パンチの独り言

(9月9日〜9月15日)
(どう接する、謀反、事実とは、粉飾人事、心配性、自立を、冷淡)



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9月15日(日)−冷淡

 弱者に、鞭打つ訳ではないが、そう見る向きも、あるだろう。問題を、正視し、解決への道筋を、見極めることが、解決への近道、と思うが、最近の風潮は、解決より、労りの言葉を、優先させ、それがたとえ、解決を遠ざけても、人道的に、意味あるものとする。
 確かに、一時の幸福感は、同情や賛同により、得られるかもしれない。しかし、根本の問題を、放置したまま、優しい言葉を、かけたとしても、それは、解決には、結び付かない。そればかりか、最近の風潮では、同情と賛同で、事が済んだとする、無責任な姿勢さえ、強まり始めている。特に、報道の姿勢は、この傾向が、著しくなり、画面に出て来る、出演者は、総じて、労りの言葉を、発し続ける。これが役目、とばかりに、口々に、同情の言葉を、発するけれど、そこには、その話題の問題を、捉えようとする態度は、全く見えていない。それでも、一時の安らぎを、歓迎する声は、高まるばかりで、これが、唯一の救いのように、扱う人まで出て来る。だが、そんなことは、問題から、目を逸らさせ、解決への時間と手間を、省こうとするだけで、何の役にも立たない。大規模停電の影響は、様々に伝えられるが、訴えの数々を、掲げているに過ぎない。問題を、如何にも重大であると、伝えても、それは、提起に終わるだけで、同情を買う為の、ものでしかない。その手助けを、行うことが、自分達の役割、と認識していても、解決に導かねば、何もならない。確かに、停電が、元凶であり、復旧こそが、第一ではあるが、訴えの殆どは、今抱える問題の、解決を望む声だ。だとしたら、それを解決する手立てを、考えることこそが、識者の役目であり、報道の責任だろう。停電で、収穫した籾米の、乾燥に支障が出ている、との訴えも、地域外に持ち出せば、解決しそうに思える。ただ、大変だ、と騒ぐだけでは、何も始まらない。

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9月14日(土)−自立を

 先日書いたように、徐々にだが、確実に、復興が進んでいるように、見えていた。心配ない、とは言えないものの、日常が戻り、生活の基盤が、できている様子が、確かに感じられた。いつまでも、自立できないのでは、問題は、永遠に、解決しないものだ。
 その地域で、生きていこうとする人も、遠くから、見守るだけの人も、誰もが、平穏が戻ってくるのを、願っている。そう思う一方で、依然として山積する、様々な問題を、取り上げることで、志半ばであることを、意識させよう、という思惑がある。報道方針は、頑なに、その思惑を、抱き続けている。別の見方を、示すことで、問題解決には、依然として、多くの課題が、立ちはだかっている、とでも、言いたいのだろうか。だが、彼らが貫く方針には、何か、偽善的なものを、強く感じる。弱者は、永遠に、弱者であり、被害者は、いつまでも、被害者である、とでも、言いたげだが、当事者達は、どう感じるのか。施しを、受けることが、当然と考える人も、居るには違いないが、こんな報道を、眺める度に、嫌悪感を、催す人も、居るのではないか。受けるしか、選択の余地のなかった頃を、思い出したくもない、と明言する人にとり、施しは、確かに有難いものだが、それを、受け続けることへの、後ろめたさが、別の思いを、抱かせる。平穏を、取り戻させる手立てとして、準備された住宅の、賃貸料が、急激に上がり、転居を余儀なくされた、人々のことを、取り上げて、まるで、施しの継続を、させようとしていたが、それは、本来の制度の意義を、壊そうとするものだ。嘗ての生活を、取り戻すための、支援の一つを、日常と受け止め、その継続を、願う気持ちも、わからなくもないが、それでは、真の自立は、戻ってこない。慣れに、流されることは、気持ちを、弱くするだけなのだろう。

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9月13日(金)−心配性

 本来の意味は、命綱なのだが、それに関わる程に、重要な公共サービスは、それが、絶たれた時に、初めて、有り難さが、感じられる。今回も、大規模な停電で、その原因となった台風が、運んできた猛暑も、加わることで、命に関わる程の、影響が出ている。
 報道は、いつも通り、このことばかりに、目を向け、それに付随して生じた、問題の分析は、相変わらず、怠っているようだ。電気の有り難さは、停電が、外気温の高さに、対抗する措置として、室内の気温を、下げようとする仕組みを、役立たずにしてしまうことから、はっきりとした。多くの人々は、少ない数の対抗措置として、自家用車の冷房に、救いを求めたとのことだが、次は、燃料の問題が、噴出し始めた。大震災後に、計画停電に加え、燃料不足が、深刻になった時、多くの人々は、備蓄を持つ、給油所に、殺到していた。その際に、指摘された、馬鹿げた問題は、枯渇を恐れる余り、殆ど満杯なのに、ほんの少しだけ、給油する為に、何時間も行列した車で、混乱を招いただけでなく、時間のみならず、燃料の無駄さえ、引き起こしていたことだ。今回も、長蛇の列を、眺めていると、その中には、そんな愚者が、居るに違いない、と思えてくる。心配、不安を、抱く人々に、救いとなる手立ては、他にはなく、気持ちを、鎮める為には、やりたいことを、やらせるべき、との意見もあるが、公共性を優先させ、物事を、論理的に考え、より良い答えを、導き出す努力を、促さねば、こういう、ある意味、静かな暴動を、防ぐことはできない。困ったとか、心配だとか、弱者の声を、拾い上げることは、確かに重要なのだろうが、その影響を、冷静に分析することは、単純に、問題を解決する為だけでなく、弱者の心理を、支える為にも、必要なことなのだ。

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9月12日(木)−粉飾人事

 あれ程、批判されていたが、その後、何が、変わったのだろうか。誰がなっても同じ、とまで言われ、当人達が、勲章の一つと考えても、実態としては、ただのお飾りの如く、扱われていたことは、事実だろう。結局、役人共が、全てを決め、実行していたのだから。
 官僚政治、と呼ばれ、国の運営は、役所の判断で、行われる、と言われた時代、まさに、多くの大臣達は、用意された原稿を、間違えずに読むことだけが、役割となっていた。三権分立では、内閣が、行政、つまり、国の運営に、携わる筈で、それは、大臣を長とする、人々が、担う筈のものだ。ところが、官僚政治、となれば、大臣を、表に立てるが、影では、官僚と呼ばれる役人共が、全てを操り、行政を動かしていた。経済成長が、続く中では、少々の問題は、黙認されてきたが、経済破綻が、見え始めると、舵取りこそが、重要との指摘が、強まるに従い、官僚への批判は、厳しくなるばかり、となった。だが、その後の展開は、実は、殆ど何も変わっていない、ように見える。大臣は、相変わらず、不見識を、露呈し続け、任期途中で、辞任する羽目となり、原稿読みさえ、覚束ない人まで、出てくる始末だ。その一方で、支える側の官僚は、強い批判から、人気の凋落が、露わとなるにつれ、役所全体の、能力低下が、深刻な問題と、なりつつある。これは、批判が強まる直前に、採用された人間から、その傾向が、強まったと言われるから、人気云々で、片付けるべき問題では、なさそうで、複合的なものと、考えるべきだろう。そこに、今回の改造では、まるで、札を切るように、入れ替えが行われ、お飾りの印象を、強めている。人気者の登用も、的外れの所信を、表明するなど、不安要素が満載で、期待薄と見える。強い意見を、押し通した人達も、別の役割を、当てられたことで、どうなるのやら。逆風覚悟で、自らの念願を、押し通す為の、支援体制を、築いたことが、どんな歪みを、生じるのだろうか。

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9月11日(水)−事実とは

 映像を、材料として使う、公共媒体は、事実を、伝えることが、役目とされる。そこに、映っているものは、事実であり、それを流す限り、何の問題もない、と思う人が、多いのではないか。だが、少し考えれば、分かることだが、事実も、繋ぎ方一つで、細工ができる。
 事件の映像は、確かに、事実を、記録したものに、違いないが、それに、意見を添えた途端に、事実とは異なる、個人や組織の考えが、表明されることになる。事件の被害者や、加害者が、何かを、発言したとしても、全体ではなく、一部を切り取れば、全く異なる「事実」が、出来上がるのだ。報道機関が、好んで用いる手法で、活字になる場合は、誰もが、切り取りを、当然のものとして、受け止めるが、映像で流れると、そこに、作為があるかどうか、判断することは、困難なのだ。それが、製作者側の優位を、確保している。自分の作りたいように、作り上げることができ、時には、正反対の結果さえ、伝えることが、可能となる。特に、話をする場面では、その順序を、入れ替えたり、否定していた筈の部分を、肯定のように、作り変えることも、できる。それにより、筋書き通りに、展開することも、可能となる訳だ。これでは、事実ではなく、虚偽となる。だが、受ける側には、それが、見えないように、なっているのだ。背景を、知る人間にとっては、明らかな欺瞞だが、知らない人間には、事実以外の何物でもなく、映っている。報道に関わる機関は、その媒体を、占有することができ、情報操作も、容易いものとなる。だが、最近は、事情が、大きく変わり続けている。つまり、一個人でも、インターネットという媒体を、用いることで、世界中に、思いを伝えることが、できるのだ。こうなると、それまでの優位は、維持できず、欺瞞は、いとも容易く、暴かれることになる。それでもなお、同じ愚行を、続けているのは、そこに、利害があるからだろう。騙されない為には、情報の窓を、大きく開かねばならない。

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9月10日(火)−謀反

 謀反は、失敗したのだろうか。嘗て、救世主と呼ばれた人物が、依然として、頂点に居座る中、企業内の不正を、告発することで、その地位から、追い落とすことは、上首尾となった。だが、その中心人物が、今度は、自らの不正により、辞任を、余儀なくされた。
 この企業と、資本関係を結ぶ企業の、大株主である国からは、ミイラ取りがミイラに、と揶揄された、と伝えられたが、当人は、権力にしがみつくのではなく、ただ単に、長年不正を重ねた、傲慢な経営者を、追い落とすことだけが、唯一の目的と、何度も表明していた。その意味では、謀反は、成就したと言える。法律的な判断は、まだずっと先のことだが、少なくとも、経営陣から退かせ、権力を剥奪することが、できたからだ。だが、告発の最中も、相手から、別の不正への加担を、指摘されていたことから、今回の展開は、当然予想できたものだろう。本人は、法律的判断の結果や、企業体制の再構築を、確かめてから、自らの処遇を、考えるつもりだったろうが、権力を手に入れることが、第一の目的ではなく、退陣こそが、目的だっただけに、今回の表明は、時期の違いことあれ、ミイラ取りと、揶揄されるほどのことでは、なかったと思われる。それにしても、この企業は、嘗て、栄光を、徐々に失いつつあった頃から、経営者の品格が、問題視されてきた。経営の資質に、問題があったとされた、人物達は、唯一の延命策として、資本関係の締結が、決まった瞬間に、地位を追われ、黒船来襲とも言われた、件の救世主の登場、と相成った訳だ。しかし、回復は、確かに、達成できたものの、提携企業の切り捨てや、もう一つの資本関係にある企業の告発など、その経営方針は、異常さを、隠せずにいた。再びの衰退に、どんな方策が、講じられるのか、まだ見えていないが、嘗て、築き上げた方針を、刷新せずには、回復は望めないだろう。

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9月9日(月)どう接する

 多くの学校では、長い休みが明けて、一週間が経過した。休み明け後の、不安定な時期に、生徒の周辺は、神経を尖らせ、少しの変化も、見落とさぬように、気を使っていただろう。それでも、平穏な日々が、続くことで、やっと、元通りの状況に、戻ってきた。
 近年は、兎に角、心の病のことが、強く気にかかる。周囲にも、不安定な状況を、見せる人が、多く居ることから、心配するのが、当然と思うようだ。それに、拍車をかけるのは、医師による診断だろう。病かどうかは、専門家の判断が、必要とされるが、詳しいことが、理解できなくとも、病気と診断される人の数が、急増している状況に、異常と感じる人が、多いだろう。その理由は、基準の設け方にあるが、専門家でなくとも、ある程度、判断が出来る程に、明確な基準に、当てはまる人が、増えたから、と言われる。だが、この解釈には、大きな誤りが、あるのではないか。基準を、明確にしたから、当てはまる人が増える、という論理には、疑わしさが、見え隠れする。つまり、基準を、はっきりさせたからと言って、該当者の数は、増えることなく、殆ど変わらない、と思えるからだ。ここでは、逆の見方を、当てはめた方が、良いように思える。つまり、基準が、不明確となり、当てはまる範囲が、広げられた為に、多くの人が、該当することとなり、結果的に、病気との判断が、下された、ということだ。この基準の変化は、ある思惑を持って、起きたと思われる。患者の数を、増やすことは、薬の問題や、治療の問題において、多くの収益が、期待できる。製薬会社と医療機関が、結びつくことで、こんな変化を、起こしたとすれば、由々しき問題となる。専門家でなければ、真相は、明らかには、できないけれど、そんな流れが、ありそうだとも想像できる。はじめに取り上げた問題は、これとは、別のことだろうが、それにしても、不安定な人の扱い方を、治療という形でなく、周囲が考える必要がある。

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