パンチの独り言

(8月12日〜8月18日)
(低評価、独り立ち、国と地域、力尽く、二度と、不感症、休み方)



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8月18日(日)−休み方

 働き方を、考えるのだそうだ。そんなものが、あるかどうかは、誰にも分からないだろう。だが、世間では、それが、何よりも大切なもの、としている。誰もが、働かねばならず、その抑圧に、潰されかねない。だからこそ、その方法を、模索する必要が、あるという。
 一見、当然のように、見える話だが、現実には、どうだろうか。働く喜びを、様々に取り上げる一方で、それには、一定の方式がある筈、との考えのようだ。だが、誰もが、すぐに気付くように、喜びには、期待通りのものが、ある一方で、望外の喜び、というものがある。何でも、傾向と対策が、当然と思われる、安定の時代には、型通りに、運ぶことで、期待通りの結果を、得ることが、当たり前に思われる。しかし、同じことを、繰り返すことで、同じ結果を、得ることが、本当に、喜びに、繋がるものだろうか。それに、何の変化もなく、同じことを、繰り返すのが、本当に、成功と言えるだろうか。改革は、この点に、向けられると思われたが、現実には、そんな存在は、あり得ないと思われる。その為、全く別の形で、改革が、進められることと、なってきた。それは、働くこと自体ではなく、休むことに、焦点を、当てることだ。休み方を、確かなものとすれば、その裏返しで、働き方が、整備される、という考えか、どうにも、理解に苦しむ話で、意図が見えてこない。休み時間を、増やすことで、働くことに、集中できる筈、という考えに、どれ位の賛同が、得られているのか、さっぱり分からないが、現時点では、効果が上がらないだけでなく、悪影響さえ、及ぼしているように、感じられる。思えば、長々とした連休は、集中力を、失わせただけで、持て余す人を、多く出しただけで、その後の働きに、効果があったとは、とても思えない。使い方を、知らないから、という分析も、言い訳にしか、思えてこない。一体全体、何がしたいのか。

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8月17日(土)−不感症

 野生動物が、里に下りてきている。それどころか、住宅街を、うろつく姿に、驚かされる。確かに、お互いの縄張りが、はっきりしていた時代には、そんなことは、決して起きなかった。だが、こちらが、急速に、縄張りを荒らし始めると、相手も、態度を変えたのか。
 小動物であれば、可愛いの一言で、片付くのかもしれない。しかし、危害を加えられるほど、大きな動物が、近くにやってくると、そんな軽い気持ちでは、いられないものだ。この変化は、生息域を、犯したことから、始まった、と言われるが、本当に、それだけだろうか。保護という名の下に、様々な制限が、加えられるに従い、その数を、異常に増やしている、と伝えられるが、実態は、明確にはなっていない。だが、見かける数が、増してくると、単に、棲む場所が、無くなっただけとは、考えにくくなる。鹿は、確かに、その傾向があり、最近は、駆除という形を、とることで、数を保とうとする動きが、強まっている。保護は、ある均衡が、崩れた時に、使われた言葉だが、それ自体が、均衡を崩すことに、繋がるとは、考えなかったのだろうか。人間は、傲慢な生き物だが、その傲慢さが、こんな形で、現れてしまうと、様々な面で、悪影響が表面化する。ただ、この所の混乱は、それだけが原因とは、言えないように感じられる。野生動物が、人間の存在や、人間が操る機械などに、恐れを感じなくなった、と言われるのも、その一つだろう。ここでも、保護の影響だから、という声も聞かれるが、それだけなのか。危険を察知することが、生きる手立ての一つ、との解釈があるが、それを失った動物達は、自らを、危険に曝すことになる。人間の無謀さが、取り上げられる一方で、野生動物に見られる、この傾向は、何を意味しているのだろうか。

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8月16日(金)−二度と

 折角の挨拶を、台無しにしよう、というつもりは無い。無いが、相も変わらぬ状況に、苛立ちを、覚えた人も、居るだろう。確かに、代変わりの時だから、同じ言葉でも、伝わり方が、異なるとの見方がある。先代と、同じ言葉を、口にして、決意を表明するという。
 その意味が、無いとは言わないし、それが、無駄とも言わないが、同じ言葉を、繰り返しただけで、決意表明となるかは、定かではない。二度と、という言い回しで、強い決意を、表すにしても、経験者なら、その手立てを、思い描いてのもの、となるだろうが、未経験な人間にとって、どんな意味があり、どんな手立てを、思うのか、見えてこない。それも、発言者の問題、としてではなく、自分も、同じ世代にある人間として、何を、どうしたら、二度としないで、おけるのかが、見えていないのだ。その為か、この時期になると、毎年のように、戦前の世相を、検証しようとする動きが、出てくる。だが、毎年、同じことを、繰り返しても、結局、本当に何があったのか、見えてこないのだ。だからこそ、同じ対象を、異なる捉え方で、取り上げることで、新たな見方を、紹介するのだろう。単一の要因が、全てを引き起こした、という見方は、通用しないが、だからと言って、複合的な要因を、一つ一つ取り上げて、それらを検証するのは、簡単なことではない。それも、一方的なことが、原因となった訳でもないだろうから、相手のことも、考えねばならない。だとしたら、なおのこと、我が事として、二度とせぬ、と言うだけでは、成立しないことだろう。今の世界の状況は、抑止的な仕組みが、採り入れられているが、それでも、戦前と変わらぬ、不安定な状況が、生まれつつある。相互理解は、建前としては、掲げられているものの、本音は、全く異なる所にあり、自らの利益を、優先しようとする。一歩誤れば、簡単に踏み外しそうな状況だ。だからこそ、二度とせぬ、と強調するのか。

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8月15日(木)−力尽く

 一国二制度、という考えに、首を傾げた人が、多いと思う。歴史的な事情から、止むを得ないもの、との解釈が、施されたが、普通の感覚なら、別の国として、扱われるものとなる。だが、その常識を、承知の上で、歪みをそのままに、国としての体裁を、保とうとした。
 実際には、異なる制度なら、異なる国となる、という点に、注目が集まるが、中枢にある人々が、気にしたのは、一つの国、という体裁だろう。この拘りもまた、通常の感覚では、理解し難いものだが、別の歴史が、背景にある、と考えると、理解できそうだ。二つの政府が、一つの国を、名乗り続けてきたことに、徐々に、矛盾が強まっていた。その中で、国と国の交流を、政治体制の違いから、認めずにいたものが、障壁が取り除かれ、国家間の関係が、築かれるに至り、二つの政府の、どちらを正式と認めるか、決断を下す時期が来た。となれば、人の数も、本来の土地も、本家はこちら、との主張が、簡単に通ることとなり、従来、名乗っていた国の権利は、奪われることとなった。そこから、一つの国、という拘りは、更に強まり、統治を続けた国からも、それぞれの地域が、返還されることとなった。そこに、はじめに取り上げた制度の導入が、掲げられたのだ。地域に住む人々の、権利を保障する、との論法は、妥当に思えたが、現実には、多くの矛盾を顕在化し、秩序の維持さえ、難しくなっている。歴史的には、民族の異なる地域を、取り込むことで、国土拡大を続け、それらの地域でも、問題が起き始め、一つの国を、保つことの難しさは、極まっている。その中で、二つの政府の争いに、勝ち残ったとはいえ、あの島を、統治下にすることは、世界では誰も認めていない。にも拘わらず、一つの国という考えを、押し通そうとするのは、無謀であり、蛮行とも見える。経済による圧力から、武力へと結びつくのは、更に危険なことだ。

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8月14日(水)−国と地域

 始めは、不安が募る、という話だったが、そのきっかけが、ほぼ無くなった後でも、なお、勢いは、収まる気配を、見せない。そこには、確かに、施政者側の、煮え切らない対応や、そこへの、本国政府からの、過剰な圧力など、外部要因も、あったのだが。
 実際には、若い世代に、広がった不安が、いつの間にか、不平不満へと、様変わりを、したように見える。その原因は、何なのか、まだ姿が見えない。しかし、返還する、とした約束の中で、急激な変化を、恐れたからか、従前の制度を、ある程度維持する、という、摩訶不思議な方式が、採用されたとはいえ、徐々に、強まる圧力下で、他の地域と、似た制度へと、変貌させるような、動きが、急がれている。その中で、約束が違う、とばかりに、住民が、反対の声を、上げたのは、当然のことだろう。ただ、その目的が、達成されてもなお、勢いが、収まらないのは、何故なのか。確かに、政府への不信が、強まった結果だろうが、だとしても、この長期化には、まだ、別の要因が、ありそうに思える。その不安が、海を挟んだ、対岸の島にまで、広がっている、と言われる。こちらに関しては、二制度も何も、直接的な圧力は、かかっていない。何故なら、返還された訳でもなく、統治下にある訳でもないからだ。だが、世界的には、国と認められず、あの島の住民は、不当な扱いを、受けているように見える。どんな事情なのか、当時を、覚えていない人には、異常としか、思えないのだが、今でも、海を挟んで、主権の問題が、取り上げられるのは、世界の扱いの異常さを、表していることに、ならないだろうか。一つの中国という、使い古された言葉も、何故、そうあるべきかについて、理解する人の数は、少ないだろう。そこが、国としての主張を、始めた経緯には、確かに、異様さが、現れているが、だとしても、その島に住む人間には、権利があるように思える。今は、逆の立場で、不安の広がりが、論じられるが、実は、立場が全く異なり、こんな議論が、通用しないと、見た方が適切に思える。改めて、あの島の扱いを、考え直すべきだろう。

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8月13日(火)−独り立ち

 戦後からの、復興を目指していた時代、若者達は、仕事を得ようと、必死になっていた。今の不況とは異なり、経済状況自体が、確立されておらず、安定を求める声が、強まっていた。そこから、奇跡とも言われる、復興を果たし、一つの安定を見たのが、前の祭典の時期か。
 そこから、半世紀余を経て、確固たる安定を、手に入れることは、できたのだが、将来への不安は、逆に膨らんでしまったようだ。職を得ることの難しさに、立ち向かった時代は、一度、職を得さえすれば、その後の成長が、見え始め、老後の安定も、約束されていた。ところが、経済成長の勢いに、翳りが見え、その後、衰退とも見える、下降線を描き始めると、社会全体は、安定している一方で、成長が止まることで、将来への不安は、大きくなってきた。その中で、次代を担う人々に、課せられたものは、何だろうか。安定が続き、仕事を得ることは、然程難しくは、思えぬ状況にある。日々の糧は、確かに手に入れ易くなり、一種の安定を、味わうことができる。しかし、その反面、成長は期待できず、収入の増加も、手に入れられない。そこに、老後への不安を、煽るような雰囲気が、強まるとなると、日々の収入だけに、頼れないとの指摘が、以前にも増して、強まっている。そこで、注目されるのは、資産運用となるのだろう。単に、働くことで、収入を得るだけではなく、そこから、副次的な収入を得ようと、株式投資を始めとする、運用、投資といった行為に、注目が集まり、その常識を、身に付けさせようと、早期教育が、肝心との意見が、強まっている。だが、この風潮、どうなのだろう。親の保護下で、日々を楽しむことが、子供時代の特権の筈が、今や、親にも頼らず、自立を目指し、大人の常識を、手に入れさせる。この考え方に、賛同する人も居るが、窮屈な人生を、押し付けているだけ、とも思える。

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8月12日(月)−低評価

 誰もが、高い評価を、受けたいと願う。それを、当たり前と思うが、最近は、そうでもないらしい。目立つより、無難に過ごす方が、楽なのだと言う。本当なのだろうか。一方で、正当な評価が、受けられないことに、不平不満を、訴える人々も居る。この違いも、不思議だ。
 目立たずに、と願う人々に、目を向けても、仕方がないのだろう。一方で、評価を望む人には、どうしたらいいのか。多くの人の対応は、おそらく、不平を、聞くことで、彼らの不満を、解消しようとするだろう。だが、そんなことを、したとしても、正当と思える評価は、下りてこない。簡単なことだが、多くの人が、この違いに、気付かない。だからこそ、正しい評価を、要求するのだが、実際には、その姿勢自体に、誤りがある。評価を決めるのは、その立場にある人に、課せられた役割であり、受ける側が、決められることは、何一つ無いのだ。にも拘わらず、不当な評価と、思うのには、真っ当な理由がある。それは、評価を期待して、何をどのようにするのかを、決めたからで、なのに、期待とは違う反応に、戸惑ったのだ。だが、だからと言って、要求していい訳では無い。期待は、あくまでも、こちら側の判断に過ぎず、あちら側は、それとは無関係な、判断基準を、設定しているからだ。だからこそ、どういう基準で、判断するかを、期待する側が、読みきればいい、と思うだろうが、それとて、現実には、無意味な場合が多い。それでも、いい成績が、欲しいと願うのは、共通するところか。とは言え、その場での好成績が、将来全てを決めるなら、別だが、そうとは限らない。それより、そこでの悔しさが、別の力になることもあるし、その場限りの評価を、何とも思わぬ人も居る。それでこそ、将来の成長を、手に入れられるかもしれない。自分の目標を、達成することの方が、遥かに重要で、成長へと繋がる。周囲の評価が、付いてくれば、いいかもしれないが、そうでなくても、いいと思う。

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