかなく、大衆を、騙しているだけ、となる。こんな暴挙が、続けられるのは、肝心の大衆が、その欺瞞を、暴くだけの判断力を、持ち合わせず、騒ぎに加わるだけ、だからだろう。一つ一つの、事柄を吟味し、その内容の真偽を、確認する、という作業は、多くの人々にとって、面倒なだけでなく、無意味とも受け取られる。これは、逆の見方をすれば、騒ぎの殆ど全てが、災いとはならず、普段の生活が、そのまま続くからであり、あの騒ぎは、何だったのか、などと振り返られることさえ、ないからなのだ。つまり、騒ぐのは、単に変化が欲しいだけで、その種を、ばら撒くのが、あの手の人々の、社会的な役割なのだ。それにしても、不安や心配を、自分で解決せず、対応もしないまま、放置するのに対し、何もしてやる必要は、ないのではないか。はじめに触れた、万能と見做されるものは、所謂、人工知能と呼ばれる代物で、それが導入されれば、不可能は無くなる、と喧伝されている。だが、実際には、そんな筈も無く、万能は、人間に当てはまらず、神の専売特許だ。それを、機械に、担わせようとする動きに、どんな思惑があるのか、見えていないが、それにしても、所詮、人間の作ったものなのだ。売り言葉に、乗せられては、いけないだろう。今後、その手の話が、次々に、紹介されるだろうが、暫く、静観してみるのも、一つだろう。そのうち、忘れ去られるのが、大部分だろうから。

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7月13日(土)−虎の子

 元本保証という言葉は、最近、あまり聞かれなくなった。利息が、十分な割合だった時代、複利のものであれば、10年で、二倍になった貯蓄が、今では、微々たるものにしか、ならない。以前の仕組みなら、元本保証は、当然のことで、その上に、十分な利息が、戻ってくる。
 ところが、経済成長が止まり、縮小が露わになると、金融機関でさえ、破綻の危機に晒され、保証された筈の、元本さえ、失いかねなくなる。その上、金利が、負の値を示すと、預けることは、市場経済に、悪影響を及ぼすと、目減りが、起きるまでになった。こうなると、投資という行為において、確実な方法は、殆ど無くなる。その代わり、一攫千金を、夢見る手法が、主体となってきた。預けた金は、一夜にして、膨らむかもしれないが、その一方で、全てを失う場合も、あり得るという訳だ。絶対確実なものは、一つもない代わりに、当たれば、多くの利益が、得られる。その中で、どんな投資手法が、適切なのか。海の向こうでは、地道な投資手法を、用いる人も居るが、それとは別に、当たり外れの大きなものに、手を出す人がいる。安定した収益を、上げるには至っておらず、まだ、海のものとも、山のものとも、はっきりしない新興企業に、投資する人々だ。成長前に、投資しておけば、成長後の利益は、大きなものとなる。特に、爆発的な成長を、勝ち得た企業への投資は、莫大な利益を産む。だが、そんなことは、たまにしか起きない。結果として、多くの先行投資は、当て外れとなり、水泡に帰する。ここでは、確実な利益ではなく、僅かな可能性に、かけるものなのだ。十に一つの当たりを、引きさえすれば、他の外れは、埋合せられる。そんな原理で、投資を動かす人々は、失敗を、気にすることはない。一攫千金は、投資ではなく、投機ではないか、という意見もあろうが、分散投資、という原理では、ごく当然のものだ。だが、この考えは、皆に通じるものではない。保証を求める心理では、無理筋なのだ。

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7月12日(金)−強欲

 誰しも、健康で長生きしたい、と思う。だが、何をすれば、いいのか、を知る人は居ない。長生きした人に、尋ねてみても、それぞれに、違う秘訣があり、それが、一つになることは、ない。個人差が、大き過ぎて、同じ尺度で、測ることさえ、できないからだ。
 それでも、何かあれば、と情報収集に、力を入れる。その結果、これがいい、あれがいい、という、様々な情報が、集まるのだが、実行してみても、効果があるかどうかさえ、わからない。その上、効果を謳う人々は、一つ一つを、試しているだけで、その組み合わせが、必ずしも、相乗効果を産むかは、全く不明なのだ。時に、却って、逆効果に繋がる組み合わせさえあり、副作用さえ、生じさせかねない。それに、効果があったというものも、より高い結果を、求めようとすると、過ぎたるは及ばざるが、といった具合に、副作用が、起きることさえある。昔から、食事の内容に、気をつける場合が、多いものだが、中には、栄養剤などで、食事からでは、摂取できない分量を、摂取しようとする人が居る。この際にも、適量が、重要なこととなるが、多くを求め過ぎると、つい、過剰摂取となることがある。排泄が、正常であれば、体内での蓄積も、殆ど起きないのだが、そうならないものもある。その為に、適量が、定められているが、使用者が、従うとは限らない。欲求が強い人ほど、こういう障害に、陥る場合がある。日頃の、栄養剤の補給にしても、病気に罹った時の、薬の使い方にしても、こういう危険が、あることに、気付くべきだろう。極端に言えば、水を飲み過ぎても、死に至るだろうし、塩も、高血圧のような、慢性的な症状だけでなく、急性な症状で、死に至ることもある。栄養剤の中にも、そんな症状を、呈するものがある。これまでにも、そんな事件は、何度も起きている。被害者と言われる人の多くは、まさに、健康で長生きしたかっただけなのだ。

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7月11日(木)−使いよう

 武器を、身に付けさせよう、という動きが、最近の流行だろうか。能力を、向上させる為には、武器が必要だ、という考えのようだが、そればかりを、与えてみても、どうも、上手くいっていない。何が、足らないのか、と苦慮しているが、それも、決め手がない。
 これもまた、即戦力の特徴、と思えるのだが、どんなに強力な武器も、使い方を誤れば、無用の長物、役に立たないものだ。だからこそ、使い方を、教え込んでいるのだ、という反論が、現場から聞こえてくる。だが、実例を挙げ、様々な場面での、活用法を、教え込んだとしても、実際に、訪れるのは、それとは異なる場面で、応用が必要となる。場数を踏めば、そんな場合にも、対応できる筈、と考えるのは、何度も失敗をした、経験のある人々であり、未経験の人には、通用しない考えであり、失敗を恐れる人々には、最大の課題となる。そう考えながら、実例を挙げて、実際に行わせるやり方を、見直してみると、一つ、大事な要素が、欠けていることに、気付かされる。それは、失敗をさせる、という試みで、失敗から学ばせることで、自分で、考える習慣を、身に付けさせるものだ。こう書くと、それは当然、と思うかもしれないが、現場では、時間的余裕はなく、試行錯誤を、行わせることは、避けることが多い。それより、直線的な道を、歩ませることで、円滑に、手法を学ばせ、強力な武器を、身に付けさせようとする。この問題を、解決しなければ、表向きは、武器を携え、活躍の場に、挑む姿勢が、出来上がった人材が、実は、現実には立ち向かえず、失敗するだけでなく、成功を手に入れられない、という結末となる。失敗からの成功、という時間が、必要なのは勿論、その際に、必要となる、基礎知識を、身に付けることが、不可欠となる。武器に目を奪われ、肝心の知識を、蔑ろにした結果、現状に陥った。だとしたら、再び、原点に立ち戻り、知識を授けることにも、力を入れねばならない。

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7月10日(水)−救いの手

 加害者と、なった途端に、始まる総攻撃。加担する人々の、心理を、読み取ることは、難しい。突然、始まった罵詈雑言にも、驚きと共に、呆れるばかりだが、その中で、使われる言葉の、下品さ、下劣さにも、呆れ果てる。そこにこそ、劣悪な人間の、本性が現れている。
 ここでも、二極化が、著しくなる。白黒を、はっきりさせようと、上級とか下級とか、そんな表現を、使うけれど、実は、明確な基準はなく、ただの思いつきに過ぎない。そんな程度の、浅慮の果てに、権利を奪うことを、平気で口にする。こういう人の多くは、自分の権利が、奪われそうになると、激昂するのではないか。感情的になり、冷静な判断が、下せない人に、問題を論じる資格は、ありそうにない。一方、弱者保護を、声高に訴える人々は、ここぞとばかり、救済策を、並べあげる。だが、その多くも、浅はかな考えに、基づくものであり、別の問題が、すぐに表面化する。その度に、あれこれと、訴えられるから、これもまた、困った人々となる。高齢者の、日々の移動の問題は、確かに、深刻となり、喫緊の課題となっている。自動車の運転は、事故が発生する度に、危険なものと、取り上げられ、免許を、剥奪すべきとの意見も、極論と呼べぬ事態に、なりつつある。だが、彼らの奇行は、車だろうが、自転車だろうが、果ては、歩いていようが、起きているのではないか。自転車の、突然の方向転換に、ひやりとした経験は、誰もが、持っているだろう。飛び出すような横断にも、同じような経験を持つ。ただ、これらの例は、年齢に無関係に、行っている人は、多い。年齢の違いが、避ける能力の違いに、結び付くことで、ヒヤリだけで、済んでいただけだ。だが、年をとると、そうはいかなくなる。目も弱り、筋肉も衰え、あらゆる場面で、困難が伴う。だったら、手を引き、同行したり、乗せて運べば、いいのではないか。ここに、解決を目指すしか、ないように感じる。

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7月9日(火)−両面性

 弱者保護を、訴える人々の、論理には、破綻を来すものが、多いようだ。弱者として、特別扱いを、施そうとするが、いつの間にか、強者へと変貌し、社会の邪魔者となる。極端な扱いが、それを招くことに、当事者達は、全く気付く気配がなく、視野の狭さに驚かされる。
 その上、正義の味方のように、振る舞う人々には、傲慢な考えの、持ち主が多いので、扱いは、難しくなる。彼らの論理で、弱者救済を、訴え続けるが、それが、裏目となり、被害者が、いつの間に、加害者へとすり替わる。高齢者の問題は、その典型と、思えるのだが、どうだろう。弱者となり、救済の対象となるが、それが、施された途端に、社会への歪みが、強まることで、強者へと、変貌することがある。大家族で、暮らすかどうかではなく、単に、家族が、互いに助け合うかどうかが、高齢者にとって、最も重要な要素だろう。だが、近年の状況は、家族の問題より、社会の問題として、扱われることで、孤立する人が、却って、増えているように思える。その結果、個々の例によるが、更に、救いの手を、差し伸べる必要が、出てくる。それが、繰り返されることで、特別扱いが、増えたり、その扱いが、強まることになり、反発が、強まり始める。保護を、訴える力が、強まることは、確かに、社会の秩序を、保つだけでなく、それを、長引かせることへと、結び付く。それが、ある程度を越えると、反発が起き、そちらが、優勢となる。弱者だったものが、強者となり、社会への圧力を、強めることとなる。こんな流れが、起きていることに、そろそろ、気付いてはどうか。中庸が、悪いことのように、成長期には、散々、訴えられていたが、何故だろう。一方、弱い者と強い者、富める者と貧しい者、兎に角、二極化しようとする動きに、歯止めをかけるべきだろう。だとしたら、何を、どうすべきか。誰もが、二面性を持ち、それを保とうとする。そんな理解が、必要となるのではないか。

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7月8日(月)−言い放つ

 呟きは、個人的なもの、との解釈は、古色蒼然となったのか。海の向こうの、大統領が、好んで使い出し、皆が、私的なものと、無視する訳にいかず、毎日のように、話題とするようになり、公式見解より、重視する事態となった。何しろ、報道官に、確認するのだから。
 こうなると、報道陣を前に、受け答えをするのは、不都合な事態を、招きかねないと、避けるようになり、更に、多くの呟きを、相手にせねばならなくなる。大統領だけでなく、第2の地位にある人間も、使うとなれば、国政の行方は、それを頼りに、見通す必要がある。遣り取りを避け、主張のみを、記すことができる場は、彼らにとって、好都合と見えるのだろうが、こちらの宰相は、それ程の自信を、持ち合わせていない。だからこそ、直接入力するのではなく、誰かに任せていた。これは、責任への思いの、違いによるもの、と考えられる。長官の会見でも、発言の一部が、発表されるが、発言そのものとは言えない。また、官邸での、囲み取材でも、遣り取りがあるが、どうも、筋書きが、ありそうに思える。真意が伝わるかどうか、を議論してみれば、どちらが、より良いのか、明らかになるが、だからと言って、言いたい放題を、放置することに、どれ程の意味があるのかは、別の問題だろう。また、国を治める、最高責任者の発言が、真意は別にして、誤解を招いた場合、責任の所在は明らかだが、どうそれを収めるかは、別の問題となり得る。特に、国内問題であれば、戯言で、片付けられる、かもしれないが、国際問題となると、そうはいかないだろう。と考えると、実は、呟きと称して、好き勝手に書いている話題も、誰かの、点検を通している、のではないか。そういえば、先日の突然の会談も、事前打合せの上、との話が、伝わってきた。だとすれば、あの呟きも、報道の一部であり、単に、質問を受け付けないだけ、なのだ。

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