パンチの独り言

(10月21日〜10月27日)
(解消法、象徴として、投げ出す、対策は、必要、感情論、度が過ぎる)



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10月27日(日)−度が過ぎる

 水の豊かな国、と書いたことが、何度かある。嘗て、文明を誇った地域の多くは、今は荒廃して、砂漠と化しており、水不足は深刻だ。それに比べ、自然の力とは言え、この国は、水が無くて困る、といったことは、殆ど起こらない。嘗ての、水の奪い合いも、今は昔だろう。
 だが、この所の水害は、豊かさが、必ずしも、有り難いばかりではない、と示している。大雨が続けば、浸み込む筈のものが、表層を流れ下り、その道が溢れて、周囲へと広がる。何度も繰り返される、水害に、流域の人々は、叫びにも似た声を、上げるけれど、何も変わらない。何時か、何処かで見たことのある、光景が広がり、復旧を急ぐ。つい先日、堤が決壊した所では、応急措置が、取られたものの、再び、同じことが起きるのでは、との不安も広がる。多くの川の流域は、普段から、水面より低い土地が、広がっており、一度溢れたら、周囲が水浸しになることは、当然の帰結となる。堤防の整備や管理が、重要なことは、当然だが、溢れる原因は、必ずしも、そこだけにあるのではない。川の水底が、上流からの堆積物で、上昇することも、大きな要因の一つ、と言われる。ここでも、管理が重要となるが、多くの河川では、殆ど何も行われていない。幅が広ければ、中洲ができ、それが広がり始める。長く放置されれば、草が生えるだけでなく、樹々が茂り始めるのだ。普段は、そこを、ちょろちょろと細い流れが、見えるだけだが、大雨が降れば、それが濁流へと変わり、川幅は、堤の上に迫ってくる。断面積を、考えれば、底の深さは、重要な要素となるが、治水事業の結果、こんなことが、起きるようになってきた。だとすれば、管理を徹底するしかないが、さて、予算措置は、どうなるのだろう。無い袖は振れないが、かと言って、害を被るのは、御免となる。どんな手立てが、あるというのか。一層の工夫が、必要なのか、それとも、当たり前のことを、すべきなのか。

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10月26日(土)−感情論

 科学的な論理が、厳しい状況にある、と伝えられる。特に、先月読んだ本では、海の向こうの状況を、引き合いに出しながら、論理が、拒絶される背景を、説明していた。だが、そこで紹介された事柄の多くは、誤解に基づくものや、捻じ曲げられた解釈に、よるものだった。
 著者が、拠り所としていた、科学的な事実は、元々、学者間でも、統一的な見解とは、なっておらず、推測に基づくもの、と扱われている。だが、一部の政治家や活動家にとって、この解釈は、魅力的なものと映り、世界的な見解として、条約などの形で、実行に移されている。そこに現れた、独裁的な大統領は、営利企業を優先させ、各国が取り決めた制限を、拒絶すると決定した。この状況を、件の著者は、非科学的な判断、と決めつけているが、炭酸ガスの増加と、気温の上昇は、必ずしも、直結するという結果が、導き出された訳でもなく、推測の域を出ない、とする専門家も、多いと言われる。推測に基づくとはいえ、無制限の増産は、抑えることを検討すべきかもしれない。野放図な状況は、この国が、環境汚染に苦しんだ、時代を彷彿とさせるだけに、現状は、制限を優先させようとする。だが、当時の調査結果と、現在の推測状況は、科学的に見れば、大きく違っている。にも拘らず、これを、科学か非科学か、という観点で、論じようとするのは、一部の非常識な人々の、思い込みの表れ、に過ぎない。こんな状況を、科学的な論理で、議論しようとせず、ただ、思い込みや、好き嫌いのように、感情的に扱おうとすることこそ、まさに、非科学的な論理であり、破綻を来すものだろう。だからと言って、あの大統領の論理も、全く同じに、科学の欠片もなく、感情に走った結果であり、自らの利害に基づくものであることに、変わりはない。問題を、正しく捉えることこそ、科学の根幹であることを、忘れてはならない。

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10月25日(金)−必要

 必要は、発明の母、という言葉を、聞いたことは、あるだろうか。現代人は、様々な発明に、囲まれて生活するが、それが、どのような経緯で、作り出されたのか、それぞれに、異なる歴史を持っている。にしても、きっかけは、やはり、誰かが必要とした、ことからか。
 科学の知識を基に、さらに工夫を凝らし、便利なものが、作り出される。今年の受賞者は、そんな人の一人で、以前ならば、応用性が強過ぎて、対象となり得ない、と言われていたが、近年は、何の役に立つか、はっきりしないものより、誰もが、その恩恵に浴していて、生活の向上が、達成される一因となったものが、選ばれるようになった。そんな大層なものだけでなく、実は、身の回りには、市井の研究家や、科学の知識を、身につけていない人が、日頃の工夫から、編み出した発明品が、溢れている。意外なものも、数多くあり、例えば、洗濯槽に投げ込むだけで、糸屑が、取れるという製品も、一主婦が、作ったものと言われている。日頃から、問題を考え、それを解決する手立てを、自分なりに講じる。大掛かりな仕掛けも、多額の資金も、必要ではなく、元々は、身近に転がる品を、様々に組み合わせることから、始められる。最初は、見てくれも悪く、効能も、期待した程では無い。それでも、欠点を補う工夫を、更に重ねることで、必要とされる能力を、備えたものが、徐々に、出来上がってくる。そんなものが、並ぶのが、発明展と呼ばれる、催し物で、全国各地で、行われるだけでなく、それらの中から、優秀なものが、集められて、競い合いが行われる。長い歴史を、誇るとされ、もう100年近くの歴史が、あるとも伝えられる。それだけ、必要なものは、数多くあり、何かが足りない、と感じる人は、いつの世も居る。日々、発明品が、作り出され、盛んに使われたり、すぐに忘れ去られたり、そんなことが、起きているのだ。

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10月24日(木)−対策は

 悲愴な表情で、窮状を訴える。災害の後に、各地から伝えられる情報は、殆どが、このような形で、流れてくる。だが、この光景、何処かで見たことがある、と思う人も多いだろう。以前の災害だけでなく、別の要因で起きた窮状が、伝えられた時の、あれでは、と。
 製造業においては、材料を仕入れ、製品を出荷する。こんな当たり前なことが、災害をきっかけに、止まってしまう。原材料ではなくとも、様々な部品を、組み立てることで、完成品を作る所も、より大きな部品を、組み立てて、次の段階の工場へと、送り出す所も、上流からの供給が、止まってしまえば、二進も三進も、行かなくなるのだ。今回の水害も、そんな被害を、各地に起こした。その結果、直接の被害を、受けた所だけでなく、そこからの供給を、待つ所も、どちらも、製造が止まる結果となった。その窮状を、報道は、盛んに伝えており、復旧が、急がれている状況を、訴えている。確かに、当事者達の悩みは、相当のものだろう。だが、この光景、以前に見たことがある、と思った人も多い。例えば、ある工場が、火災を起こしてしまい、製造が止まった結果、国内最大の自動車製造会社の、生産が暫く止まった。工場再開に、かなりの時間がかかる、と判明すると、企業は、設立以来初めての、英断を下したと伝えられた。それは、別会社への発注であり、門外不出の設計図を、渡すという決断を、下した訳だ。水害の時だけでなく、天候不順による、輸送路の障害でも、同様の問題が、論じられていた。その際に、論じられたのは、供給路を、複数持つことであり、外注先も、複数にする、というものだった。それを思い出すと、今回の窮状は、対策の不備を、露呈するものではないか。大企業だろうが、中小だろうが、部品の供給という観点から、他社への依存は、不可欠なものだ。それを思えば、たった一つの供給では、心許ない。その為の対策、だったのではないか。それとも、所詮、他人事だったのか。

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10月23日(水)−投げ出す

 経験の浅い人間が、自信を持てないのは、当然のことだろう。だが、その事実に対して、どう対峙するかが、肝心なのも、当然なのだ。にも拘わらず、弱い者への優しさや、過剰な配慮から、救いの手が、差し伸べられてしまう。結果、自信のなさは、どうでもよくなる。
 何故、このようなことが、起きてしまうのか。若者の頼りなさは、古今東西を問わず、当然のものと、見做されてきた。しかし、だからと言って、それが仕方ないことで、放置しておけばいい、とはならなかった。だが、最近の傾向は、かなり異なる様相を、呈している。過保護の状態が、あらゆる方向から、作り出され、無力で無知な人々の、その状況は、仕方ないものとされる。それも、成長を待つ為のものではなく、単に、放置するだけで、何の働きかけも、行わないのだから、当人達が、変わろうとする為の、圧力が取り除かれ、放し飼いの状態が、続けられる。その中で、脆弱な若者の心は、他人との違いを、歴然とさせるような、失敗を恐れ、手を付けないか、隠れて行うことで、過ちを、隠蔽してしまう。周囲との関わりにより、失敗から学ぶことも、それを未然に防ぐ為の、手立てを講じることも、何も行わずに、時間だけが過ぎていく。若者は、いつの間にか、中堅となり、齢は、何の成果も得られぬままに、重ねられていく。こんな状態から、組織の体制は、崩れ始めたのだが、それに対して、何の方策も講じないまま、現状が、築かれてきた。既に、厳しい状況にあるが、それに手を付けないばかりか、新たに参入する若者へも、何の働きかけもせず、養成を行おうともしない。これは、組織だけの問題ではなく、そこに繋がる、教育の段階から、顕在化しつつある問題なのだ。どう解決するか、どころか、棚に上げたまま、時が過ぎるのを、静かに待つ。こんな社会は、やはり、滅亡を待つしかないのか。そんなことは、真っ平御免だ。

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10月22日(火)−象徴として

 癒し、という言葉が、盛んに使われるようになったのは、30年程前だろうか。高度成長が止まり、経済破綻が、盛んに伝えられると、皆の心情にも、大きな変化が起きた。恐れを知らず、目標に向かって、驀進し続けてきた結果、それが、暴走だと解った途端に。
 何か、別のことに、救いを求める。こんなことは、それまでには、なかったことで、目の前にある問題に、必死で取り組むのが、当然だったのだが、それが、功を奏さないと、解った途端に、別のことへと、興味が移った。その上、それが、打ち拉がれた心を、癒すものとして、注目を浴び始めたのだ。独り言を、書き始めた頃にも、同様に、その考え方への違和感を、書いたと思うが、最近は、また、別の救いが、持て囃されているようだ。寄り添い、という言葉は、誰もが、孤独ではない、という状況を、表したものと言われるが、社会性の動物である限り、全くの孤独の状況に、ヒトが、陥ることはない。にも拘わらず、こんなことが、殊更に取り上げられるのは、人々が、その行為を歓迎し、憧れるからだろう。だが、だからと言って、誰もが、そうしなければならない、というものでもない。特別な存在にまで、それを、望む人々の気持ちは、どこから生まれるのか、不思議に思える。だが、当人までもが、その気になるのは、なぜだろうかと、これもまた、不思議なのだ。王室や皇室は、色々な国に存在するが、それぞれに、扱いが、微妙に異なる。特に、この国は、外からの助言で、今の状況が、築かれただけに、自分達の思いとは、乖離があると言われる。その中で、その制度が始まってから、半世紀以上を経て、徐々にだが、大きな変化が起きている。新しい時代となり、その祝いが、今行われつつあるが、何とも中途半端な状況に、首を傾げる人が、居るだろう。これも、被害者への寄り添い、の一つかもしれないが、どうにも解せない。帝国と呼ばれた国の、女王も、国民にとって、大事な存在だが、寄り添いとは違い、距離を置いているように見える。国それぞれとはいえ、何だが、こちらは、はっきりしていないように見える。

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10月21日(月)−解消法

 心配や不安を、口にする人々は、どうしたいのだろう。誰かに、何かをして欲しいのか、それとも、自分で、何かをしたいのか。あるいは、その何方でも、無いのだろうか。その場では、窮状を訴えることに、必死になっている、のかもしれないが、一体、何を。
 しかし、その後の展開が、伝えられることは、殆ど無い。心配や不安は、話題になるけど、その後の展開は、退屈なのだろう。好転して、良い結果が得られたら、また、取り上げ方も、あるだろうが、そこまでの、長い道程は、興味を引くことがない。そんな理由から、徐々に、興味が失せていく。では、興味を引けば、いいのだろうか。心配や不安の解消に、こんな注目が、役に立つことは、殆ど無い。時には、注目から、救いの手が、差し伸べられることも、あるだろうが、そんな可能性に、期待したとて、大したことは、起きないのだ。では、何が肝心か。これも、想像でしかないが、それらを抱える人、それぞれが、何かをしなければ、いけないのではないか。我が事として、様々に、窮状を訴えるが、誰かの手を、期待するだけでは、何も、起きない。困っているなら、自ら動き出し、何かを行うことで、解決の糸口を、見つけなければ、ということとなる。では、声だけでなく、腰を上げることが、できるのか。ここでも、多くの人は、何から手をつければ、いいのかが、判らないとなる。だったら、諦めるしかないか。本当に、深刻な悩みを、抱えているのだったら、やはり、成否に関わらず、着手することこそが、大切なのだろうと思う。今、この時の悩みと同じように、将来への不安や心配についても、手をつけ始めたらどうか。これから、何かが変わるかも、という期待が、薄いからこそ、訴えているのであれば、余計に、あれこれと、手をつける必要が、ありそうに思える。

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