暫くの間、国の品格について、取り上げてきた。しかし、その価値は、実は無い。何故なら、当事国が、それを理解できるだけの、思考力を、備えていないからだ。大国と、呼ばれるようになってもなお、馬鹿げた圧力を、周囲にかけ続け、愚かさを、表に出すように。
この所の、大国間の、啀み合いにも似た、対抗措置の応酬も、片方の指導者が、幼子程度の、思考力しか、持ち合わせていないが為のもので、互いに、子供同士の喧嘩、にしかなっていない。それでも、一度築き上げられた、経済状況は、そんな愚行に、惑わされることなく、それなりの水準を、保つことができるだろう。もし、それが、崩れたら、本当の戦いに、乗り出さねば、ならなくなる。流石に、他の国々も、そんなことに、加担したくは、ないだろう。だから、ある意味、安心とも思える。一方、こちらを、敵対視し続ける、負け犬とも思える、隣国の方は、相変わらず、始末に負えない。今回も、被害者然とした、問題のすり替えを、行い続けているが、その標的となった、措置に関して、元担当者の、解説を聞くうちに、ひょっとすると、という、薄汚い思惑が、見えてきた。それ程に、先読みができるだけの、能力は、無い筈なのだが、件の国の常套手段は、結果を、勝手な解釈で、自分に有利に、結論付けることで、その片棒を、担がされないように、先手を打つ必要がある。それは、こちらの言い分通り、今回の措置により、経済的損失が、出なかった時に、彼らは、それを、我が成果と、すり替える、ということなのだ。これまでにも、同じことを、何度も行い、正当化を続けてきたが、今回も、手続きの煩雑化だけで、製造そのものへの、影響がないとなれば、結果は、今とは大きく変わらない。だが、これだけ騒げば、なる筈のものを、させずに済ませた、と主張できるのだ。その上、もし、悪化したら、相手の責任、とすれば良い。こんな身勝手を、行えないように、じっくりと追い詰める必要がある。お手並み拝見、か。
大の大人が、何と情けない、と思う人も居るだろうが、愚かな国民は、見事に乗せられる。この話に、占領下で、何の手立てもなく、まさに、弱者そのものだった国は、何も思わないが、戦争加担など、反省ばかりを、強いられた国は、危機を、感じたのではないか。
それが、相手の暴言や暴挙を、窘めるのではなく、ある意味、無視を決め込むような、大人の対応に、繋がったと言われる。だが、戦前の状況と似て、一度起きた暴走は、自らの力では、止められない。その上、ポピュリズム、と呼ばれる政治様式に、基づいた典型、と言われる、隣国の、愚かな大統領は、外交には、無能としか思えぬ、対応を、続けている。愚かな人間を、支持する人々も、自らの愚かさに、気づくことなく、無能な人間を、諸手を挙げて、歓迎するように映る。本当に、国を挙げての戦いに、乗り出すのなら、現在の状況では、誰かが仲裁に、乗り出さねばならない。だが、どの国も、大人気ない戦いに、精を出す始末で、そんな大局的な見地は、持ち合わせていない。長く続いた平和が、終わるのは、こんなに簡単なのか、と後々、総括されるかもしれないが、自愛的な考えの台頭は、確かに、支持者を、獲得する為の手段で、それにより、劣勢を克服してきた。だが、それが、他人との関係を、どう保つかに目を向けると、殆ど、意味を成さない、戦略であることに、気付かされるのでは、ないだろうか。それ程、危機的な状況に、陥りかけている、と思うべきだが、相手の意見に、耳を貸さず、身勝手な解釈を、繰り返し、反省の文字は、相手にしか浴びせぬ人々に、気付きは、訪れる筈もない。いよいよ、実行に移され、事が進み始めたが、これは、大国同士の、馬鹿げた言い争いよりも、深刻なものと、なるかもしれない。ただ、あの国が相手では、何をしても、罵声を浴びせられる。他国の為、とは思わずに、厳しい対応を続け、答えに行き着くしかない。
種々雑多な情報に、触れることで、様々な利益を、手に入れられる。情報化社会において、ごく当然と、見做されることだが、どうも、実態は、そうなっていない。玉石混交の状況で、どう、取捨選択するかが、重要となるが、氾濫する情報を、選り分けることが、できていないのだ。
ある程度、経験を積んだ人から見れば、当然の成り行きだが、盲目的に、流れ込む情報を、信じる世代にとっては、その問題さえ、見出せぬままに、振り回されることになる。特に、情報の量を、競っていた時代に、成長してきた世代は、どのように集めるかが、勝負の決め手となる一方で、数少ない中で、信頼に値する情報や、他に無い特長を有する情報を、選び出すことも、同時に行うことができた。しかし、情報過多の状況では、吟味する暇も無く、選択より、評価の高さという、客観的に見える指標を、頼りにして、選ぶことなく、受け入れる手法が、好まれるようになった。しかし、情報操作の立場から見れば、そこまで含めた、準備をすれば、簡単に操れることから、これ程楽な、時代もないと思える。戦前の状況より、客観性が優先される中、一見、より確実で、評価の高いものが、選ばれることで、優良な情報を、提供しているように、見せることも難しくない。操作する側の優勢は、この形で、維持されており、庶民は、それらに基づき、出鱈目な行動を、しているだけなのだ。もし、それを、改善したいのなら、やはり、吟味力を磨くしかなく、取捨選択を、常に念頭に置く必要がある。だが、現状は、そんな暇もなく、そんな余裕もない。だから、仕方ないのだ、と思うのは、人の勝手だが、それで害を被ったとしたら、自業自得でしかない。やはり、ここは、意を決して、少し時間をかけてでも、自らを磨くべきだろう。自分の身を守るには、それしか、方法はない。情報氾濫に、飲み込まれない為にも。
紛争を解決する為に、設立された、と改めて、伝えられるが、その機能は、働かなくなっている。指摘されるように、その任に当たる、人材の不足が、第一の要因だが、これまでの経緯を、眺めてみると、歪みを強める要因が、他にもあることが、見えてくるようだ。
力関係で、無理難題を押し付ける、雰囲気が出来上がったのは、大国が、出来上がるにつれ、当然の成り行き、だったのだろう。その中で、弱者が、救いを求めて、訴える場が、設けられたことは、紛争を回避する手段として、不可欠だったに違いない。その結果、大国の横暴が、暴かれ、第三国の介入により、解決の道筋が、整えられたのも、事実なのだ。しかし、それが、次々に、解決される一方で、横暴を騙るような、芝居染みた訴えが、目立つようになった。弱者を装い、自らの法外な要求を、仲裁という名の下に、押し通そうとする動きは、未開発な国より、開発途上を経て、ある程度の経済力を、得た国に、より強く表れている。おそらく、成長の鈍化が、露呈するにつれ、それを打破する努力より、他の力を利用して、現状の問題を、解決しようとする、身勝手な考えに、基づくものだろう。それでも、はじめのうちは、弱者保護の考えが、強く働き、声高の訴えは、功を奏していた。しかし、強者の主張が、全て、力関係から、生まれるものではなく、合理的なものが、多くあることが、認識されるに従い、調停や仲裁は、一概に決まるものではなく、状況を、正確に把握せねば、叶わぬものとなった。となれば、はじめに書いた、人材不足は、更に深刻化し、悪化の一途を、辿るしかなくなる。今回の、隣国が盛んに訴えている、問題についても、合理性は、一切示せないだけに、どこからも、救いの手は、差し伸べられていない。弱者を装う芝居も、今回は、通用しそうにない。このまま、国の品格を、失墜するだけに、終わりそうだ。
友人の間であれば、絶交で、事が済むのだろう。だが、国の間では、そうも行かぬものだろう。関係を絶つことは、紛争へと繋がり、それが極まった結果、戦争へと突き進んだ。分かり易い展開で、賛同は得られ易いのだが、当事国だけでなく、全体を巻き込む混乱となる。
互いの国情を、尊重することが、可能であれば、そんな心配を、する必要は無い。しかし、自分の利害を、優先させずに、相手の利害を、尊重してしまえば、損失が、勝手に膨らむことに、なりかねない。そんな関係では、やはり、自分中心に、事を進めるしかない。だが、何度も起きた紛争と、それによって被った、全体的な悪影響の大きさから、今では、事が起きる前に、調整を図る仕組みが、作られている。安定した平和を、長続きさせる為には、互いの利害の主張ではなく、落とし所を探るなど、当事国だけでなく、第三者からの提案を、受けることさえある。ただ、この時代が、長く続いたことで、全体として、我慢が続いたという印象が、強まったのではないか。手を施し合う関係より、自分の主張を、前面に押し出した方が、遥かに、大きな利益を得られる、という考えが、世界中に広まった。ただ、その背景には、過度な支援を、当然のものと、定めてきた歴史があり、施しを、全て良しとしてきた、歴史がある。評価せずに、盲目的に、弱者を保護し、支援を続けることは、余裕のある時代であれば、可能だったろうが、長い安定から、成長に陰りが見え、不安が過るような時代には、困難が、見え始めるのも、当たり前のことだろう。そんな雰囲気の中、極端な意見が、好まれるようになり、安定より、自分の利を、優先させようとする考えが、台頭している。一時の利益を、得ようとする動きには、約束を反故にすることも、含まれており、結果として、破滅へと繋がりかねない。大きな修正が、必要なのでは。
個人の間の約束は、誰にとっても、大切なものだ。互いに、守ることにより、確固たる信頼を築き、良い時も、悪い時も、何かと頼りとなる、関係が築ける。逆に言えば、それを破ることは、互いの関係を絶ち、時には、修復不能な状況に、陥りかねない。
個人では、そんな思いを抱きつつ、関係を保つ為に、結んだ約束を、大切にするのだが、どうも、国の間の約束は、蔑ろにされることが、最近、増えてきている。特に目立つのは、国を率いる人が、交代する度に、前任者が結んだ約束を、反故にすることで、個人間の信頼ではなく、国の間の信頼が、揺らいでいるのだ。敗戦から、立ち直ろうとする中で、多くの傷を突かれ、傷ついた脛を、蹴飛ばされ続けた国は、その中でも、無理難題を、突きつけられても、反論が許されぬ雰囲気に、押し潰された上、要求を受け入れることを、強要されてきた。だが、その勢いに乗り、成長を続けた結果、施しを、要求するには、贅肉で膨れ上がりすぎた国情が、悲惨さによる同情を、買うには邪魔となり、その上、無理難題という微温湯に、浸った下劣な本性が、露わとなるにつれ、都合良くことが、運ばなくなってきた。それでも、身勝手な論理しか、展開できない国民性は、自らの蛮行を、顧みることなく、責任転嫁を、続けている。その上、自己評価が、できない人々が、人気取りに走るとなれば、暴走は、更に続きそうだ。他国には、反省という批判を、突きつけるのに、自分達の失敗を、反省することなく、国を率いることで、手に入れた権利を、貪り続ける。歴代の大統領が、一人を除き、悉く訴えられ、有罪となった歴史も、国民性の表れ、と言えるのかもしれない。手のひらを返すような、心変わりを、平気でする人々に、信頼の価値はなく、過去を捨てる態度には、歴史を語る資格はない。恥知らずの態度が、まだ続くが、たとえ、それが被害を生じても、他人のせいにすればいい、とでも思っているのだろう。
責任、という言葉が、強く伸し掛かった。犯罪とまで、言われた蛮行に、渦中の人間が、都合良く、発表する内容を、盲目的に、垂れ流した結果、国民を欺いた、とまで言われた。その反省からか、権力を、徹底的に批判することこそ、自らの役割、と決めつけたのだ。
それ自体は、第三者の視点で、分析するという点から、何も、悪いことがない、と思われたが、現実は、戦前の愚行と、殆ど変わらない、何とかの一つ覚えの如く、分析なしの、極論を展開するだけ、に終わっている。何故、冷静な分析を、行おうとしないのか。おそらく、それが、詰まらないものに、終わるからだ。典型は、新聞の見出しや、番組の広告で、盛んに行われる、過剰表現や、誤解を招くもので、人の気を惹ければ、成功という解釈が、横行している。明らかな誤りも、成果が得られれば、必要悪、としてしまう。そんな業界の、過ちの数々に対し、受け取る側が、冷静に分析を、しさえすれば、何の問題も、生じないものだが、戦前同様、そんな判断力は、庶民には、備わっていない。その結果、騙す側が、抱いた思惑通りに、大衆は、洗脳され続ける。劣悪な媒体が、作り上げた、創作劇に対し、厳しい批判の矢が、向けられることは、少ない。何故なら、作り上げた話の筋の方が、遥かに、理解し易いからだ。敵と味方を、歴然と分けて、どちらに与するかを、明確化する。まるで、海の向こうの、愚かな大統領の、分断政治を、推奨するが如く、極端な話を、作り上げていく。所詮、その程度の輩だ、と思えば、無視することも、できる筈だが、今の状況は、不安や心配を、掲げる人々にとり、その種を、与えるものとして、使われている。劣悪な人間同士、都合良く解釈できる、話を与え、与えられる関係が、作り上げられる。隣国の味方、のような振る舞いにも、厳しい批判が、不可欠だろう。