パンチの独り言

(8月26日〜9月1日)
(論破、理性を求む、非分立、頑固者、検証せず、目的地は、震災後)



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9月1日(日)−震災後

 ここ数年、被災地を訪問している。年に一度で、何かができる訳でもない。だが、8年を経ても、変化が止まることはない。これは、ある意味、当然のことだろう。人の成長は、止まることはなく、身体的にも、精神的にも、大きくなる中では、期待と不安が、入り混じる。
 一方、成熟した後も、変化は、止まることがない。できなかったことが、できるようになるのとは、明らかに異なり、衰えは隠せず、期待が持てぬ中で、不安だけが、膨らみ続ける。そんな、変化し続ける人生の中で、外的要因により、急変が強いられた時、人は、失望に包まれていた。それまで、築いてきたものを、一気に失い、物質的な財産だけでなく、家族や友人などを、奪われることとなり、喪失感は、計り知れぬ程に、大きくなっていた。だが、だからと言って、その場に留まる訳にも、行かないものだ。復興という名の下に、一からのやり直しが、始まった時に、不安が消えることはなく、期待は、中々膨らまないままだった。ここ数年でも、そんな雰囲気が、被災地に溢れていて、どこに向かうのか、地元の当事者だけでなく、よそ者にとっても、わからないままだった。あれこれと、規則を作り直し、それまでにない、新たな試みが、始められても、変化を望む心が、ある一方で、元通りに、と願う気持ちが、湧き出てくることもある。その葛藤の中から、希望が芽生え始め、期待が抱けるような雰囲気が、出てきたのかもしれない。でも、事は、それ程には、単純ではない。破壊し尽くされた、あの日とは違い、復興が、目にはっきりと、映り始めた頃から、確かな変化を、実感することが、できるようになったが、だからと言って、何が、どう始まるのか、見えている訳ではない。震災以前の感覚とは、明らかに異なる中で、これまでとは異なる、やり方を実践する為に、何を、どうすればいいのか。やはり、はっきりとわかるわけではない。でも、あの日と同じように、ただ、立ち尽くしていても、何も始まらない。次は、何を、しようか。

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8月31日(土)−目的地は

 教科を、教え込むことが、教育ではない。という意見が、出てきたのは、おそらく、学校の荒廃が、全国で、否定できぬ程に、極まっていた頃だろう。人格形成において、重要な要素は、知識ではなく、知恵なのだ、という主張も、その当時、よく聞かれたと思う。
 しかし、教員としての資質を、養ってきた人々に、それ以外の能力を、要求するのは、酷だったろう。デモシカ、と呼ばれた時代には、他の資質を、持ち合わせた人間が、教壇に立つことも、珍しくなかった。教科を教えるより、他の話題に、授業が及ぶことで、子供達は、様々なことを、学んでいたが、成績重視と言われ、試験の結果のみを、追い求めたことで、彼らの存在は、無意味なものとされ、邪魔者と決めつけられた。競争社会が、当然のものとなり、学校にまで、それが、及ぶこととなり、精神的な不安定が、別の問題を、引き起こしてしまった。そこで、今更の如く、人格形成を、優先する教育手法が、取り沙汰され、教科とは異なる、主題を取り扱う、時間が設けられた。ゆとりと共に、失敗と数えられる、総合学習の時間が、登場したのは、そんな時代背景の中、だったのではないか。しかし、教科書もなく、指導書もない状況で、現場任せの改革は、数少ない成功と、山のような失敗を、作り出したのだろう。ゆとりを、投げ捨て、標的の見えない授業を、改革しようとの動きは、そんな失敗の歴史の後、始まったのだ。だが、問題点を、拾い上げることも、改善策を、講じることも、ないままに、突然、変更が言い渡され、現場の混乱は、これまで以上に、高まっている。ここでは、反省からか、指導書は、作られたとはいえ、内容は、吟味されておらず、教員の道標とは、なっていない。どこから始め、どこに向かうか、誰にも見えぬまま、見切り発車が、始まったのだ。

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8月30日(金)−検証せず

 教育現場の荒廃が、深刻になっている。実は、何十年にも渡り、問題となっており、はじめは、瑣末なことと、思われていたが、それが、多様化すると共に、深刻化したようだ。その流れを、振り返ると、方策は、様々に講じられたが、成果は、無かったようだ。
 例えば、多くの人の記憶に、強く残っているだけでなく、今も、深刻な問題として、取り上げられることに、虐めの問題がある。はじめは、教室内での、子供同士の、喧嘩の一種と、見られていたが、個人間ではなく、個人と集団の間で、起きていることが、認識されるに従い、喧嘩とは異なる、様相が伝えられてきた。原因を、探る試みが、様々に、なされてきたが、どれも、役に立たず、状況把握が、できたとしても、原因は、わからず仕舞い、となっている。その中で、子供時代に、虐めを経験したり、傍観してきた世代が、教える側に、回り始めると、別の問題が、生じてきた。それは、子供同士ではなく、大人を巻き込んだ、虐めが起きたことで、以前なら、実態を把握できず、意識せぬままに、加担していたものが、意図的な加担が、起きているのだ。それと共に、資質の低下が、問題視されたことで、免許更新という、仕組みの導入が始まった。おそらく、現場での、最大の変化は、ここにあるが、その他も含め、様々に講じられたものが、どんな成果を上げたのか、殆ど取り上げられていない。実は、ここに、最大の問題があり、教育に関する限り、検証は、全くと言っていい程、行われていないのだ。問題を、解決できぬまま、次々に繰り出される、試みを、検証せずに、行い続ける。これでは、駄目だと、普通なら、指摘を受けるだろうが、教育に関しては、聖域の如く、扱われ続けてきた。真の問題は、ここにあるに違いない。だが、関係者自身が、それを直視せず、猫の目行政を、続けては、何も変わらない。そろそろ、気付いてはどうか。既に、手遅れなのだから。

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8月29日(木)−頑固者

 主張を通す、というと聞こえがいいが、実際には、意地を張っているだけで、そこには、確かな主張さえない。猫の目のように、コロコロ変わる主張に、そろそろ、支持するのも、止めにしよう、という意見が、出てくる。これを、他人事と見るかは、人による。
 こういう言動を、続ける人の多くは、自らの主張は、筋が通っている、と信じて疑わない。だが、外から見れば、時に少しずつ、時に急激に、変化を続けており、論理の一貫性は、失われている。状況を、悪化させているのは、根拠の脆弱性であり、筋も通らず、論理も破れて、立場が揺らぐのも、当然と映る。上に立つ人間が、こんな状況で、他の人々は、それに対して、何を思うのか。多くは、この件に関しては、諦めるしかない、と思っているのだが、それはそれとして、自分にとって、何が肝心なのか、考えてみるきっかけに、なるのではないか。例えば、主張を通す中で、どこに問題があるのか、どこを改善すべきか、考えてみる。その際に、議論の相手と、意見を交換する中で、問題を見出し、改善の手立てを講じれば、自身の主張を、より強固なものにできる。せっかくの機会に、意地を張り、頑なに拒絶しては、何も変えることはできない。特に、意固地になることは、自身の主張を、客観的に評価しないことへと、繋がるだけに、注意を要する。助言に耳を傾けるのも、一時的に、主張の力を、緩めることによって、可能となる。指摘された時に、一々反論していては、何も変えられないことは、自分でも、よく解っていることだろう。にも拘わらず、批判への反発だったり、嫌悪を露わにするようでは、改善の余地を、自ら投げ捨てることになる。こんな性癖を、露呈する人間を、目の当たりにした時、それを、他山の石とする。それこそが、自分の為なのだ。

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8月28日(水)−非分立

 まるで、独裁国家のようだ、と思う。流石に、海の向こうの大統領は、強権を、何度発動しても、阻止されたり、再考を、促されるが、隣国の大統領は、元々、権力が集中するだけでなく、民衆の後押しを、得ているとの思い込みが、暴走を激化させ、独裁とさえ映る。
 本物は、分断された、片方にこそ、ある筈だが、民主主義の皮を、被っているだけ、と思える程に、無謀なことさえ、押し切ろうとする。民主主義の根幹をなす、三権分立に関しても、侵害とも思えるような、手立てを講じることで、独立性を、崩している。表面的には、独立した機関であり、互いに、侵すことのないように、仕組みができているが、実は、責任者の任命などに、権力を及ぼすことが、できるようになっている。それでも、様々な形で、傀儡とならぬように、権利保障が、なされているが、現状を眺める限り、独立ではなく、従属としか、思えぬ状況にある。これが、人を裁く役割を、果たす最高機関に、現れているとなれば、このところの、意味不明な流れと、介入にも思える状況を、正すことを、介入と解して、拒絶する事態は、ある意味、当然の結果と言える。権力集中は、様々な形で、矛盾を生じており、歴代の大統領が、退任後に、訴追されるのも、失権後の展開、と見れば、当たり前とも言える。だが、何度、そんなことが、起きようとも、誇りに塗れた国民には、是正を図る気持ちは、毛頭ないだろう。それが、敵対する隣国からの、助言となれば、拒絶しか、選択肢がないことになる。状況の悪化は、単に、隣国への罵りだけでなく、国防にまで、悪影響を及ぼすに至り、大国からの批判を、浴びることにさえなる。まあ、敵対する別の大国からは、秋波を、送られることに、なっているようだが。

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8月27日(火)−理性を求む

 感情を優先させた結果、どんなことが、起きているのか。今、最も話題となっているのは、運転中の怒りを、露わにする人々だろう。狭い空間で、自分だけの世界に浸り、自分中心で、排他的な考えに、囚われてしまう。本来なら、理性が、それを抑えるのだが。
 これと政治を、同等に扱うのは、非常識と、思う人も居るだろうが、何もかもが、これ程に極まると、同じ根をもつ、 と言えそうだ。特に、感情に訴えることで、賛同を得ようとする場合、これまでに無い程、操るのが簡単になり、他の手立てを、講じる必要が無い、と言われる。逆に言えば、根拠がなくとも、感情を、煽りさえすれば、民衆を、操ることができるのだ。その場では、不安や心配を、掲げることが、確実な道筋とされ、多くが、その手法を、実践している。しかし、そこには、何の根拠もなく、身勝手な論理が、罷り通る場合が、多い。心配な人々は、その種を検証せず、表面にある事柄や、相手が捻り出した、嘘の情報にさえ、振り回される。本来、科学的な検証を、施しさえすれば、即座に、嘘が発覚するのだが、その手立てを持たず、感情や心理に、振り回される人々は、強烈な印象から、偽の情報を、鵜呑みにしてしまう。こんな時こそ、検証が、必要となるのだが、感情的な人々は、自身で使えないだけでなく、他からの検証結果さえ、拒絶することになる。中身が、理解できないという言い訳は、当然の権利として、突きつけられ、懇切丁寧な説明さえ、受け入れ難いものと映る。これでは、何も成り立たない、と諦めてしまうが、それでは、状況を、更に悪化させるだけだ。感情を、鎮める手立てが、第一となるだろうが、その上で、丁寧な説明を、施す力量が、求められている。論理は、本来、万人に共通のものだが、感情という邪魔物は、それが通用しない空気を、産んでいる。

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8月26日(月)−論破

 感情の動物だから、人気取りにとって、それを優先させることが、肝要だとされる。だが、感情は、所詮、一時のものであり、長い期間に渡って、通用するものではない。逆に言えば、一時だからこそ、その場限りの、いい加減な論法が、通用するのだろう。
 しかし、感情の動きは、激しいものと、言われるように、それに訴えるものは、賛同も嫌悪も、極端に現れる。その勢いに乗り、人気を勝ち取れば、勝敗を決する場で、有利な結果を、得ることができる。その後の展開は、勝負とは無関係で、約束を、反故にすることなど、屡々起きることだ。その際にも、裏切りと批判する意見が、出てくるのだろうが、それが、長続きすることは、殆ど無い。これも、感情に左右されることだから、なのだろう。要するに、衆愚政治などで、熱狂的に支持される考えは、その大部分が、確固たる根拠が無いままに、感情に訴えたものであり、だからこそ、その後の混乱を、招く結果となる。戦いの最中は、感情を操ることに、終始する場合が多く、結局は、何方に転がっても、混乱を、避けることはできない。だからこそ、論理を築くことが、大切になるのだ。賛同を得る為に、魅力的な提案を、掲げることは多いが、その場合、実現確率は、非常に低いものとなる。確実性の高いものは、魅力としては、小さなものに過ぎず、賛同が、得られにくいのだ。だが、それこそが、現実的な選択であり、それを、実行に移すことこそが、着実な道を、進むことへと繋がる。ただ、今の世界は、正反対に進んでいる。その暴走を、妨げる手段に、別の感情論を、掲げる人々が居るが、誤った選択だろう。感情論に、対抗するには、論破する必要があり、そこで、必要となるのは、論理なのだ。少し、考えれば、分かることだが、論破の種は、一杯転がっている。感情に走らず、冷静に、対処すればいい。

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