喫緊の課題として、人材育成に、注目が集まる。だが、少し考えると、そこに、強い違和感が、見えてくる。育成、という掛け声に、多方面から、多くの力が、注がれてきたが、これ程、長い期間、注目されているのは、何故か。それは、成果が、上がっていないからだ。
では、何故、様々な方策が、効果を、上げられないのか。答えは、まだ、見えていないが、簡単には、当たりが、見つかっていないからだ。多くの育成策は、個々の力を、伸ばすと謳うけれど、現実には、個別への対策ではなく、集団を対象としたもの、となっている。選び抜いた、個の力を、徹底的に、伸ばしきれば、目標が達成できるが、個への期待は、裏切られる場合が、殆どとなる。その為、力を注ぐ対象を、ある程度広げ、その中から、伸びた者を、拾い上げようとする。だが、対象を、複数に広げても、当てることができず、単なる、競争に、期待するしかない。これでは、特別な措置を施して、より多くを、育成しようとする目標は、達成できない。元々、足らない状態に、陥っているだけに、その問題を、打開する手立てを、講じる筈だったが、状況打開は、実現できていない。単に、各自の努力を、促すだけで、特別な支援が、できている訳ではない。その中で、更に、状況を悪化している、と思えるのは、育成の対象となる人々だ。他とは違う、扱いを受けて、彼らが、思うことは、とても育成とは思えぬ、愚劣な考えなのだ。人材は、部品の質ではなく、人間としての質を、育てるというものではないか。なのに、この手の試みで、特別扱いを、受けた人々は、人間的には、明らかに劣っており、はっきり言えば、ろくでもない人間なのだ。そんな連中に、力を注ぎ、期待通りに、伸びない事態に、責任は、育成側のみに、負わされる。だが、現実には、それだけではない。こうなると、特別扱いは止めて、皆、平等に扱えばいい。その中で、伸びてきた者だけを、引き上げればいい。それだけ、だ。
報道の力は、明らかに減退している。発表された内容を、確かめもせずに、流布する姿勢も然り、表面的なことで、騒ぐだけで、本質に迫れない能力も然り、客観性も失い、洞察力も失くし、本来の役割を、果たすことが、できない。それでもなお、偉ぶっている。
だが、中身を失くし、権威も失墜する中、世間に、何を訴えようとするのか。不思議としか、言いようがない。にも拘わらず、依然として、情報伝達において、中心的な地位を、保っている。権力に与する勢力も、そうでない勢力も、本来あるべき姿ではなく、極端な形でしかなく、情報操作に、加担しているのだ。改めて、実感させられたのは、博士となる人の数が、減少傾向にあり、先進国では、唯一の状況にある、との報道で、これが、研究力の減退に、影響を及ぼしている、という解釈にある。確かに、研究水準を、保つ為には、それに携わる人の数は、重要な要素だろう。しかし、減少傾向が、何に影響を与えるか、よりも、傾向が現れた背景が、何であるかの方が、遥かに重要な事柄だ。特に、研究を糧として、資格を得る仕組みでは、人材育成と対象の結びつきは、強いものとなるだけに、まるで、原因と結果のように、それらを分析することは、的外れにしかならない。その中で、導き出された結論は、実は、結論ありきの分析であり、主張を、通す為だけのものとなる。現実には、研究人材の悪化は、研究費の減少ではなく、教育費の減少によるものであり、予算全体への、強大な抑圧力の結果、なのだ。選択と集中、という政策は、研究支援に対して、適用されている、と思われているが、それと同時に、というより、それ以前に、教育への予算が、何の根拠もなく、縮小されており、それを、補う為と称して、別の配分を、政策として実施している。つまり、基礎を崩しておいて、その代わりを、当てがうのだ。これでは、根本を崩すだけだ。そこに、目を向けず、結論ありきの話では、駄目なのだ。
好き嫌いで、物事を、判断するのは、簡単だ。だからと言って、全てを、好悪で、判断することは、難しい結果を、招くので、結局、悪い方に、向かってしまう。心理的な影響が、強まり続ける中で、間違いを、繰り返しても、過ちの根源に、目を向ける人は、少ない。
好き嫌いの、感情を抱くことは、何も、悪いことではない。心の問題、感情の問題を、外から抑え込むことで、解決するのは、難しいからだ。それより、その感情を、表に出す一方で、冷静に、判断する知恵が、必要となる。感情が、優先される、幼い時代から、徐々に、冷静な判断を、下す為に必要となる、論理性の獲得が、進められる。ごく当然の成り行きが、何故、これ程までに、困難を感じるような、方に向かったのか、そこに、大きな問題が、あるのではないか。つまり、論理を身に付けるより、感情に振り回されるような、人格形成が、始まったのでは、と思えるのだ。その背景には、競争社会の激化が、あると言われるが、実は、全く別の所に、論理を失わせる、きっかけがあった。イジメの問題が、表面化し始め、それが、拡大するに従い、解決への手立てが、講じられた。そこに、大きな過ちが、あったのではないか。イジメの原因は、どう考えるかによるが、多種多様な原因を、一々探り出すより、根本解決と称して、競争により、競い合うより、何事にも、互いを認め合い、仲良く過ごす、という方針がとられた。これにより、啀み合いや、過度な競争を、減らすことができる、と見込まれたが、実際には、それとは別に、大きな影響が、及ぶこととなった。それは、議論すること、話し合うことなど、互いの考えを、戦わせる機会を、子供達から、奪ってしまったのだ。これにより、成長過程で、重要な要素の一つである、論理の構築が、十分に養われず、結果、好き嫌いでしか、物事を、判断できない人間を、育ててしまった。
上に立つ人間が、好き勝手なことを、言うのだから、自分達も、という考えが、蔓延している、と言われているが、どうだろうか。好き勝手は、確かに、正当化されると、気持ちを、強くすると言われる。だが、人間は、元々、自分の好き勝手に、したい生き物だろう。ただ、それだけだ。
そう考えると、身の回りの様子が、よくわかってくる。誰もが、自分の主張を通そうと、身勝手な意見を、並べ始める。だが、その論理性が、成立しなければ、他人に対して、通用しなくなる。上の方が、どうあろうが、通じない意見を、並べてもいい、という具合には、事は運ばないものだ。にも拘らず、雰囲気としては、勝手な意見や言動が、通用するかの如く、受け取られている。何故、このようなことが、起きるのだろうか。結局は、自分の主張が、優先されているからだ。その論理性を、検証せずに、綻びを、放置したまま、無理筋を、押し通そうとする。その結果、自分が、窮地に追い込まれても、曲げないのは、実は、検証しないのではなく、検証できないからだろう。特に、論理を築く所で、一つ一つ、積み上げていく過程で、それらを、点検することなく、結果として出てくる、主張だけに、力を入れるのだ。これでは、論理の構築は、できる筈もなく、ただの言い訳や、こじつけだけが、そこに付けられる。皆が、そうしているから、とか、上が、そうしているから、とか、勝手な言い訳を、しているようだが、単純に、自分がそうしたいから、であり、更には、自分の主張を、押し通したいから、なのだ。結果として、議論に値しない主張が、提示されることで、文字通り、無駄な時間が、過ぎていく。本来、議論の場は、それに値する話題を、話し合う筈だが、最近の傾向は、互いに、言い放つだけの、状況ができている。特に、若い世代に、その傾向が強まる現状は、憂慮すべき状況、なのだ。
好き勝手なことを、会見で話したり、画面に打ち込んだり、常識とは、かけ離れた状態に、駆け引きの一つ、との解釈がある。特に、会社経営との対比に、力が入っているのだが、これとて、どれ程のものか、と思う。個人経営の、自己中心的な手法が、国の行く末を、決めるのでは。
それにしても、極端な意見を、上の方から、ばら撒かれると、これ程までに、大きな影響が出るとは、誰も予想しなかっただろう。候補として、極論を展開しても、皆が、冷たい視線を送るだけで、殆ど反応がなかったが、それが、国を率いる立場となると、無視する訳にもいかず、一々、反応することが、常となってきた。しかし、その多くは、対応に値せず、放置しても、何の変化もないばかりか、反応自体が、状況の悪化を、招く場合も、少なくない。銃という武器に関して、海の向こうでは、これまでも、激論が交わされてきたが、一向に減らない、発砲事件の深刻さは、議論で、解決できるとは、とても思えぬ状況にある。その中で、今回の事件の一つは、特定の憎しみが招いた、悲惨な事件との報道から、極論を得意とする人物も、少し異なる路線の、意見を発している。だが、これまでの行状から、これを、真に受ける人は、殆ど居ない。つい先日、お前も、同じような意見を、自慢気に書き込んでいた、との指摘が、各所から出てくる。このように、身勝手が通用することを、指導者自らが、証明する時代に、次代を担う人々は、何を思うか。まともな教育を受ければ、無価値と判断するだろうが、多数を占めるのは、別の感覚の若者達だ。彼らが、これを良しとして、同じことを、繰り返せば、何が起きるか、容易に想像できる。もし、そんなことになったら、制御の利かない社会が、出来上がるかもしれない。そんなことになったら、自由を謳歌できる、のだろうか。それとも、生き難い社会が、できてしまうのだろうか。
偏見に満ちた考えは、以前なら、忌み嫌われていたものだが、最近は、そうでもない。特に、分かり易さに、飛び付く傾向が、強まるにつれ、極端な意見が、好まれるようになった。他人と違う意見、というより、極端だが、分かり易い故に、賛同を得易くなる、という訳だ。
その代表格は、海の向こうの大統領だろう。誰かに好かれようと、彼らの好む話を、更に、度を増して、表明し続ける。以前なら、非常識とか、下劣とか、切り捨てられたものが、いとも簡単に、受け容れられるばかりか、好感度を上げる、となる。その異常ぶりに、報道は、挙って批判をぶつけるが、彼らも、実は、読者に好まれるような、姿勢を貫いてきた。海の向こうとは、事情が異なるが、報道機関の無軌道ぶりは、全く異なる考えから、強まり続けている。昔から、偏向ぶりが、際立つと言われた、某全国紙の状況は、批判が強まる中で、更に、度を増している。これ程までに、極端な偏りを、見せる背景には、世相自体が、迷走を続けたり、隣国の暴走が、異常さを見せることが、あるのだろうが、それにしても、無知蒙昧を、晒け出す姿には、とても、中立や客観を、主張できる代物ではないことが、見えてくる。これまでなら、一部の報道機関が、という表現で、この話題は、括られていたのだが、最近は、様子が、変わり始めている。そこには、受信料が、大きな話題となっている機関もあり、隣国の話題の取り上げ方に、強い偏りが、見えている。体制に与せず、中立、客観を、保持し続けている。とでも、反論しそうだが、自国の体制を、批判するために、他国の体制に、与すれば、それこそ、客観でも、中立でもなく、偏向以外の何物でもない。それに気付けぬ程に、組織全体が、腐っていることは、安定が続いたことの、悪い影響だろう。そろそろ、劇薬が、必要なのかもしれぬ。
負の連鎖が、深刻になっている。特に、現場では、教える側の問題が、そのまま、教わる側へと、伝えられており、伝え方に、新たな手立てが、講じられても、その当事者達が、何をすればいいのか、見えていない状態では、功を奏する筈もない。これでは、駄目なのだ。
教える、教わる現場は、当然のことだが、一般の職場にも、連鎖の悪影響が、広がっている。世代交代が、課題なのは、どこも同じだが、技術の継承や知識の伝達が、滞るようだと、何もかもが、混乱に陥る。急場凌ぎの一つは、交代などせず、そのまま、上の世代を、働かせ続けることだが、これとて、いつまでも、通用するものとは、なり得ない。だからこそ、継承を続けなければ、何も解決できない。実際には、職場での最大の問題は、中間層の希薄化であり、その存在が、十分な役割を、果たしていないことにこそ、問題がある。しかし、その層を、置き換えることは、容易ではない。以前なら、転職者を、募ることで、交代を進めたが、年代全体が、負の要素に包まれると、たとえ、置き換えたとしても、状況は、殆ど変わらず、不慣れな新人は、却って、現場の混乱を、強めるだけとなる。それなら、再教育を、という提案も、多くは、頓挫している。何故なら、その世代を、現状へと導いたのは、上の世代であり、教育しようにも、それに適さぬ組み合わせが、できてしまうからだ。これでは、八方塞がりの状況であり、打開策を、見出すことは、不可能に思えてくる。だからこそ、連鎖が続く、となる訳だ。おそらく、上から下への、伝承に頼るのでは、この問題の解決は、できないのだ。上も、下も、無い状態を作り、互いに、教え合い、尋ね合い、その過程で、解決策を、見つけ出す。上だから、知っていて、下だから、知らない、という思い込みを、一掃しなければ、連鎖を、断ち切ることは、できない。