主義の異なる国を、統一しようというのが、長年の夢、と伝えられる。それも、他の国の思惑で、分断された結果、となれば、自分の思いとして、貫徹したいとなるのだろう。だが、端緒はどうであれ、現状が、誰に、利をもたらすのか、そこには、別の思惑が現れる。
そんな経験がない人間には、こんな事情が、理解できる筈もない。だから、勝手にさせておけば、いいという訳でもない。依然として、対立する勢力が、ぶつかり合う地域で、何方に転ぶかは、その後の体勢に、大きく影響する。特に、隣国のこととなれば、彼らの利益のみで、動かれるのも、別の問題を、起こしかねない。国の代表として、決定権を、有するとされる人間が、国民の総意とは、異なる方向へと、進み続けるようだと、内政干渉と言われようが、様々な圧力を、かけることも、止むを得ないとなる。その中で、責任転嫁に終始し、抑圧された歴史を、殊更に、強調する国民性は、政府による、現状の暴走を、後押ししている、と見ることもできる。だが、それが、国の防衛に、悪影響を及ぼすような、動きに繋がったとなると、楽観視は、できないのではないか。今回は、文民統制、という言葉が、持ち出されていないが、まさに、その負の部分が、現れた結果、とされるのかもしれない。こちら側でも、防衛を担当する、女性大臣が、挙動不審や、意味不明な発言で、強く批判されたことが、思い出されるが、あの時も、文民統制の、危うさが、指摘されていた。ただ、政府全体の暴走が、起きた訳でもなく、危機が、迫っていた訳でもなかったので、そのまま、退任を、待つこととなった。だが、隣国の状況は、政府を挙げて、誤った決断を下し、国の防衛基盤を、崩そうとしている、とも映る。この愚かさに、関係国の憂慮は、嘗てない程に、強まっているが、さて、どうしたものか。
人気商売なのだから、当然のこと、と受け取る向きもあるが、本当に、そうなのだろうか。大衆政治と呼ばれ、時に、大衆迎合政治とか、衆愚政治とか、揶揄されることが、多いことは、政治の本来の役割より、別の要素が、優先されていることの、表れと見える。
政は、選ばれし者達が、民衆の代表として、国や自治体を、運営することを、示している。そこでは、多数の望むことを、目指すことも、目標の一つとなるが、それより、全体の均衡を保ちつつ、より良い社会を、築き上げることこそ、第一となるものだ。ところが、大衆に選ばれ、彼らを主体とする動きが、強まってくると、均衡よりも、一部の利益が、優先されることとなり、収支をはじめとする、運営の基本を、蔑ろにしてまで、多数の支援が得られる、決定を下すように、なってきた。誰もが、私利私欲に走り、後先考えずに、目の前の利益のみを、追求することに、今を生きる人間が、何の不満も抱かないのは、当然のことだろうが、それが、将来の不安を、膨らませることになるのは、深く考えずとも、すぐに理解できるだろう。にも拘わらず、皆、利益追求に走り、歪みを強めたり、将来への負債を、増大させても、今が良ければ、ということで、勢いに任せて、突き進んでいる。政に、携わる人間は、本来、均衡を保ち、良い状態を、如何に、長続きさせるかに、腐心するものだが、人気取りを、優先させる風潮では、眼前の問題に、取り組むだけでよく、更には、利害を明確にすれば、賛同を得ることは、さほど難しくないだけに、一度得た地位を、保つことも、それほど難しくはない。だから、だろうが、近年の世界情勢は、そんな空気に満ち、それぞれが、暴走とも思えるような、突進を続けている。この状況で、大衆に問うたとしても、まともな答えは、返ってこない。政を行う人間が、自分で判断せねば、更なる迷走が続くことになる。
安定した時代、傾向と対策が、最善の手立てと言われる。上昇にしろ、下降にしろ、変化が、著しい中では、傾向を探って、それに対する対策を、講じたとしても、現実は、全く異なる様相を呈し、的外れに、終わってしまう。だが、小さな変化には、対処可能なのだ。
そんな世相では、余計なことはせず、決められた範囲内で、適切な対処をすれば、高い評価を得られ、階段を順調に、登ることができる。その能力を、測ることが、教育の場で行われ、その値の違いで、進路が定められる。もし、この違いが、将来に渡って、影響を及ぼすとしたら、人生の全ては、教育の場で、決められることになる。おそらく、そうに違いない、と信じている人も居るが、現実は、そんなに単純ではない。決められたことを、無難にこなすことで、高い評価を得て、その道筋を、邁進してきた人間が、ある時を境にして、挫折へと、落ち込む姿は、誰もがよく目にするものだ。幸いにして、一時の挫折で、悩みの淵から、浮かび上がれる人も居るが、多くは、そのまま、表舞台から、消え去ってしまう。成功への道筋は、その直前までは、はっきりと見えていたのに、ある日突然、霧の向こうへと、移ってしまう。一方で、そんな挫折に、出合うことなく、無難なままで、人生を終える人も居る。どこに違いがあるのか、誰にも分からないが、もしあるとしたら、決められたことを、行う中で、少しの変化に、徐々に対応することで、転落を、避けているのかもしれない。その手立てについては、誰から教わる訳でもなく、いつ、どのように必要となるかさえ、明確にはなっていない。これでは、傾向と対策は、全く役に立たないばかりか、却って、悪影響ばかりを、及ぼすことになる。人間の成長は、こんなことにも、現れている通り、ある程度の傾向が、あるのだろうが、それだけではなく、別の要素に、対応する必要がある。これは、教育の場で、授かるものではなく、生まれながらに、授かっているものなのだろう。
批判的な見方が、重要であると、度々書いてきたが、大統領の中には、身勝手な解釈に、終始するだけで、客観性のないことを、批判と思い込む、愚かな人々が、居るようだ。衆愚政治が、台頭するにつれ、この傾向は、急速に強まり、歯止めが効かず、暴走が続く。
海の向こうの大統領は、批判を通り越して、罵倒するのが、常となり、上に立つ人間として、十分な資質を、備えていないと見える。会社を経営してきた、と伝えられるが、まるで個人経営の、利己的な考えに、基づくやり方しか、身に付けていない状況に、愚民達が、望んだ方には、進んでいないようだ。自らの権力を、信じて疑わぬ人間は、こんな言動を続けるのか、と改めて実感させる程、極端な判断を、下し続け、身勝手な決断を、誰の意見も、取り入れぬままに、表明し続ける。そこに、魅力を感じる人は、おそらく、自分に被害が、及ばぬ限り、支援を続けるだろうが、相手構わぬ姿勢に、次は誰、と疑わぬ心理は、愚かとしか見えてこない。隣国の大統領は、更に輪をかけたような、衆愚政治の権化であり、人気取りの為に、生贄のような標的を、探し続ける。彼にとって、幸いなのは、自国にとって、敵として掲げることができる、国の存在だろう。何が何でも、悪の権化として、掲げておけば、愚かな民衆が、支えてくれる、という考え方には、まさに、愚民受けする戦法が、見えている。しかし、非論理的な主張は、自国の愚民には、通用しても、客観的には、何の役にも立たないもの、となる。人気に酔い痴れると、こういう肝心なことに、気付かぬままに、暴走を続けることに、なってしまうが、今の世の中は、それを当然とする風潮が、定着しているようだ。だから、何の心配もせず、周囲を罵倒し続け、平気な顔で、居られるのだ。だが、彼らの行く末は、決して安心できるものではない。隣国では、退任後の吊るし上げが、常となっているし、海の向こうも、今回は、厳しい処置が、待っているようだ。
冴えない相場が、続いている。大国間の、啀み合いなどから、様々な圧力が、強まっている、と言われる一方で、当事国の一つでは、最高値の更新が、続いている。海の向こうが、無謀としか思えない、成長を続けているなら、こちら側でも、同じように、と思うのだが。
事は、それ程単純ではない、らしい。警戒する立場からは、無謀な成長は、嘗てのこの国の、弾ける前の状況に、似たものと見え、当時のような、暴走を避けたい、との思いが過る。そこに、国家間の争いが、様々に反映され、大国を相手として、商売を続ける企業が、根幹をなす国は、成長に、陰りを見せ始めている、と伝えられる。真相は、如何なるものなのか、現時点で、見極めることは、殆ど不可能だろう。だから、心理的な影響も含め、勢いが出ない状況に、分析的な評価を、下すしか方法がない。それにしても、何故、これ程までに、動きが鈍いのだろうか。羹に懲りたから、という話も、度々紹介されるが、本当に、そうだろうか。元々、相場を張る人々は、警戒を怠らぬ一方で、勝負に出なければ、大金を、手にすることは叶わない。だからこそ、人と反対の行動を、試みたりする訳だ。だが、成長期には、そんな山も、当てられたろうが、安定の時代には、そんな雰囲気も、漂わず、狭い中で、確実を、求めようとする。投資なのか、投機なのか、との意見もあるが、それ以前に、投資に対する考え方が、海を挟んで、全く異なっていることが、今の相場の動きに、反映されているのではないか。確率を、上げようとする考えにも、確率という数字そのものではなく、期待値を、上げようとする考えもある。そこに、大きな違いが、生まれてきているようだ。確率ではなく、確実を求め、小さな動きに、一喜一憂する中では、この停滞感は、破れないだろう。
昨日の話も、傾向と対策の一つ、なのだろう。慣れ親しんだ方式に、誰も、抵抗を覚えず、素直に、実行しようとする。だが、そんなことに、追いかけられ続け、あれもこれもと、備えようとして、疲れ果てるのでは、ないだろうか。それが、怒りの爆発に、繋がらねばいいが。
いつから、人々は、根源的な解決より、対処法ばかりに、目を向けるように、なったのだろう。安定した、平和な時代が、続くことで、人々は、安全が当然で、安心を当たり前と、思い込むようになった。その一方で、実は、問題は、噴出し続け、その度に、解決法を、模索することが続いた。だが、たとえ、問題が出てきても、全体的な平和が、乱されることなく、人々の生活は、ある意味、保障されている。だとしたら、無理をしてでも、解決を目指すのではなく、難解な問題を、そのままに放置して、場当たり的な対処を、考えた方がいいのでは、ということに、世の流れは、向かったようだ。その結果が、現状の有り様で、それでも、安定が続き、余計な混乱が、起きなければ、大丈夫と思っているようだ。だが、被害が出て来れば、少数とはいえ、それを被る人が出て、彼らにとっては、平和は壊される。全体を対象として、物事を考えれば、こういう時代には、何事も、平穏無事に、過ぎていく。そんな考えを、優先することで、手当てを続け、穴を塞ぐことで、拡大を防いできた。それはそれで、今の所、功を奏しているに、違いないのだが、本当に、このままでいいのか、誰にも分からない。だが、手間がかかり、時間を要するとはいえ、これらの難問を、放置しておけば、いいという訳ではない。少しずつでも、片付けていけば、何かしらの答えが、見出せるように、なるかもしれない。応急手当は、それとして、重要なことだろうし、対処法を、考えることも、大切だろう。ただ、問題は、解決しておかねば、将来が、危うくなるように思う。
何か、事件が起こる度に、未然に防ぐ手立てが、論じられる。例え、未然には、防げなくとも、避ける手立てを、という場合もある。どうも、世の中は、防ぐことに、目を奪われているようだ。本来なら、何故、攻撃をするのか、何故、他人に危害を加えるのか、を論じるべきでは。
人間の攻撃性を、抑え込むために、懲罰が、存在するのだろう。子供の頃から、他人に迷惑をかけたり、大人の注意を、守らなければ、ある意味の、懲罰が加えられてきた。だが、近年、その傾向が、急速に弱まっている。海の向こうでも、虐待という言葉で、括られるような行為に対し、厳しい懲罰が、加えられるようになった。子供の躾、という理由があっても、それが、肉体的より、精神的な影響を、及ぼすこととなれば、禁じる必要がある、という訳だ。許容範囲かどうかは、どこで線が引けるのか、未だに、明らかとはならず、程度問題は、結論が見出せないまま、周囲の目が、厳しくなるばかりとなる。だが、これが続いたことで、どうも、歯止めの利かない、駄々っ子のような、大人達が、世に蔓延ることになったようだ。それが、どんな悪影響を、及ぼしているのかは、日々、流される情報を、眺めるだけで、簡単に見つけられる。こうなると、防ぐ方に、力を入れるべき、との意見が、台頭してくるが、果たして、この論理は、正しいのだろうか。虐待を、良しとする訳でもなく、懲罰を、厳しくしろという訳でもない。しかし、本質的なことに、目を向けずに、表面的な平穏を、目指した結果が、こんな状況だとすれば、それを、正すことの方が、遥かに重要だろう。一方で、防ぐ為と称して、過剰防衛に走るのは、別の危険を、招くこととなる。海の向こうの、銃規制への反対は、あの大統領をはじめとして、過激化を招く考え方でしかなく、攻撃は、最大の防御とは、ならぬものだろう。根源的な解決を、目指さねばならないのだ。