パンチの独り言

(9月2日〜9月8日)
(好悪、説明力、思い付き、やり返す、罰当たり、いつ戻る、内から)



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9月8日(日)−内から

 精神的に、強い衝撃を受けた時、心に傷が残る、と言われる。正式には、心的外傷後ストレス障害、PTSDと呼ばれる症状だが、頻繁に使われる割に、その正体は、一般には明らかとなっていない。凶悪事件の被害者や、大震災の被災者に対して、使われることが多い。
 使われる対象は、厳格に、規定されているが、どんな症状かは、伝わってこない。何故、こんなことが、起きているのか、不思議に思う人が、多いのではないか。理由の一つは、症状を抱える人を、特別扱いする風潮にある。確かに、人と接することに、困難を感じ、近づく人さえ、遠ざけてしまう状況では、抱えている問題を、明らかにすることも、難しくなる。だが、病名だけは、明確に掲げられ、それが、重大な問題であると、本人も、周囲も、認識させられる。その一方で、そこから抜け出す手立てに関して、殆ど分かっておらず、暗中模索が、続いているようだ。実際には、被害者と被災者では、事情が、大きく異なるのに、同じ括りの中に、押し込んでおり、病名ばかりが、一人歩きする状況は、改善されそうにない。被害者の場合、強い恐怖を感じ、それが、精神的な不安定を、引き起こしたことが、原因の一つ、と考えられるのに対し、被災者の場合、恐怖によるものもあるが、一方で、多くの死者を出す中で、自分が生き残ったことに対する、心理的な抑圧が、原因になっていることがある。この抑圧が、何処から生じているのか、分析することなく、前の例と同じように、扱うのは、誤りではないだろうか。負い目、などと呼ばれる心理に関して、恐怖と同様に、扱うのは、どうにも理解に苦しむし、その原因を、見い出すことなく、単に、抑圧とするのも、変な感じがする。生き残ったことが、抑圧になるのは、それ自体を、他人から責められることへの、恐怖なのだろうが、それは逆に、自身が、そんな人達に、責めようとする感覚を、抱くからではないか。だとしたら、その出所は、自分の中にある。そこに、目を向ける必要が、あるのではないか。

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9月7日(土)−いつ戻る

 被災地は、徐々にだが、姿を変えつつあった。だが、地域により、進捗状況には、大きな違いが、現れている。既に、普段とも言える、生活が戻りつつある地域と、それが、余り見られない地域に、分かれているのだ。そこには、行政の方針が、強く影響している。
 多くの死者を出し、広い地域が、水没したという事実には、殆ど違いがないのに、何故、これ程大きな差が、出てきたのか。最も重要な違いは、住む場所の制限、にあるのだろう。ある地域は、既に、多くの住宅が、再建されており、まだ、空いている土地も、基礎整備まで、終わっている様子で、建築を始めようとすれば、すぐにでもできる状況に、見えていた。一方、数年前に、大掛かりな嵩上げ工事が、行われていて、何が起きるのか、と思えた地域は、少なくとも、嵩上げ自体は、終了しており、その上に、大規模店舗や工場と思しきものが、建っていた。しかし、住宅の建築は、厳しく制限されており、より標高の高い地域の、区画整理が進んでいるとされる。その為、工事が進む、嘗ての中心地は、人が戻っている気配もなく、依然として、工事車両の往来が、激しいままとなっていた。その上、道路脇の掲示では、工事の進捗率が、20%強に過ぎず、まだまだ、先が長いことが、分かってくる。震災から、8年余を経過しても、まだこの状況だとすると、一体、何時になったら、復興が達成されるのか。偶々訪れた、訪問者の印象より、その土地に住み続け、生活を取り戻そうとする、人間の印象の方が、大切なものなのだが、どんなものだろう。ここで取り上げた違いは、ほぼ行政の方針の違いに、よるものと考えられる。完成した暁には、気持ちよく住める故郷が、目の前に現れるのだろうが、いつまで待てば、いいのだろう。また、復興と言っても、海岸には、高く聳える防波堤が、見晴らしを妨げる。とても、元通りには、行かないのだ。

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9月6日(金)−罰当たり

 震災後の秩序は、この国の美徳として、様々に取り上げられた。緊急事態にも、関わらず、列に並び、大人しく待つ人々や、与えられる指示に、忠実に従う姿に、混乱の中で、それが更に拡大することが、集団としては、当然と見做される世界で、異常とも受け取られていた。
 確かに、自分達が、死の危機に瀕しているのに、落ち着いた態度を、取ることは、人間心理から、理解し難いもの、と映るようだ。しかし、本人達が、本当に平静を、保っていたかについては、全く異なる見解が、出されている。ただ、自然を相手にして、不安を露わにし、混乱を来しても、無駄との見方がある。人間を相手に、そういう態度を、取ることに関しては、当然との見方があるが、自然に対しては、そんなことが、何の役にも、立たないと、受け止められているのだ。世界の多くの国では、混乱の元が、どこにあったとしても、それに乗じて、何らかの利益を、得ようと躍起になる人が、一杯居る。はっきり言えば、暴動の如きものに、乗じて、略奪することに、何の躊躇も、感じないのだ。一方、こちらでは、そんな中で、秩序立った行動が、進められたことに、世界の驚きが、広がったという訳だ。だが、それから、何年も経て、詳しい様子が、伝わり始めた。震災直後にも、暴動や略奪を、訴える情報が、様々に流れたが、その殆どは、不安から出てきた、偽情報であることが、確認され、そんなことは、起き得ないのだ、という思い込みが、逆に広がることとなり、はじめに取り上げたような、国への評価へと、結びついた。だが、実際には、全く異なるのだ、という情報が、徐々に伝えられ始めた。つまり、暴動のような、激しい行動ではなく、空き家に、盗みに入るなどという、隠れた悪事が、頻発していたというのだ。被災地各地から、同じような情報が、出てくることから、おそらく、組織的な窃盗が、横行していたと考えられる。火事場泥棒は、いつの時代も、厳しく批判されるが、まさに、それが行われた訳だ。卑怯な悪事に、大人しいとは違う、国民性が、現れているのだろう。薄汚い連中には、天罰が下ると、考えたくなる。

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9月5日(木)−やり返す

 意思の疎通を、鍛えようとする時、送り手の問題ばかりに、注目が集まる。正しく送り出せば、意思の疎通が、図れるとの認識だが、相互理解という意味で、事は、それ程に簡単ではない。受けた側が、何らかの理解を示し、それを送り返さねば、疎通が図れたとは言えない。
 そんなことを、感じたのは、隣国の騒ぎの、様子からだ。疑惑の人物が、自らの疑いを、晴らそうとして、長時間の会見を、開いたことが伝えられた。誠実な受け答え、とも伝えられたが、実際には、都合の良し悪しで、答え方を変えていて、分かりきったことは、すぐに答えを示したのに対し、疑惑を持たれていた部分には、知らないとか、わからないとか、不鮮明な答えを、返していたようだ。この理由について、議論を進めようとする動きも、あるようだが、今のままでは、たとえ、何度会見を、開いたとしても、状況は変わらないだろう。何故なら、不適切な対応に対して、会見の場に、集まった人間達は、厳しく追及することも、弱点を突くこともせず、ただ、漫然と、受け止めていただけなのだ。これでは、相手の思う壺であり、好き勝手な言い分が、通るようにさえ、感じられる。この状況は、実は、世界中に広がっており、どこを見ても、一方的な流ればかりで、相互の情報交換とは、なっていない。その中で、自信たっぷりに、とうとうと、自己主張をする人間が、高い評価を受けており、互いの力不足が、露呈しているだけなのだ。端から見れば、通用しない論理を、振り翳して、平然と主張する人間に対し、その綻びを、指摘することなく、ただ、漫然と見過ごす人間達は、何の役にも立っておらず、まして、自らの務めさえ、果たしていないことになる。議論を常とする場でさえ、こんな状況で、国全体を見渡しても、中身は変わらない。これが、世界中に蔓延る、異常事態を、招いているとしたら、根本から、やり直す必要がある。

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9月4日(水)−思い付き

 発表に必要となる能力のうち、最も重要となるのは、意思の疎通だろう。伝えたいことを、的確に伝える能力さえ、身に付けておけば、心配が無くなる、と言われる。現場では、その為に、様々な工夫がなされ、効果的な訓練が、実施されている。これで、十分な筈なのだ。
 だが、現実は、期待した程には、達成されていない。伝える為の能力は、以前に比べれば、格段に進歩した。のだが、それが、表面的に可能となると、その対象に、目が向き始めた。どう伝えるかは、それなりの水準に達したが、何を伝えるかは、殆ど手付かずのまま、になっている。その結果、発表の様子は、滑らかな発言と、目を惹く提示内容が、揃っているのに、何故だか、話の内容に、引き込まれない。標的となるものに、何の魅力も、感じられないのだ。それこそ、着眼点であり、発想なのだが、どこをどうすれば、改善できるのか、見出せていないようだ。ここで、問題となるのは、考え方であり、その基本は、論理の構築なのだが、それを鍛える手立てが、見出せていないのだろう。道具の使い方については、一つの筋道が作られ、それに沿って、段階的に教え込まれる。指導書通りに、事を運べば、効果的な手法を、使いこなせるようになる訳だ。だが、考える力とは、自分の頭の使い方であり、それを、的確に教える手立ては、見出せていない。だとしても、どんな工夫が、可能だろうか。一つには、考える習慣を、身に付けることが、あるだろう。それも、意識的に、段階をつけて、考えることで、論理の積み上げを、経験することが、効果的となる。その上で、次には、論理のぶつけ合いを、経験する必要がある。それにより、足らない部分に気付き、改善するきっかけを、掴めることになる。次は、自分だけで、それをできるようにする。簡単なことでは、ないだろうか。

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9月3日(火)−説明力

 発表能力が、高まっている、と伝えられるが、果たして、どうだろうか。転職者の能力に、驚く上司の姿を、取り上げることで、その仲介を施す企業の、業績を訴える広告は、まさに、会議での発表能力が、才能を示すものと、見做している。それは、確かに、そうだろう。
 だが、広告からは、何がどう素晴らしく、上司を驚かす程の、印象を与えたのかは、見えてこない。着眼点の素晴らしさ、発想の独自性、などと、言葉は並ぶものの、それは、彼が抱いた印象でしかない。ここに、実は、大きな問題がある。近年、教育現場で、発表能力を、高めようとの動きが、強まっている。既に、道具は揃っており、絵を描いたり、文章を揃えたり、果ては、動く画像を流し、示したり、消したりと、台本通りに、芝居をするが如く、筋書きを作ることが、容易にできる。だから、作り上げた作品を、聴衆の前で、示しながら、滔々と話すことは、誰にでもできる、こととなっている。だったら、少しの訓練で、誰もが、高い発表能力を、手にすることができる、となるのだろう。だが、着眼点とか、発想とかは、そんな道具から、産み出せるものではない。道具は、見せ方の工夫になっても、人間が、考えるべきものを、代わりに作り出すことは、できないのだ。そう考えると、皆が賞賛するような発表も、目先を誤魔化すだけで、中身がついていかないものが、多くなっているのではないか。道具を、使いこなす能力は、身に付いたとしても、そこに、一工夫を加える能力は、この訓練では、身に付かない。そろそろ、そんなことが、現場でも、意識され始め、更なる工夫の、必要性が、認識され始めた。だが、根本部分だけに、小手先の指導で、成せるものではない。着眼も発想も、論理の構築が、基礎となる。毎度お馴染みの、論理力の涵養であり、その手立てを、どうするかなのだ。手始めは、説明から始めることだ。作り上げた筋書きで、書き上げた台詞を、読むのは、説明ではない。では、何をするのか。

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9月2日(月)−好悪

 誰でも、好き嫌いがあるものだ。食べ物に、それが現れるのは、当然と言われるが、体の為に、我慢してでも、食べろと言われる。でも、無理は無理、大人になっても、なお、それが残っている人も、少なくない。嫌なものは嫌、と言える年代になり、そのままに、ということだ。
 食べず嫌いに関しては、学校給食によって、改善された、という人が多い。無理矢理だった、とは言え、それが、功を奏する、とされてきた。だが、個人の権利を、尊重することが、優先される時代となり、様相が、一変した。まだ、残さず食べることを、強いられる場合も、あるようだが、強制を禁じる動きが、強まった結果、食べ残しも、止む無しとされている。本来、個人の好き嫌いは、個人の問題であり、家庭の躾こそが、その役割を、負うものだとされ始めた。確かに、そうに違いないが、だからと言って、給食での指導を、無駄と片付けるのは、どうだろうか。これについても、賛否両論があり、決め付けるのは、難しいのだろう。では、人間に対する、好き嫌いについては、どうだろうか。基本として、そういう態度はいけない、と躾るのは、家庭の責任だろうが、多種多様な人間に、接するのは、社会に出てからであり、学校は、その第一歩となる環境だろう。そこでの、好き嫌いと、どう付き合うかが、社会適応に、不可欠なものとなるが、これについても、最近は、様子が変わっている。ここでも、好き嫌いをきっかけとして、排除に出ることが、現場での、大きな問題となっているのだ。仲間意識を、重視することも、判断基準として、好悪が優先されると、混乱を、来すこととなる。良いか悪いか、どう区別するかは、個人の自由なのだが、集団として考えると、それをどう扱うかが、肝心となるのだ。では、好き嫌いは、どう扱うべきか。個人の自由と、集団生活の優先度、どちらを優先させるか。でも、実は、両立させねば、ならないのだ。心の中と、表面的なもの、区別をすることも、大切なのだろう。

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