パンチの独り言

(9月23日〜9月29日)
(評価基準、記憶頼み、興味本位、発見、自然に、煙に巻く、見本)



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9月29日(日)−見本

 若者達が、過激な主張を、繰り返した時代、誰もが、何かしらの主義主張を、持つのが当然、と言われていた。大人には、それまでに、培った哲学なるものを、求めて、迫ったものだ。だが、皆が、そうするからと言って、自分も、という気持ちには、ならなかった。
 逆に、哲学を、論じる同年代に対し、恰好ばかりで、中身の無い人間、と見做すことが、殆どだった。哲学という名の、借り物を身に纏い、如何にも、という姿で、闊歩する連中から、距離を置いていた、と思う。本人は、背伸びを、しているつもり、かもしれないが、底の知れた、飾り姿には、呆れるだけで、馬鹿げた言動、と映っていたのだ。そんな若者達が、もういい大人になり、どんな姿を、晒しているのか。大義名分に基づいた、哲学という飾りは、さっさと打ち捨て、私利私欲に走ったり、他人を蹴落とすのに、躍起になっている。情けない姿を、晒していることさえ、正当化をしようと、必死になる姿勢には、やはり、呆れるしかないものだ。当時、あれ程の勢いで、糾弾していた、彼らから見て、卑怯としか思えぬ大人と、そっくりな姿を、当然のものと、言い放つ神経には、やはり、哲学に縋るしか、できなかった人の性を、見る思いがする。だが、そんな成功者を、今の若者達は、模倣の対象として、考える。昔は、唾棄すべき対象として、蔑みの眼差しを、向けるのが常だった、若者の感性は、大きく変貌してしまった。分相応とか、身の丈とか、そんな言葉は、まるで、差別用語のように、扱われ、偽りの姿でも、成功を手にすれば、それで満足という考えに、皆が、取り憑かれているかの如く、背伸びを続ける。手の届く所から、徐々に、手を伸ばし続ける、というやり方ではなく、踏み台を、どこからから、持ってきて、手を届かせる。それが、倫理に悖ろうが、他人を貶めようが、知ったことではない、となる。そろそろ、見本となるものを、考えなければ、と思う。

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9月28日(土)−煙に巻く

 成功者の話を、誰もが、聞きたがる。成功を、夢見る人々にとり、彼らの話は、まるで、その道を、示すが如く、見えるのだろうか。だが、もし、話を聞くだけで、成功が、手に入るのだとしたら、世の中は、そんな人で、溢れることになる。でも、現実は。
 だとしたら、どこに、違いがあるのか。すぐに、思い当たるのは、能力の違いだろう。同じことを、同じように、やったとしても、結果が異なるのは、自分の周りを、眺めるだけで、すぐに気付ける。もう一つ、大事なことは、時間の違いだろうか。成功を収めた人が、それを手に入れた時に、同じことを、していたら、同じ成功を、手に入れられた、のかもしれない。しかし、もう、その時間は、遠い昔に、過ぎてしまった。だから、同じことを、したとしても、同じ結果は、得られない。こんな話をしたら、誰もが、落胆して、他人の話など、聞く気を、失うに違いない。だが、そうならないのは、多分、淡い期待と雖も、抱きたくなる、人の常だからだろう。では、肝心な話は、役に立つのだろうか。聴衆の多くは、成功者の話に、耳を傾け、なるほどと、頷いたりする。でも、暫くすると、何事も無かったかの如く、すっかり、話の内容を、忘れてしまう。ひょっとして、覚えていたら、何かの役に、立ったのかもしれないが、そう簡単には、いかないものだ。それと、肝心の話の内容は、どんなものか。そちらに関しても、少々の難が、ありそうだ。成功の道筋を、話者は示しているつもりだが、実は、その殆どが、自慢話で、多くは、歪曲されている。更に、問題となるのは、努力とか、苦しみとか、そういう類いの、人が嫌うものを、第一とする場合が、多いことだ。努力は、程度の限りがなく、しようとすれば、幾らでもできる。が、それが、功を奏するとは、限らない。真の成功の秘訣は、別の所にあって、それは、人それぞれの違いによるものだ。そんなものを、紹介しても、誰も、真似できない。だから、努力を、なのか。

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9月27日(金)−自然に

 楽しいとか、面白いとか、様々な催し物で、参加者が、感想を述べている。そんな声が、多ければ、行事は成功した、と言われるのだが、本当にそうなのか。催し物によっては、主催者の意図は、全く別の所にあり、楽しむのではなく、何かを、身に付けて欲しい、こともある。
 だが、そんな望みを、持っていたとしても、最近は、まずは、楽しませるべき、と言われることが多い。参加させねば、機会を与えることも、できないのだから、誘い込むことが、第一と見る訳だ。ただ、そんな状況では、結局、遊びとして、楽しむだけで、その先には、殆ど進まない。これでは、目論見は、達成できず、そのまま、遊びに終わる。それでも、いいのだ、とも言われるが、どうも、釈然としない。一方、こんな入り口の話ではなく、高みを目指そうと、登る人々に対して、努力を求める声がある。始まりは、たとえ、楽しめたとしても、それに、取り組もうとすれば、それなりの努力が、必要と言われるのだ。そこでは、楽しむことを忘れ、地道な努力を、続けることこそが、不可欠と言われる。この雰囲気が、時に、折角誘い込んだ人々を、去らせることに繋がる。はじめは、楽しかったが、その内、苦しさだけを、感じるようになる。極める為に、当然のこと、と見る向きもあるが、大成するのに、努力が必須、と思うのは、必ずしも、正しくないのではないか。確かに、多くが、努力を積み重ね、その結果として、成功を手にしたのだが、そうでない人も、実は、沢山居る。ただ、天賦の才能、としてしまうことに、傲慢さを感じ、皆と同じように、努力したと述べた方が、受け容れられ易い、ということがあり、つい、努力を、推奨する。楽しさと苦しさ、こんな両極端を、押し付けるのは、そろそろ、やめた方がいい。所詮、実態を反映しておらず、嘘を塗り重ねるだけなのだ。

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9月26日(木)−発見

 旅に出ると、普段とは異なる、人の行動に、出会すことが多い。興味を、持つ為に、必要な要素の一つに、観察の姿勢が、あるのだが、普段と違う環境でも、同じことが、繰り返される。やっていることは、殆ど同じだが、大きく違うのは、見たことのない人の、奇行に出会うことか。
 先日は、飛行機の中で、おやっと、思わされる乗客が、目に入った。乗務員が、何度も、同じような呼び掛けを、しているのが、目に入ったのだが、指差す先には、テーブルの上に、置かれた、スマホ画面があった。どうも、何かの映像を、映し出しているようだが、指は、その後ろに、向けられていた。少し離れていたので、詳しくは、見えなかったが、どうも、機内で配られた、飲み物の容器に、向いていたようだ。配った後、飲み終われば、回収するのが、常となっているが、その客は、指される度に、スマホを指差し、何か説明をしている。それが、度重なっていたので、不思議に思えたのだ。乗務員としては、安定な飛行が、続いているうちに、回収したいのだろうが、何度尋ねられても、断っていたようで、何故、と思えた。それは、それとして、その人物の奇行は、足下を見た時に、気付かされた。機内で、靴を脱ぎ、靴下の上に、もう一つのものを履き、歩き回る人も、居るのだが、この人物は、何故だか、下半身に、透明で大きなビニール袋、ある意味ゴミ袋に思えるものを、履いていたのだ。人間は、理解不能なものに、出会すと、驚いたり、不審に思ったり、するものだろう。まさに、この例は、そんなものの、典型に思えた。履いたまま、移動するわけでもなく、座り続けているのは、何かしら、汚れを気にするように、思えたが、真意は、尋ねてみなければ、わからない。そのまま、目的地に到着し、皆が、荷物を、棚から下ろし始めると、姿が見えなくなったので、その後の展開は、不明なままだ。今回も、こんな不思議を、見つけていた。

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9月25日(水)−興味本位

 教育現場が、手を替え品を替え、策を講じてきたことは、何度も、取り上げてきた。だが、功を奏した例は、殆ど無い状況で、無策に等しい、などと揶揄されている。却って、悪くしている、などとの批判も多く、結局、新たな試みを、検証せずに、次を、の繰り返しなのだ。
 それでも、懲りない連中は、相変わらずの、改革に精を出している。教育の目的が、何処にあるのか、今では、それさえも、不明瞭となっているが、その中で、役に立つ、という掛け声で、児童、生徒達を、振り回し続ける。だが、意欲が減退し、将来への夢も希望も、無くしてしまった人間には、役立つという意味さえ、伝わらなくなっている。逆に、余計な手出しをせず、自由にさせる、という考えで、実行された、ゆとりという手法も、単なる失敗ではなく、禍根さえも、残してしまい、その揺り戻しは、別の問題を、生じ始めている。勝手気儘は、良くなかった、との反省で、ある程度絞り込んだ、指導が必要との考えから、探究活動に、焦点が当てられている。興味を抱き、それに取り組めば、自分なりの目的や目標が、定まる筈との見込みは、早晩、外れることとなるだろうが、それでも、始めた以上は、ある程度の期間、続ける必要が出てくる。現場の混乱は、既に、起き始めたが、どう動かすかは、混乱する現場に、任せられているようだ。通常、学校での教育方針では、その要領を示す必要が、あると考えられ、各教科に対して、それぞれ、教科書に対応する、指導要領が、示されている。新たな取り組みも、同じような仕掛けで、動き始めた、と伝えられるが、肝心の要領は、それこそ、要領を得ないもの、との見方が、現場から、出ているようだ。その中で、生徒達は、何を思い、何と取り組むのか。現場に任されたものが、即座に、生徒個人に任され、制御不能な状況に、陥りそうに思える。探求の元は、興味であり、それを抱く対象は、自分の中から出てくる。教育現場で、それを、引き出すことが、できるかどうか。今回の試みは、根本問題に、帰着するのだろうか。

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9月24日(火)−記憶頼み

 記憶力は、そんなに重要な能力なのか。人の顔を見て、名前を、思い出せず、狼狽した覚えのある人が、殆どだろう。見知らぬ人から、挨拶をされて、誰かも分からぬままに、挨拶を返したことも、あるに違いない。会話の中で、人の名前が思い出せず、立ち往生したことも。
 兎に角、名前や顔を、覚えておくくらい、何とかしたい、と思わない人は、居ないのではないか。それが、歳を重ねるにつれ、滞ることが増えると、ボケや認知症を、心配したくなる。だが、近年発達した技術は、そんなことくらい、代わりにやってしまう。顔認識の機能は、恐ろしい程発達し、元々は、犯罪者の発見に使われたが、おそらく、今では、日常に使うことも、できそうだ。文脈から、誰の話題かを、推測することも、現在の認識機能で、十分可能と思える。だったら、そんなことは、機械に任せて、他のことを、と思いたくなるだろう。人間は、幼少期から、覚えることに、悩まされ続けてきた。特に、学校に通った時期には、例えば、九九を覚えるのも、人によっては、かなりの負担となっただろう。だが、これくらいなら、日常生活に、役立つとの理由も、つけられそうだ。一方、毎回、悩まされたのは、試験ではないか。記憶に頼る形で、評価を下すものに、何故、肝心なことが、思い出せないのか、と悩むのも、万人共通だろう。だが、その呪縛から放たれ、強いられることも、少なくなった上に、先ほどのような、機械の発達となれば、記憶は、他に任せて、何か別のことを、と思いたくなる。実際、社会に出れば、判断力や決断力の評価が、高まるのだから、それでいいように思う。では、この境目は、どこにあるのか。学校と社会の間、と思う人が、多いだろうが、現実には、学校の中でも、大学は、少し様子が違っていた。記憶に頼るより、何をどう調べれば、答えに行き着けるか、数多くの資料から、何を結論づけるか、そんなことを、やらされていたようだ。ただ、最近は、様子が違う。大学も、ただ記憶力を測るだけ、となっている。おそらく、それが、一番簡単で、分かりやすいからだろう。

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9月23日(月)−評価基準

 人は、評価されることに、慣れている。と信じられてきたが、最近の様相は、かなり異なっているようだ。自己評価を、重視する風潮が、この状況を、強めているようだが、評価のズレに、違和感を覚えるだけでなく、不平不満が、噴出する。何が、原因なのか。
 原因は、実は、様々にあるのだが、あまり、検討は行われていない。それより、現状の問題を、訴えることに、力が注がれ、また、注目が集まっている。ここでも、評価を受ける側が、弱者と見做され、そちらに与するのが、務めと思い込む、人々が、問題解決を、遠ざけている。実際には、相互理解を、妨げているのは、基準の曖昧さであり、それは、双方に、見られることだ。他者を評価する基準も、自分を評価する基準も、曖昧なものであり、自身のものより、相手のものの方が、その程度が、強いと感じている。もし、これが事実なら、問題解決は、ごく単純なことで、互いの基準を、厳格に定めるだけでなく、統一することができれば、全ての問題が、解決できる筈だ。だが、実際には、互いの歩み寄りは、殆ど無いようだ。歩み寄りどころか、明確な基準さえ、定められない状況で、その道程は、半ばどころか、殆ど始まってもいない。まずは、通常の評価の基準を、定めることから、始めようとする動きが、現場では、徐々に始まっている。だが、抽象的なものばかりで、数値化が難しい基準を、作り直すことは、かなり困難で、根本的な所から、始める必要が、あると言われる。数値化さえ、行うことができれば、後は、それ程難しくない、と言われるものの、数直線の置き方、特に、0から100までを、置くのであれば、何を100とするかが、肝心となる。つまり、目標の置き方が、始まりとなる。実は、ここに、重大な問題があり、目標とは何か、何処か、など、様々な課題が、横たわっている。

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