国と国の関係は、互いの利害が、衝突するものだ。だから、二国間の関係において、妥協点を見出せるかは、互いを、尊重することではなく、利害を天秤にかけ、均衡がとれた所を、探せるかどうかに、かかっている。そこに、第三者を、入れようとするのは、何故だろう。
近代に入り、隣国の諍いが、世界全体を、巻き込む形となり、数年に渡る、戦いへと発展すると、はじめの二国だけでなく、多くの国が、巻き込まれた、疲弊の時代が、続くこととなった。二度の大戦に、経済的な疲弊だけでなく、人の命が、関わる問題となり、諍いを、仲裁する制度が、大きく広がった。しかし、そこまで極端に、発展せずとも、互いの利害を、主張することは、様々な場面で、行われてきて、その多くは、妥協点を見出すことで、当事国間での、解決を見つけてきた。この国が、急速な成長を続ける中、海の向こうでは、それまでの、絶対的な優位が、揺らぎ始め、それが、被害妄想の如く、極端な反応へと発展し、破壊行動へと結びついたのは、もう半世紀近く昔の、こととなる。極端な要求に、極端な対応で挑まず、受け入れる形で、妥協点を見出したが、その後も、次々に飛び出す、身勝手な要求にも、それなりに、従ってきた。その経験から、利を得る為に、必要な手立てが、必ずしも、自らの利だけでなく、互いを見渡す必要が、あることを、学んできたが、それは、敗戦からの、先進国への仲間入りに、必要な儀式のようなものだった。だが、今、勝手な言動を繰り返す、隣国の態度は、狭い考えに基づき、自分のことを、被害者として、主張することに慣れた、低い水準の国の、ものに思える。いつまでも、発展途上にある国の、特別扱いに、どっぷりと浸かる態度には、上に立つ国への、仲間入りを、望みもせず、低い所で、安住しようとする、気持ちが、現れている。気付きを、待つことも、必要だろうが、それより、圧力こそが、功を奏する時期が、来ているのかもしれない。
足らないものは、無いというのが、若者の主張だが、現実には、そうではない。上の世代から見ると、余りに足らなさ過ぎて、手の施しようが、とまで、言い出しかねない。だからと言って、何か、手当ての方法が、あるのか。そちらについても、かなり怪しいようだ。
そこで、多くの場合、応急手当のような、形での対応が、進められる。その殆どは、基礎や本質の部分を、補うのではなく、ただ単に、表面的なものに過ぎず、根本的な改善には、繋がっていない。こんな状態では、解決には結びつかず、手当てを施されても、何かができるようになる、という具合には、ならないようだ。その結果、指南書通りの事柄には、何とか対応できても、多種多様な場合には、全く能力を示せない、ということが起きる。だが、そこから、自分なりの努力により、改善を図る気配は、見えてこず、結局、何も身に付かず、何らかの役割を、担うような状況には、程遠い状態で、終わってしまう。こうなると、悪化の勢いを、止めることは、難しくなる。時間をかけて、徐々に改善する、という目標も、結果としては、焦りに押し切られ、即席の形で、表面的な対応が、続けられるのみとなる。このままでは、改善は望めず、任せたくとも、それができない状況が、続くこととなる。後進に譲る、という言葉も、徐々に死語となりつつあり、譲ろうにも、その任に見合わぬ状態では、できないとなる。問題は、深刻となったままで、解決の糸口さえ、見出せていない。このまま努力しても、何も変わらず、かといって、何も手を付けなければ、悪化の一途を辿る。どうしたら、改善できるのか、戸惑うばかりで、何も始まらない。そろそろ、思い切った変化を起こし、それを、気長に続けるしか、ないのではないだろうか。焦ってばかりでは、無駄が続くだけなのだ。
自分に、何が足らないか、尋ねてみたら、どうだろうか。多くは、何もない、と答えるのではないか。自信の無さを、表に出さぬよう、突っ張るのは、若気の至りとも、思えるのだが、最近の傾向は、大きく変化している。装うのではなく、単純に、そう信じているのだ。
自分には、欠けた所は無い、と信じる心理は、如何なるものか、多くは、理解できない。だが、高い壁を前に、萎縮してもなお、自らの問題とは、考えないのは、確かなようだ。悪いのは、自分ではなく、社会なのだ、という思い込みは、自分だけで、作り上げたものではなく、周囲が、過剰とも思える程、配慮を施した結果、とも言えそうだ。不足する部分を、補おうとする努力は、自身が気付くことで、促される。だが、過度な配慮は、その機会を、奪うことへと繋がり、結果として、そこに留まることを、選択させる。これが、一部の人間に、限られているなら、致し方なし、との判断も、できるだろうが、現状は、ほぼ全ての人に、この状態が当てはまり、全体として、大きな問題となり、解決への手立てが、講じられている。しかし、上に書いたことが、まさに、大きな壁となり、各自の努力の芽を、摘み取っている。できないなら、できるように、やらせてみよう、という試みは、本人を含め、周囲にも、かなりの圧力を、作り出す。本来、そこから、反発力が生まれ、成長が、促されるのだが、その可能性さえ、潰す方向に、力をかけている。圧力を、除こうとする動きが、実は、別の圧力を、押し付けることになる。そのことに気付かず、その場しのぎのやり方で、真似だけを、繰り返させる。次に来るものが、無ければ、単純な、模倣で終わる。一方で、模倣を、禁じる動きも、先見性に欠け、別の圧力を、かけ続ける。肝心なのは、本人の中から、何を引き出すかなのに、現状は、どんな押し付けをするか、が試されている。愚かな試みに、気付かぬままに。
契約に関する話題は、何か、難しいことのように、扱われている。書類に書かれた、文章を読むのも、面倒としか、思えないのだろう。契約条項に、何が書かれているのか、確かめもせずに、署名をしたり、捺印する人も、少なくない。だが、問題が起きた時、そこに責任が出てくる。
ここを読む人なら、ネット上の契約書を、見たことがある人が、殆ど全てだろう。だが、そこに、何が書かれていたか、思い出せる人も、皆無なのではないか。まして、その文章を、何らかの形で、保存している人は、居る筈もない。そんなことをしても、意味が無い、と思うからか、はたまた、契約そのものに、意味を感じないのだろうか。平穏な時代において、こんなことを、心配する必要は、全く無い、と思うのではないか。だが、何かが起きれば、被害が及ぶ可能性がある。相手は、そんな時の為に、文書を示し、同意を得ているのだ。契約書、とは呼ばなくとも、こんな形で、同意を促される。ここでも、法律上の責任を、共有したり、ある範囲で、回避しようとする。署名や捺印、という形式を、取らなくても、同意する、という釦を、押すことで、何かしらの行為を、行ったことが記録される。覗いてみたいとか、試してみたいとか、そんな軽い気持ちでも、そこで、何かが起きれば、責任が生じる場合もある。こんな調子で、日常に、入り込んできた書類に、注意深く対処しないと、何かしらの不利益を、被る場合もある。これまで、何も起きなかったから、という思い込みも、起きてしまえば、何の意味も無くなる。その覚悟もなく、軽率な行為を、繰り返しているとしたら、早晩、問題が起きるかもしれない。別に構わぬ、と思うだろうが、時に、損害を生じ、その責任が、問われる場合もある。契約とは、どんなものか、今一度、考えてみてはどうか。不条理なことに、巻き込まれぬ為に、理不尽を、押し付けられぬように。
普段は、広告ばかりが流れ、同じ場面を、繰り返すばかりで、中身のないものを、垂れ流し続けるのに、あの時は、突然、会談の様子を、殆ど途絶えることなく、流し続けていた。公共性の強い媒体が、役立たずの状態に、陥る中で、異様としか、思えない雰囲気だった。
あらゆる番組で、どこを切り取っても、誰かが出ている。そんな状況に、強い違和感を、覚えていた人も、居るだろうが、今回の報道姿勢は、その思いを、更に強めたようだ。強い依存度の、裏返しとも思える、強烈な危機感は、方針通りに、動き回る、便利な人々に、任せていた結果、とも言える。だが、それにしても、問題の本質を、捉えようとせず、ただ、騒ぎ立てる姿には、あの業界の為体が、如実に現れた。大衆の関心を、引き寄せれば、それだけで、中身は何でも、構わないとなる。そこに、反社会的、という言葉が、浴びせられ、蜂の巣を、突いたような状況に、陥った。涙を見せ、言葉に詰まり、そんな態度は、日頃の、笑いを誘う姿勢とは、明らかに、異なっていたが、まるで、芝居のように、見えていた。弱者を演じれば、許してもらえる、という風潮が、根底にあるのだが、それにしても、本質的な問題に、近づく人は、出てこない。以前から、何度も取り沙汰されたように、ここには、契約社会が、築けていないことが、ある。雇用契約であれば、副業や兼業は、本来、承認を受けねば、実行できない。別の仕事が、誰を相手にしていたかを、論じる以前に、そこに、明確な線が、引かれているのに、今回は、別事を、騒ぎの中心に据え、批判の矢が、向けられる。だが、実際には、契約が、明記されていれば、それ以前に、違反行為を行い、罰の対象となる筈だ。そこに、目を向けず、付随した事柄に、批判を集中させる。如何に、馬鹿げたことか、考えるべきだ。何しろ、世間では、専念義務を、外す動きが、強まり、副業を、勧奨するように、動いているのだから。
信念を貫けば、評価が高まる。一見、当たり前に、思えることだが、実際には、そうでないことが、あまりにも多い。特に、信念と見えて、単に、無謀なだけの、暴走を繰り返す。そんな人間は、周囲にとって、迷惑であるだけで、上に立たれたら、悲惨なことが起きる。
ここで、何度も、書いてきたが、あの宰相は、突然の辞任を、受け入れた時、信念を、貫き続け、周囲の反対をも、押し切ろうとしていた。だが、その信念とは、何の根拠もなく、見通しは、全く開けていなかった。その結果、本来なら、最後の砦を、守る筈の人間まで、上司を見限ることとなり、辞任という憂き目に、見舞われることとなった。乱心する本人にばかり、目を向けた人々は、逃げた人間の、卑怯さに、気付かぬままだったが、本人も、その時の裏切りを、根に持たず、再登板において、協力を依頼するなど、乱心だったのか、はたまた、能無しの不感症なのか、誰にも、答えは見えていない。何れにしても、拘りに縛られ、妥当な判断が、できなくなる人間は、再び、同じ轍を、踏み始めたようだ。信念を、押し通そうと、詭弁を繰り返したのは、乱心の時期に、度々見られていたが、薬のせい、との言い訳が、今は、通用しているようだ。良い薬が、見つかったとされ、あのような狂気には、襲われないとの見立ては、今の状況に、どんな判断を、下すのだろう。過剰とも思える、自信を漲らせ、信念に拘る様子に、懸念の声が、これから高まるだろう。特に、現在の盟友とも言われる、協力者が、主張の理由に対して、苦言を呈したことは、重視した方がいい。真意は兎も角、身勝手な論理で、正当化しようとする魂胆に、それは通らぬとの見解は、妥当なものに見えるからだ。それを、無視したら、また、同じ轍を踏み、暴走の果てに、退かざるを得ない、状況に追い込まれる。まあ、それが判るようなら、1度目も、無難にこなしたのだろうが。
選挙は、義務ではなく、権利なのだそうだが、だからと言って、放置しておけば、いい訳ではない。その上、別の権利ばかりを、声高に訴える人々は、何の責任も、感じないままに、勝手なことを、言い続けているに、過ぎないのだ。だが、そこを、指摘する人は、居ない。
何故なら、たった一票の力では、何も、達成できないからだ。その一方で、マスコミをはじめとする、報道に、訴えた方が、遥かに大きな影響があり、それで、力を得たとして、無理難題を、押し通そうとする。これもまた、明らかな、理不尽であり、それを、通させているのが、弱者保護、という考え方だろう。今回も、芳しい結果は、見られなかったが、即座に、一票の格差、などという話が、出てくること自体、実情との乖離は、大きくなるばかりで、選挙という制度に、課せられた筈の役割は、十分に果たされていないことが、明らかとなるだけだ。では、何を、どうしたら、いいのだろうか。その答えは、簡単には、見出せないし、一方で、人それぞれの違いの方が、大きいだけに、総論を、持ち出したとしても、役立たずとなるだろう。では、と思うのは、自分でできることを、まずは行う、ということだろう。その積み重ねが、集団となり、力となれば、何かが、大きく変わることも、起こり得る。だが、今は、それを、体制に委ね、その一方で、自分でできることは、何もないと、諦める。これを、いくら続けていても、何も、起こせないのだろう。だとしたら、諦めた方が、本当にいいのか。そんな筈はない。誰にだって、できることは、確かにある。なのに、それを、やらないままに、要求だけ、掲げればいいのか。それも、おかしなことだ。だとしたら、どうすれば。やはり、自分の周りで、見つけられることを、始めてみることが、大切なのだと思う。それは、何か。人それぞれに違うが、始めてみれば、何かが、見えてくるに違いない。そう信じてみたら、どうか。