パンチの独り言

(9月16日〜9月22日)
(頃合い、強制外交、無理解、路上生活、極悪人、薄める、争点)



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9月22日(日)−争点

 海洋放出にも、当然ながら、賛否両論がある。興味深いのは、科学者と呼ばれる人々でも、両論があることで、それぞれに、全く異なる主張が、展開される。科学を、絶対視する人の多くは、これを、不思議と思うだろうが、実は、ごく当然のことで、何の不思議もない。
 放射性物質関係で言えば、事故直後の反応にも、同じような、正反対のものが、出ていた。その時と、ほぼ同じ反応が、出ているのだが、科学を頼りにする人に、混乱を与えているようだ。だが、その状況を、ちゃんと理解すれば、その違いを、掴むことができ、不思議が、不思議とはならない、ということが、分かるに違いない。結論から、先に言えば、それは、専門分野の違い、から来るものなのだ。放射線の人間への影響、が主題となるが、そこで、議論を戦わせていたのは、大きく分けると、物理学を専門とする学者と、生物学を専門とする学者だった。今回の事故から始まった、汚染に関して、過剰とも思える反応を、示していたのは、物理学者であり、その主張は、少しでも確率を上げることは、危険であるとのものだった。確かに、放射性物質の放出により、危険度は、上がったに違いないが、その解釈には、実は、二つの異なるものがある、という背景に、注意する必要がある。一方で、比較的冷静な反応を、示したのは、生物学者であり、そこには、確率は、確かに高まるが、その範囲は、生物にとって、対応可能なものに、留まるとの主張があった。前者は、確率的な考えで、多くの場合、直線的に変化する、というものだ。後者は、確定的な考えで、ある値を境に、確定的な事象となるが、その値以下では、殆ど影響がない、というものだ。この立場の違いは、互いには、受け入れ難いもので、乗り越えることはできない。だが、これまでの調査結果は、後者に与するもので、前者は、物理事象に目を奪われ、生物が関わることに、目を向けていない為に、見誤っている、と言われる。

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9月21日(土)−薄める

 就任早々、庶民に寄り添う見解を、滔々と述べることで、信頼を勝ち得た、と考えたのだろう。だが、報道に携わる人々も、批判となれば、何かしらの知識を、持ち出すのだ。前任者を、全面否定し、科学的なことより、大切なことがある、とばかりに、言い放ったが。
 そこで、批判されていたのは、前任者が、原子力発電所の汚染の、処理の過程で、増え続ける、ある放射性物質を含む水を、海洋に放出することで、処分するしかない、と実情を説明したことへの、住民、漁民からの反対に、全面的な賛同の如く、人々の気持ちを、重視しなければならない、とした見解に対してだった。今後も、増加し続けるものを、どう扱うかに、触れることなく、ただ、前任者の不見識を、論う態度に、そちらの方が、遥かに見識に欠ける意見、と批判されたのだ。議論の中心は、処理では取り除けない、ある放射性同位元素を含む汚染水を、どう処理すればいいのか、ということだが、前任者の発言にあるように、これまで、どの施設にせよ、この種類の廃棄物があれば、希釈するのが、唯一の方法とされてきた。だが、ここでは、大量の汚染水に含まれる、高濃度の放射性物質であるだけに、これが適切かどうか、判断がつかない、との意見もある。しかし、概算することなく、ただ、量が多いと主張しても、馬鹿げたことだし、何かしらの数値を、示すのが、筋ではないか。ということで、少し計算してみよう。海洋水の量は、概算によれば、13億5千万立方kmなのだそうだ。これに含まれる、例の放射性同位元素は、大体平均で1リットル当たり、2ベクレルだそうで、そうなると、大体海洋水全体で、2.7*10E21、2.7かける10の21乗ベクレルとなる。今、報道によれば、溜まった汚染水中の総量は、推測では2.6かける10の15乗、と言われている。つまり、これを海洋水全てで、希釈したとしたら、10の6乗分の一、百万分の一、一万分の一%増加することになる。これを、どう考えるか。

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9月20日(金)−極悪人

 衆愚政治の愚かさを、隣国の状況から、伝えようとするが、果たして、足元は、どうだろう。災害が起こる度、事故が起こる度に、被害者に寄り添う姿を、画面一杯に展開する、政治家達は、どんな目論見を、抱いているのか。それを、考えれば、歴然としている。
 政治家が、個人に寄り添うことは、一見、人間的に思え、心の温かさを、表すものかの如く、扱われる。だが、政治家が、考えるべきことは、一つ一つの瑣末な事柄ではなく、全体の利益であり、それを優先する為に、一部の不利益が、露見したとしても、致し方なし、とされるものだ。当事者から見れば、温かさの欠片もなく、冷酷そのものに、思えることだが、全体として、利益が大きければ、最善の策、と見ることもできる。近年の傾向として、弱者の保護が、最優先とされることから、不利益を被った人々に、光を当てた上で、その措置を下した人々に、罵声を浴びせる訳だが、こんなことを首謀する連中こそ、個人にも、全体にも、利益を考えることなく、自分達だけを、考えていることに、愚かな人々は、気付かない。だからこそ、人気が保たれ、地位が保たれることになる。この連鎖が、いつまで続くかは、はっきりしないが、或る日突然、それが終わってしまう。その時になって、初めて、自らの愚かさに、気付く人も、居るだろうが、ほんの一握りだろう。愚かな人々は、何がどう起きようが、自らの愚かさに、気付くことは、決してなく、ただ、自分だけを、見て過ごすものだ。そこにつけ込むのが、今の衆愚政治であり、こんな人々の上に立つからこそ、成立する仕組みなのだ。人気という点では、変わりがないものの、実行することが、個人に寄り添う考えからか、全体を俯瞰してのものか、によって、結果は、大きく変わる。変わるべきは、愚かな人々ではなく、全体を見ようとしない、政治家達だ。

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9月19日(木)−路上生活

 異様な光景が、広がる。画面に映されたのは、道路の両脇に、ずらりと並んだ、車の列である。それも、普通車ではなく、所謂、遊びで出かける時に、使われる、寝泊りができるもので、場違いの感が、強く残った。何故、街中で、車中泊を、しているのか。
 そこは、海の向こうの、大都市の一つで、昔から、住宅費の高さで、注目されていた所だ。悪政の中でもなお、順調な成長が続いており、住宅費の高騰は、収まりそうにもない、と言われている。その中で、値上げに耐えかねた人々は、意を決して、住宅というものと、縁を切ったと言われる。住む場所を、持たない人々、という意味で、ホームレス、と呼ばれるようだが、さて、車中泊を、続ける路上生活者は、果たして、その範疇に、入るのだろうか。光景の異様さを、強めていたのは、路上駐車の列で、こちらの国なら、即座に、違反行為として、処分されるのに、その点は、あちらでは、どうなっているのか。おそらく、取り締まりに当たる人間の、数が足らず、放置状態なのだろうが、それにしても、異常事態としか、思えない。悪政の主は、この事態に対し、支持者の少ない地域だからか、例の如く、悪罵を書き込んだらしいが、相も変わらぬ、責任転嫁に、呆れるばかりとなる。再選を目指す中で、利点は、自らの功績であり、悪い部分は、全て、他人のせいとなる。こんな身勝手さが、通用するのが、衆愚政治の典型だが、その行き着く先は、破滅となるか、捨てられるかの、どちらかに違いない。それにしても、こんな事態に、こちらの国なら、救いの手が、当然とされ、手立てを要求する声が、強まる筈だが、海の向こうは、自己責任の国だ。こんなことが起きたのも、自業自得とされ、解決の糸口も、自分で見つけるしかない。となれば、あの大統領の再選は、やはり、あり得ないとなる。

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9月18日(水)−無理解

 周辺国への、侵略の歴史を、正しく理解していない、との批判が、何時まで経っても、絶えないのは何故か、理解に苦しむ人が、多いだろう。反論の多くは、忘れない為に、誇張や、時には嘘まで、掲げることで、歴史を伝える姿勢を、糾弾するが、我関せず、となる。
 弾圧や、虐殺といった、悲劇的な歴史は、加害者と被害者で、その解釈が、大きく異なってくる。全面的な謝罪が、功を奏したとされる、一部民族の虐殺や、隣国への侵略を、行った国でも、実際には、事ある度に、謝罪は不十分、との意見が再燃し、批判が強まる。被害と加害の間は、所詮、そんな関係に過ぎず、歴史を忘れるか、だけでなく、正しく理解するかも、立場によって、状況が大きく異なる。事実は、一つだけなのに、何故、このようなことが起きるのか、理解に苦しむ人が、居るだろうが、実は、この状況こそが、当然なのだ。少し見方を変えて、人間の間の、このような関係ではなく、自然と人間の関係に、目を向けると、何となく、その状況が、理解できる。大地震の後の、大津波に、襲われた地域も、徐々に、復興が進むことで、日常を取り戻しつつあるが、その一方で、あの悲劇を、忘れてはならぬ、という声は、収まる気配が、見えてこない。二度と、起きないように、との思いは、当然のものであり、それを、継承することの大切さは、誰もが理解できる。だが、その為に、悲劇の状況を、正しく伝えることが、重要かどうかは、意見の分かれる所だ。悲惨なものを、見せつけることで、理解させようとするが、その印象は、人それぞれなのだ。強めた方が、効果的と、考えるのは、常道だが、強過ぎるのは、逆効果との意見もある。だが、そんな議論より、もっと重要なのは、感じる人は、想像を巡らせ、理解するが、感じない人は、事実を見ても、理解できない、という違いだ。感性の問題、なのだ。

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9月17日(火)−強制外交

 隣の大国の、経済成長は、世界の安定に、大きな影響を、与えるものとして、受け止められていた。だが、それが、ある線を越えると、様子は、徐々に、変わってしまったようだ。誰かの後を、追いかけるものとして、追従を続けてきたが、愈々、先頭に。
 確かに、規模としては、先頭の一つ、に数えられるが、どうも、内情は、とてもそうとは言えない、状況にある。成長が続き、溜め込んだ資金を、国内産業に、注ぎ込むことに、限界が見えると、それを、対外的な投資へ、回すことになる。ある意味、当然の成り行きだが、これは、それぞれの国の、考え方が、強く反映されるものとなる。こちらも、大幅な成長の中で、多くの途上国に対し、無償援助を始めとする、様々な支援を、続けてきた。それと同じことを、あの大国も、行うと考えるのは、その当時、まさに、こちらからの支援を、頼りにして、成長の端緒を、掴んだのを、見てきたからだが、あの国の考え方は、全く異なっている。成長は、あくまでも、自らの力によるものであり、その力を持つ国は、多くの国を、率いる資格があると、考えたのだろう。援助を、盛んに行う点は、同じように見えたが、現実には、利害を優先することで、交換条件を、様々に添えた点が、こちらが行ったものとは、大きく違ったのだ。それにより、最近、多くの国で、高度な整備が、行われた後で、投資された資金の、返還を求められ、条件を満たすしか、選択の余地が、残らない国が、続出し始めた。その結果、他国の港を、自らの管理の下に置き、軍港化している、とまで言われている。同じ線上にあるのは、自分達が、国内の地域と見做す島国が、交流する小さな国への、投資により、断行を強いる外交で、利害優先が、そこにも、現れている。どこに向かうかは、誰にもわからないが、不安定を招くことは、はっきりしている。

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9月16日(月)−頃合い

 伸び率、成長率、兎に角、より大きく、より高く、そんな変化が、望まれている。だが、器は、常に限られており、無限ではない。となれば、いつかは、限界に達し、それ以上は、広げられない。そこには、明らかな矛盾があり、期待は、裏切られるしかない。
 なのに、人々は、伸びや成長を、当然のものと、考えてしまう。それが、限界に達した時、膨らんだ風船が、弾けてしまう。そんな悲劇を、目の当たりにしても、なお、人々は、依然として、期待を持ち続け、当然のことと、考えているのだ。何故、これ程、自明なことに対し、目を向けようとせず、期待を、追い続けようとするのか。そこには、人間の性、のようなものが、あるように思える。良い変化を好み、悪い変化は、忌み嫌うだけでなく、見ようともしない。時に、そんな変化は、存在しない、とまで考える。調子良く、進んでいる時には、何の問題も、起きないのだが、早晩、その時が、やってくる。そうなった時に、悔やんでも、始まらないのだが、殆どの場合、その時が来るまで、そんなことは、起きないと、信じているのだ。これでは、何の準備も、できないままに、悲劇が、起きてしまう。こんなことが、歴史の上では、何度も起き、その度に、一時的には、悔やみ、反省し、何らかの対策を、と考えるが、すぐに、そんなことは、忘れてしまう。実は、対策が、必要なのではない。単に、成長が続くとは、考えなければ、それでいいのだ。広げたり、大きくしたり、そんなことを、しようとせず、今の状況で、満足していれば、それで済む。ごく、単純なことだ。にも拘わらず、多くの人は、つい、もっともっとと、望んでしまう。それが、破滅への道を、突き進むことになると、解っていても、なお、そうしてしまう。欲とは、限りの無いものだが、それでは、破滅となる。だったら、相応で、止めればいい。

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