パンチの独り言

(10月7日〜10月13日)
(愚策ばかり、違う見方、誰が為、義務不履行、曲がり角、愚者、想像できぬ)



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10月13日(日)−想像できぬ

 脅し文句の連呼に、辟易とした人が、多かっただろう。発言者の真意は、酌み取られることなく、ただ、耳を塞がれては、何の意味もない。手を変え、品を変えて、表現を変えても、誰も、真剣に取り合わない。努力が足らないのか、それとも、心理とは、所詮、なのか。
 人間を、その気にさせる為に、どんな言葉を、弄すればいいのか。誤解を恐れず、助言の一つとなるのは、詐欺師に学んだら、ということだ。電話で、子供を騙り、金を巻き上げる、所謂、オレオレ詐欺では、相手を信じさせ、銀行に、足を運ばせる。これは、危険を訴え、避難所に、向かわせるのと、よく似た手順だ。如何に、信じ込ませるかについて、不謹慎極まりないが、詐欺の手法に、学ぶべきではないか。如何に、騙されずに、済ますかということを、犯罪防止と称して、訴える一方で、自分達の話は、所詮、可能性の一つに、過ぎないのに、信じて動け、とする。何とも、身勝手な話に、思えてくる。だが、重要な話は、詐欺ではなく、命に関わることだから、行動に移せ、としている。こんな話を、身内にしたら、でも、買い溜めに走ったのだから、十分に、騙されているのでは、と言い返された。確かに、多くの人が、踊らされたことは、事実だろう。だが、あれは、差し迫る、命の危険ではなく、全く別の、不自由への恐れ、に過ぎないものだ。命の危険より、食べ物の心配が、先立つものとなる。何故、事の大小を、捉えられず、大騒ぎを、繰り返すのか。要するに、想像の範囲でしか、判断していない、ということだろう。日々の食事の心配は、毎日のこととて、すぐに、思い当たるが、命の危険は、一生に一度あるかないかのこと、さっぱり、思い浮かばないのだ。論理力の欠如も、重大なことだが、想像力の欠如も、かなり大きな問題だろう。

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10月12日(土)−愚者

 民衆の愚かさを、如実に表すものとして、近年、話題になっているのは、大衆迎合主義とも呼ばれる、愚民政治だろう。民衆が、喜ぶものを、殊更に取り上げ、それによって得た、支援を糧に、自らの主張を、押し通そうとする、政治家の手法だが、騙し技とも言われる。
 目の前に、ぶら下げられた、餌に惑わされ、一時の利益を、手に入れても、実は、損失を被る、という結果に、気付かぬままに、手に入れたものに、喜ぶ姿は、まさに、愚の骨頂と言える。目を奪うような、派手なご褒美を、手にしても、失うものが、大きければ、何の意味も無い、と思えるのだが、褒美が、その場のものであるのに対し、損失は、長い時間をかけて出るので、すぐには、気付けないとされる。だが、誰でも、少し時間を、かけさえすれば、その絡繰りに、気付ける筈だ。それが、できないところに、愚かさの本質がある。これを、指摘して、政への批判に、精を上げる報道の人々が、如何に愚かかを、如実に表したのが、今近づきつつある、台風に関する報道だろう。最大規模とか、超大型とか、恐れを抱かせる表現を、頻発するのは、気象を担う官庁が、好んで使うからだが、あの役所が、確実な情報に添えて、不確実なものを、派手に発表することに、愚かな人々は、気付く気配がない。確かに、災害は、それを回避する手立てを、各自が講じることで、未然に防ぐことができる。だが、何度、警報を発しても、動く気配さえ、見せない大衆に、業を煮やした役人は、毎年、新しい言い回しを、編み出してくる。でも、愚かな民衆は、気付く気配も見せず、のうのうと、遊び呆けている。そこで、報道を味方に、過激な発表を、繰り返したのだ。だが、本質も理解せず、言葉に、踊らされる愚民には、一時の恐怖心を、煽る戦術は、結局、無駄に終わる。地震、台風などの、大災害を招く、天変地異を、正しく理解させずに、脅すだけでは、無意味どころか、逆効果となるのに。

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10月11日(金)−曲がり角

 昔の逸話で、名人に弟子入りしようと、訪ねてみたものの、入り口さえ、開けて貰えず、何日も、外で待ち続けた、というものがあった。今の子供達に、この話は、どう映るだろう。多分、そんなことなら、別の道を、目指すべき、との意見が、殆どではないか。
 本当に、やりたいことが、あるのなら、多少の障害があっても、それを目指すべき、との教えを、表した逸話だが、これでは、何の意味も、示せない。子供の心情の変化は、近年、著しい、と言われる。それに従い、大人は、対応を変える必要が、あるとなる。だが、自らの心情を、変化させることは、かなり難しい。だが、現状は、そんな戸惑いを、無視するような方向に、動きつつある。ところが、この状況を、詳しく眺めてみると、ある重要な傾向が、見えてくる。弟子入りを、目指す人の心情は、名人の技術に憧れ、それを受け継ぎたいと、強く望んでいた。そこには、技術に関して、ある程度の知識があり、その上で、やりたいという欲求が、出てきているのだ。それに対して、最近の傾向として、紹介されるものは、その大部分が、全く異なる様相を、呈している。社会には、多くの機会が溢れ、それに触れることで、人生の道筋を、定めようとしている。これにより、数多くの機会の中から、選び出す為には、経験が重要という考えが、大勢を占めている。経験は、未だにしていないから、それをやってみることが、となっているが、こういう子供の多くは、それ自体に、興味を抱いておらず、面白ければ、くらいの考えしか、持っていない。そこに、困難を克服する逸話を、持ち出しても、鈍い反応しか、戻ってこない。ただ、こんな子でも、興味を持ち、上を目指し始めると、突然、態度が変わる、と言われる。この違いに、気付かぬままに、方針を、転換することは、何かが間違っているのだろう。

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10月10日(木)−義務不履行

 教育現場が、抱える問題の、深刻さが、様々な形で、伝えられる。外からの圧力で、起きた問題では、解決の糸口を、見出すことさえ、難しいと思えるが、内部から出た問題では、何とかなりそうに、思えてしまう。だが、どちらも、簡単な問題では、ないようだ。
 ただ、現場の当事者は、あくまでも、子供達であり、彼らが、不条理な被害を、受けないように、対処することが、最優先となる。だからか、不登校の問題は、注目を浴び易く、被害を受けている、と言われる子供達の、救済には、様々な対策が、講じられている、と伝えられる。確かに、現場から、逃げ出すことが、彼らにとっての、唯一の道に、思えるからこそ、そんな結果が、出ているのだろうが、その一方で、義務教育期間では、親には、学校に通わせる義務が、残っている事実を、忘れてはならない、と思う。特に、義務教育制度が、導入された時代に、存在した問題に、目を向けることなく、ただ、目の前の問題から、逃げ出すことを、優先させることは、別の大きな問題を、作ることになる点を、忘れてはならない。不登校の、別の形態として、紹介されていた事例は、確かに、興味深いものかもしれないが、親の義務が、放棄されたことを、無視する事態に、危うさを、強く感じた。この事例では、教師との衝突から、学校に通うことを、止めた中学生を、紹介していて、彼が、立派に働いている、と称賛していた。だが、この状況は、時代が異なるものの、導入のきっかけとなった状況と、よく似たものではないか。事情が、事細かに、伝えられておらず、状況が、把握できないので、その点を、批判するのは、難しいだろうが、一教師との衝突だけなら、対処は可能だろうし、親として、転校も止む無し、とも考えられる。問題は、そこには目を向けず、結果が良好だったから、それを称賛する、報道姿勢にある。その後の展開も、華々しく紹介されていたが、これもまた、不用意なものと見えた。

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10月9日(水)−誰が為

 政とは、と改めて、考えてしまう。本来、民衆の為に、より良い環境を、築くのが、役割と思う人が、多いだろうが、実際には、全ての民にとって、利益となるように、とは難しい。それでも、より多くの人に、より良い生活を、という目標は、常に掲げられている。
 ところが、最近の情勢からは、正反対のことが、行われている、としか思えなくなる。それも、目標としては、想定通りのものが、掲げられても、実施する中で、不正が蔓延ると、まるで、元々の目標自体が、民衆の利益では、なかったことのように、扱われる。電力供給を、保ち続けることは、経済成長の中で、最重要課題と、扱われていた。その中で、資源枯渇が、懸念される燃料より、半永久的に、使えるものを、優先させる考えが、出たのは当然だったろう。だが、その危険性を、武器としての使用から、訴える動きは、当然の如く、強まっていた。一気に、風向きと、その勢いが、変わったのは、大震災による事故と、その影響の強さが、きっかけだったが、それとて、事故防止の観点からは、検討の余地は、まだ残っている。だが、それより、重大なこととして、立地場所と関係企業の癒着が、発覚した結果、まるで、そこにまで、発電様式の問題が、あるように扱うのは、如何なものか。一方、政の関わりとして、ここ数日、大きな話題、となっているのは、消費税だろう。税率を、上げても、損は無いどころか、得になる、とまで言っているが、さてどうか。聞けば聞くほど、例の還元に関わる、企業の利益が、大きくなるように、思えてくる。利用者は、損失に怯え、還元に飛び付くが、どんな得が、還ってくるのか、実は、殆ど理解していない。その内に、仕組みに組み込まれ、常用化する。そうなれば、関連する企業は、莫大な手数料を、手にするのではないか。となれば、民衆の為でもなく、その企業の為に、導入したことになる。

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10月8日(火)−違う見方

 何故、解って貰えないのか、と思ったことは、誰にでも、ありそうだ。相手の無理解が、原因という場合も、確かにあるが、実際に、最も多いのは、自分の責任と言われる。そんな筈はない、と思うのは、仕方ないのだが、それでも、思い返してみては、どうか。
 逆の立場に、なってみれば、すぐに分かることだが、分かりにくい話は、その多くが、繋がりが乏しく、作られた流れに、乗りにくいという、状況にある。流れが、円滑であれば、納得しつつ、話を聞くことが、できるが、飛んだり跳ねたり、あちこちに、移る話には、ついていけない。それを、こちらの責任に、されては、たまったもんじゃない。もっと、分かりやすい話を、組み立てて欲しい、という思いを、視線で送るが、その場での対応は、こんな人々には、難しいのだろう。だから、話し手と聞き手の間に、出来た溝は、埋まることなく、深まるばかりとなる。では、こんな人は、どうしたらいいのか。まずは、話の繋がりを、きちんと作ることだ。自分で、考えたことには、少しの飛躍でも、何とかなると、思い勝ちだが、実際には、少しくらい、丁寧すぎる設定が、好ましいものとなる。ここでも、逆の立場で、考えることが、必要なのだ。多くの、解って貰えない人は、この肝心なことが、出来ておらず、独り善がりの判断を、下している。にも拘わらず、この問題に、気付けないのは、やはり、多様な見方を、使い分けることが、出来ないからだろう。その時、その時の、自分の立場でしか、ものを考えられないのでは、こんな問題を抱えるだけでなく、自分独自の見方を、披露しようにも、理解もされず、独自性を、主張することも、難しくなるのだ。常に、一歩退いて、別の見方を、試みてみるだけでなく、少し、背伸びをして、高い所から、眺めてみる必要もある。まずは、違うことを、やってみるのだ。

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10月7日(月)−愚策ばかり

 少子化が、深刻な状態となっている。政府や自治体は、様々な方策を、編み出し、それらの魅力を、強く訴えるが、解消の兆しは、全く見えないばかりか、悪化の一途を、辿っている、と伝えられる。特に、数字に表れた、現状は、厳しいものとしか、見えない。
 何故、こんな事態に、陥ったのだろうか。理由は、定かではなく、これでは、原因も解らず、対策も、講じられない、と言われる。なのに、次々と、対策が、講じられる。何の効果も、期待できず、何の当ても、無いものが、繰り出されるだけでは、対策として、打ち立てられた、予算の多くは、無駄となり兼ねない。では、手を拱くだけで、いいのだろうか。その筈は、無いのだが、他の手立ても、思い当たらぬ、というのでは、何ともならない。こんな時に、必要なことは、何だろう。一つには、歴史に学ぶことであり、多少の違いがあるとしても、同じことが、繰り返されることは、よくあることだ。この国では、同じことは、戦争中を除き、起きていないだろう。ゆっくりとした、増加が続き、国の繁栄を、築いてきたが、その勢いが、急激に増したのは、戦後間もなくの、時期にあった。それ以降は、勢いの変化が、あったものの、右肩上がりに、変化は無かったが、それでも、ある時期を境に、変化が極端に、鈍くなってきた、当時、その後の展開を、予感させる現象が、他の国で起きていたことを、覚えている人も、居るだろう。現役の人々は、殆ど、その時期を、知らないだろうが、歴史に学ぶのは、目の当たりにせずとも、できることだ。なのに、何故、文化や芸術で、最先端を行き、多数の観光客を、集める、あの国が、どうやって、少子化の問題から、脱したのかを、論じる人が、出てこないのか、不思議でならない。同じか、違うかさえ、議論に上ることはなく、ただ、自分の思いつきを、押し通そうとする、そんな人ばかりだ。類似点や相違点を、挙げた上で、模索することが、改めて必要なのではないか。

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