保険制度は、どのような形で、始められたのだろう。一説では、貿易における海難事故で、損害を補償する為、とも言われるが、それより前に、組合組織の中で、急場をしのぐ為に、始められたとも。何れにしても、もしもの時、がその目的だったのだ。
この考え方は、今でも、殆ど変化していない。怪我から始まり、命の価値を、という考えは、生命保険で、活かされているし、多くの損害保険は、それぞれに、目的を限定させ、被害が生じた時に、それを埋め合わせる為の、資金を提供するものとなる。当然、掛け金に比べ、支給額は、莫大なものとなるが、もしもが起きる確率から、算定されると言われている。折角の制度だが、多くの人々は、もしもを、深く考えることなく、日々の暮らしに、追われている。だが、もしもは、皆の都合とは無関係に、起きるから、「もしも」なのであって、それが起きて初めて、その価値が、見直されることとなる。だが、そうなってからでは、時は既に遅い。今、後悔の念に、苛まれている人が、居るとも伝えられるが、これらの人々に、救済の手は及ばない。何故なら、自己判断で、その可能性を、排除してきたからだ。だが、弱者救済の考えが、こんな所でも、強められている。彼らにも、救済を、との訴えは、結局、任意の保険では、こんな「間違い」が起きるから、それを無くす為に、公的な制度を、というものへと、繋がっている。だが、健康保険制度でも、問題となっているように、その手の制度を、支える仕組みは、今や、崩壊状態にあるとも思える。その中に、更なる問題を、持ち込む人達の考えは、浅はか過ぎるのだろう。そのための資金は、どう確保するのか。皆で支えるのなら、更なる増税を、課す以外に、方法は無い。だが、それは、困ると言うに違いない。ならば、やはり、個人の利害は、個人の判断で、となる。
震災や水害、甚大な被害を、及ぼした後で、問題となるのは、生活再建だろう。特に、家屋に被害が及び、住む所を、無くした人々にとって、家を建て直すのは、新築の家を、手に入れるのと、同じかそれ以上の負担となる。それも、借金で、手に入れたとなれば。
この状況は、全壊だろうが、半壊だろうが、元通りに戻す為には、かなりの出費を伴う。もしもの時の為に、保険制度があり、命や怪我などと同様に、家に関しても、それが適用される。ただ、原因によって、分けられているので、時に、被害を受けても、適用外として、処理される場合がある。おそらく、自動車の任意保険と、同じようなもの、と考えるのが、いいのだろう。だが、水害後の再建で、すんなりと運んだものと、そうでないものが、出ていることが、取り上げられていた。理由は、保険の有無であり、任意なものだけに、不要と判断して、未加入だった家は、再建費の見込みが、立たないことだった。こんなことなら、と考えても、後の祭りなのだが、この記事は、何を伝えたいのだろう。任意保険は、各自の判断で、加入するものであり、もしもの時の為を、どう考えるかによるものだ。借金を返す過程では、もしもが起きた時に、無価値となっては困るから、火災保険に入ることは、貸した側から、義務付けられるし、借主の生命保険も、同様の考えに基づく。だが、あらゆる災害に、適用されるものではなく、別の災害が、原因となれば、自前の資金を、要求されるのは、当然のことだろう。なのに、何故、取り上げたのか。ひょっとすると、これも、自動車の保険と、同じように、と考えるのだろうか。車の場合、任意だけでなく、強制と呼ばれる、保険制度があり、もしもの時に、使われている。だから、とでも言いたいのか。だが、車では、事故の被害者の、救済を目的としており、所有者の不注意が、災いにならぬように、というものだ。家の持ち主が、自分への被害を、どうするのか、という話ではない。
災害の中、幸いなことに、命を奪われることは、なかった。しかし、生命線が、絶たれてしまった。電気や水道など、日々の生活を、送る為に必要となる要素が、災害の影響で、止まってしまったのだ。停電や断水、便利さに慣れた人にとり、生命の線となる。
様々に、不便な状況が、伝えられる。電線が、切断されたり、変電所が、被害を受ける。そんな停電の原因は、理解し易いものだ。では、断水は、どうだろうか。水道管の破損であれば、想像がつく。地震による災害では、地中の管に、罅が入ったり、潰れたりして、供給が止まることが起こる。隠れた存在で、どこに異常が起きたかを、調べることさえ、容易ではない。平常時でも、徐々に、異常を来すことがあり、それを調べる方法が、様々に編み出され、修理を繰り返すと言われる。それでも、この調子では、どの都市も、全体の修理に、何十年もかかると言われ、その経費も、膨大なものとなる、と言われている。では、今回の台風災害で、起きた断水は、どんなものだったのか。崖崩れや、土砂崩れで、表層の土が、流されたとしても、地中の水道管に、達したものは、殆ど無かっただろう。なのに、断水が、各地で起きたのには、一つの大きな要因がある。上水道の仕組みを、考えてみれば、すぐに思い当たるが、普段の生活だけでは、想像がつかないかもしれない。水の豊かな国とはいえ、その殆どは、地下水ではなく、表層を流れる水が、源となっている。どの都市も、上流を流れる川から、水を取り、それを処理することで、飲むことができるものとする。浄水場と呼ばれる施設は、大部分が、川の側に設置され、そこから、都市に向けて、配水される。そこに、今回の弱点が、あったのだ。洪水や決壊などにより、溢れた川の水が、周辺を襲ったが、浄水場に、被害が及んだ場合も、多かったのだろう。それが、断水の原因となった。山の中では、泉を水源とする場合もあり、こちらも、土砂が流れ込み、使えなくなった、と言われる。復旧に、どのくらいの時間が必要かは、場所によるだろうが、表面的なものだから、短く済みそうに思える。
如何に、便利な環境だったのか。痛感している人が、居ると伝えられる。それまで、便利な場所に、人が集中するのは、当然のことと、言われていたが、便利にする為の要素が、災害によって、排除された時、便利さが、不便への転換を、引き起こした。
その結果、不便極まりない状況に、人々は追い込まれた。何故、そんなことが、起きたのか、について、これから議論が、始まるとのことだが、起きてしまえば、想定できたこと、と言われるものが多い。だとしたら、原因を追求するより、起きてしまった時に、どう対処すべきかを、考えるべきではないか。危機管理の考えからは、原因追求だけでなく、危機が起きた時の、対処法を考えることが、重要と言われるが、現実には、対処法を、考えてこなかったことが、今の混乱を、招いている。では、何を、考えればいいのか。簡単には、どんな不便が、起きるのかを考え、それぞれに、どう対処したらいいのか、解決法を、編み出す必要がある。だが、何も起きていないのに、そんなことを、考えるのは無駄、との考えが強い中では、どうしようもない。特に、便利さを、手に入れることに、精を出す人々は、それを追いかけることで、より良い生活を、手に入れてきた。それが、突然、奪われることを、彼らが想像するか、と問われれば、そんな必要はない、との答えが返ってくる。このような状態で、何をすべきかを、考えねばならない、という話は、不便を強いられる中では、通用するのかもしれないが、また、この便利さが、戻ってきたら、もうどうでもいい、となるだろう。実際には、こんなことの繰り返しが、行われている。喉元過ぎれば、熱さを忘れる、との話と、同じ状況のことが、こんな具合に、何度も起きていて、誰もが、気付かぬままに、同じことを、繰り返す。根本的な解決は、一度、立ち止まって、答えを導き出さない限り、できないのだろう。
細々とした情報が、提供される時代となり、誰もが、手にした端末で、それを見ることができる。だが、情報を、生かすも殺すも、その人次第であることに、気付かぬ人が多い。垂れ流しとか、洪水のようにとか、そんな言葉で、表されるように、多過ぎる中で。
確かに、事細かに、伝えられる情報も、目の前を、通り過ぎていくだけで、目に止まらなかった、と思い返す人が、多いようだ。取捨選択が、重要となるとも言われるが、それを、誰が、どの段階で、行うかについては、あまり議論は、進んでいない。現状では、流す側は、まるで、責任を回避する為、とも思える程に、何の判断も下さず、上から下に、送るのみとなっている。結局、最下流に居る、民衆それぞれが、判断を下さざるを得ない、状況に置かれている。その結果、生死を分けるのは、それぞれの判断の違い、となる訳だ。その割に、人々は、自身の判断力を、鍛えようとはせず、誰かの判断を、待とうとしている。この状態では、現状は、無意味となるに違いない。では、どうしたらいいのか。自分の身を、守りたいと思えば、自身をどうにかせねばならない。それが成立すれば、良いとなるのか。そうではないだろう。各役所は、役所なりの、各組織は、組織なりの、判断を下すべきだろう。その為に、必要となることを、考える端緒に、今回の災害は、なるだろう。避難を、必要とする地域が、各自治体で、指定されており、今回の災害の一つが、それと合致する地域で、起きたと伝えられる。でも、被害は甚大で、指定の意味が、あったとは思えない。何が問題か、改めて、考える必要がある訳だ。一方、事細かに伝えられても、実際の警報は、地域全体で発令される。自宅が、当てはまるかは、やはり、自分で判断せねばならない。だが、その為の肝心な情報が、何処にあるのか。その辺りにも、問題がありそうだ。
脅し文句の連呼に、辟易としたことを、書いてきたが、過ぎ去ってみて、ふと思うことがある。確かに、最大級とか、最強とか、そんな言葉が並び、過去の大災害を、招いたものを、例示していたのだが、今回の災害を、予想させるものは、殆ど無かったのではないか。
台風が、多くの人に、想像させるのは、まずは、強い風だろう。そこに、沿岸部の高潮が、重ねられ、雨の被害は、洪水という形で、襲い掛かる。過去の事例が、提示される中で、確かに、その台風がもたらした被害は、多くが、洪水によるものだった。だが、実は、今回の台風によるものとされる、大雨の殆どは、予想外のものだったように、感じられる。というのも、接近中に、増し続ける降雨量について、報道の内容は、想定外の範囲に、戸惑いを覚えており、修正を、迫られていたからだ。更に、今も、被害が広がり続ける理由は、これまで、降雨災害で、度々報じられたような、局地的な豪雨ではなく、広範囲に渡る、大雨の結果であり、集まった雨水が、大きな河川でさえ、溢れさせたからであった。それぞれの河川を、よく知る地元民にとって、普段の川幅と、それを遥かに上回る、河川敷の幅から、そこが満たさせるだけでなく、更に水嵩を増し、堤防を、越える程のものと、なることは、とても予感できるものではなかった。避難が遅れ、救助を待つしかなくなったのも、当然の成り行き、と見ることができる。住民にとっての、予想外に関しては、無知が招いたもの、と見ることができるだろうが、では、警告を、盛んに発し続け、脅し文句を、並べ続けた役所や、有識者に関しては、どうだろうか。今、盛んに、大雨となった理由の、説明に終始する人々が、当時、それについて、一言も発しなかったことに、落胆を隠せぬ人は、単に被災者に限らず、庶民にも、多く見られる。それが、正直な反応、なのだ。
崩落や決壊の報道に、やはり、と思った人も、居るだろう。話題になったのは、首都圏に、限られていたが、公共施設の老朽化に、修繕や新設が、必要との指摘がなされたが、ない袖は振れない、となっていたからだ。まずは、点検との指摘も、予算不足が、深刻とされた。
今回の災害は、あくまでも、自然によるものであり、想定外としたければ、できないことではない。だが、橋脚が、崩落したり、堤防が、決壊したことは、全てが、自然の脅威に、よるものと、言えるのだろうか。鉄道の橋脚は、確かに、昔懐かしい光景を、見せていたものだが、地方鉄道にありがちな、第三セクターではなく、はじめから、企業形態を、とっていたものらしい。だが、資本金が、一千万円で、施設整備は、どこまでできていたのか。また、企業とは言え、公共交通を、支える存在では、自治体との関係も、不可欠だったろう。堤防は、今回の決壊が起きた、多くの河川では、国の管理の部分が、大きかったろう。その保全について、どのような方策が、取られていたのか。これまでに、聞こえてきたのは、人員不足であり、予算不足だが、果たして、それぞれの部分で、どのような管理が、行われていたのか、今後の課題、となり得るものだ。公共の安全は、当然目指すべきものだが、その予算確保は、どんな状態か。日々の生活への思いは、様々に巡らせるが、安全は、お上が考えるもの、とされる。そこには、予算配分への思いも、同様の偏りが、表面化しており、公共の安全には、目が向かわない傾向がある。それに加えて、今回のような災害の場合、復旧への予算配分は、どうなるのだろうか。確かに、被災者の救済は、重要な事柄だが、堤防の復旧や強化が無ければ、同様の被害が、起きうることを、考えると、優先順位は、明白に思える。