パンチの独り言

(11月4日〜11月10日)
(縮こまる、再来、贔屓目、違うぞ、期待通り、選び出す、使いよう)



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11月10日(日)−使いよう

 便利を、手に入れる為に、健康を、手に入れる為に、何が必要か。現代人の多くは、先立つもの、つまり、金が必要、と答える。だが、昔は、そうではなかった。便利にしても、健康にしても、自身の努力が、まず、必要となった。それが、いつの間に。
 あらゆるものが、支払いさえすれば、手に入るようになった。つまり、何もかもが、出来合いのもの、となり、目の前に、並んでいるのだ。これこそが、便利なこと、と思う人も、いるのだが、それが、実は、金だけでなく、他のものまで、失うことに繋がるとは、本人は、気付いていない。よく、天秤にかける、と表現されるのだが、右の皿に、便利さ、つまり、利便性が乗り、左の皿に、札束が乗る。こんな図を、示す人が居た。だが、そこで、論じられたのは、利便性の追求が、健康維持を、遠ざけるものとなる、という話だった。もし、そうなら、健康を手に入れる為に、お金を注ぎ込むのと違い、利便性を求めることで、健康維持が、難しくなる、という意味となる。そんなことを、考えていると、左の皿には、もしかしたら、「命」が、乗せられるのかも、知れないと思えてきた。現代社会、あらゆることに、資金が必要となるのは、当然とみられるが、何を追い求めるかは、人それぞれとなる。ただ、彼らの多くは、何もかも、全てを求めようとして、それに、必要なものを、揃える為に、努力をする。だが、全部を叶えようとすると、そこに、矛盾が生じ、結果的に、虻蜂取らず、二兎追うものは一兎も得ず、となり兼ねない。だったら、優先順位を、つけてはどうか、とも思うが、欲望とは、そうはならぬものだろう。利便性の追求が、命を縮めることに、繋がるのだとしたら、不便の必要性も、重要なことになる。少し、立ち止まる必要が、あるのだろう。その上で、金の使い方にも、目を向けるべきか。

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11月9日(土)−選び出す

 人の力を、測るための手立て。誰もが、手に入れたいと願う。だが、事は、それほどには、簡単ではない。ある水準に、達しているかどうかを、試すのは、難しくないと言われる。資格を得る為に、設けられたものの多くは、この形で、行われるから、問題ない。
 だが、多くの中から、一部のみを、選び出す場合には、競い合いを、行わねばならない。同じ経験を、持つ人々の中から、選考する場合には、同じ試験を受けさせ、その中で、より高い点を、獲得した人間を、選び出せば良い。単純なこと、と思う人もいるだろうが、この所の議論からは、そうでもない、との意見が多く出る。何が、どう難しいのか。同じ問題を、解かせればいいだけ、との意見もあろうが、それが、力を、正しく測定しているか、という課題がある。確かに、点数化することで、優劣を定めることができる。しかし、それは、その問題に関するだけで、こちらが求める力を、見定めているか、確かとは言えない。そこで、様々な工夫が、凝らされているが、それとて、偶々、正答を、導き出せただけで、実力が、異なる場合もある、と言われる。だが、この課題を、解決することは、不可能だろう。偶々、偶然、などというものは、常に、付き纏うもので、それを、完璧に排除することは、できないからだ。だから、最善を尽くしておけば、それで良い、となる。だが、落とされた側は、違う見方をする。自分が、外されたのは、偶々であり、本当の力が、評価されていない、という訳だ。この問題は、永遠に解決しない。だが、最善を、目指す必要は、常にある。そこで、更なる工夫を、となった結果が、選択肢ではなく、言葉で表現した答えを、求めるものらしい。だが、ここでは、別の課題が、出てくる。確実な正答がある、選択肢と違い、文章表現は、それぞれに、微妙に異なるからだ。基準も定まらず、判断も違ってくる。だが、出題の偶然と、採点の偶然、実は、同じなのではないか。ここでも、完璧は、あり得ないのだ。

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11月8日(金)−期待通り

 政治家の失言には、誤解を招くもの、傲慢さが現れたもの、などなど、それぞれに、様々なものだが、まさに、自業自得の、発言の失敗と言えるものが、殆どだろう。だが、時に、同じ言葉を、吐いたとしても、全く異なる反応が、起きる場合もある。今回も、そうか。
 教え育むことを、推進する為の役所に、新しい長が、据えられた時、懸念を抱いた人は、仲間内にも、居ただろう。一方、反対勢力は、件の人物の、傲慢さの表れとしての、失言を、待ち構えていたのではないか。別の立場にあった時、あの人物は、様々な不用意発言で、知られていた。それでも、宰相の覚え目出度く、今回の登用も、その表れの一つ、だったに違いない。ここ一番の、強引とも思える、力技に、期待したのだろうが、本人の実力を、過大評価しただけで、何の役にも、立たなかった。だが、それにしても、と思えるのは、新制度の導入に向けての、準備不足が、露呈するより前に、あの人物の、発言の中身である。身の丈発言、などと揶揄されるが、ある意味、当然のことを、話しただけに過ぎない。にも拘わらず、挙って、吊るし上げとも思える、批判の嵐が、起きたのは、まさに、あの人物だからこそ、の事件だったのだ。傲慢さに、注目が集まる中で、下層の人々を、嘲笑うが如くの発言に、皆が、飛び付いたのだ。だが、どんな支援を、得ようとも、それに見合う結果を、出せなければ、人生を、棒に振ることは、火を見るよりも明らかで、妥当な線を、望むのならば、身の丈を考えた方が、良いに決まっている。それを、端的に表しただけで、他意は無かった筈が、あの口から発すれば、当然、馬鹿にしたもので、その真意は、別にある筈、となってしまった。この所、過剰な平等主義が、様々な方に、向けられているが、実情からの乖離は、著しくなり、愚の骨頂とさえ、思えている。今回の騒ぎが、火に油とならねばいいのだが。

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11月7日(木)−違うぞ

 明日は我が身、とは思えぬ程、極端な言動に、呆れてはいけないのか。特に、目立つのは、過激なことを、する人の多くは、若い頃から、既に、似たことを行い、周囲に、迷惑をかけていた、という点だ。齢を重ねるごとに、行動様式が、変わるのは、確かなのだが。
 最近、とみに風当たりが強いのは、高齢者の自動車運転だろう。操作の間違いや、判断の誤りなど、様々に指摘され、まるで、全ての人が、無謀運転を、しているかの如く、糾弾されている。しかし、周囲を見回してみても、それに当てはまらず、安全運転に、徹している人ばかりで、明らかな誤解、と思えてくる。とはいえ、時に、理解不能な運転を、する人に出会すことがある。それも、道路を走る時ではなく、店舗の駐車場に、入ってくる時に、よく見られるのだ。遥か昔に、教習所で習った時には、右折の仕方にも、決まった手順があった。ところが、運転が習慣化し、我流が、染み出してくると、周囲への悪影響を、及ぼしかねないことになる。中央線に寄せて、交差点内で、一旦停止した後、右折をする、という指導は、ほぼすべて、忘れ去られ、道のど真ん中で、方向指示もないままに、突然、曲がっていく。その先に、歩行者が居れば、事故は、免れない。時には、交差点の手前から、曲がっていく、無軌道な人も、見かけることがあるが、これも、高齢者に多い。ただ、今、偶々、そういうことに気付くだけで、件の人物が、いつから、そういう運転を、常としてきたのか、判る筈がない。経験を、重ねるに従い、その危険性に、気付くことは、全く無くなり、その上、自分の方が、正しいという思い込みは、強まってくる。対向車が、驚きから、戸惑いを、見せたとしても、当人は、何の疑問も抱かず、相手の非を、指摘する。時に、罵声を浴びせることもあり、相手の驚きは、更に増す。そこでは、明日は我が身、とは思えない。

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11月6日(水)−贔屓目

 年上の人々に、腹を立てる人が、多いのではないか。身勝手な行動にも、口煩い意見にも、何かと、神経を逆なでするような、言動が、目につくのだ。でも、明日は我が身、と考えては、どうだろうか。誰もが、齢を重ね、運が良ければ、長い年月、生きることができる。
 となれば、自分も、年下の人々に対し、好き勝手なことを、繰り返すようになる。古今東西、全く変わらない状況で、誰もが、経験するものだけに、自分にも、他人にも、良い結果に繋がる、対処法が、ありそうに思える。自分中心では、上手くいきそうにない、という点だけは、わかっているつもりでも、他人への寛容性は、中々高めることが、できないものだ。その一方で、自分が、年寄りになり、皆から、冷たくあしらわれることを、思い描くと、心配は強まるばかり、となる。それも、高齢者と呼ばれる層だけでなく、普通に、活躍する世代でさえ、年下の人々との関係は、拗れる場合が多い。この点に関しては、実は、年齢の違いからくるものではなく、その人それぞれの、性格や習慣の違いからくるもののようだ。中年の女性達が、我が物顔で、歩き回る姿に、迷惑そうな視線を向ける、若い女性達が居るが、彼らの多くは、程度の差こそあれ、同様の行動を、無意識に示している。この現象は、女性に限らず、男性にも表れており、男女の区別なく、また、年齢の区別なく、起きていることなのだ。飲酒や喫煙など、年齢制限がある場合を除き、行動様式には、老若男女に区別なく、他人を、不快にさせるようなものは、必ず含まれている。ただ、自他の区別を、明確にする人々は、それぞれを、全く別の基準で判断するから、違うもののように、感じるだけのことだ。そこで、再び、明日は我が身、という考え方を、当てはめてみては、どうだろうか。自他の区別も、重要なのだろうが、同じ目で見ることも、大切なのだ。

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11月5日(火)−再来

 不安や心配が、漂う空気の中では、皆が、猜疑心に取り憑かれ、何事にも、疑いをかけることになる。経済状況に、不安が漂うと言われつつ、最近の市場の好調さに、懸念を漏らす人が、多いのも、この辺りの事情が、あるようだ。右肩上がりだからこそ、心配なのだ。
 何の心配も抱かず、ただ、突進を続けていた時代には、多くの人が、心配する気配が無かった。一部の人が、懸念を並べ、崩壊の兆しを、指し示していたが、無視するだけでなく、まるで、敵のように扱い、批判や糾弾を、ぶつけていた。結果は、既に、明らかとなっているが、間違っていたのは、心配せず、無謀な突進を、続けた人々だった。ところが、論理的に、懸念を並べ、崩壊の兆しを、示した人々は、そのまま、舞台から、追い出されてしまい、戻ることは、難しくなった。この不思議な現象は、多分、これに限らず、多くの事柄に、起きてきた。主流派は、あくまでも、中心に位置し、たとえ、失敗を繰り返しても、外れることはない。それに対し、客観的な視点から、正鵠を射る意見を、述べた人々は、たとえ、正しいことを主張しても、外されたままで、中心に、迎えられることは、殆ど無い。何故、このようなことが、起きるのかについて、様々な意見があるが、実際には、中心に居ることが、最重要であり、彼らは、その立場を、維持する為に、努力を繰り返すのだ。意見や判断の間違いは、消えることがないが、それによって、立場を失うことがないように、別の形の努力を、し続けているのだ。その為、正論を掲げたとしても、外側の人間が、中心の人に、替わることはない。肝心の正論も、元の姿をなくし、中心人物に、都合のいい形に、変えられる。これでは、何も変わらず、同じ失敗を、繰り返し続ける。それこそが、歴史が繰り返す、最大の要因かもしれない。

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11月4日(月)−縮こまる

 店頭で、こちらでお召し上がりですか、それとも、お持ち帰りですか、と尋ねられて、こちらで、と答えた。もう、ひと月が経過したから、慣れた人も多いだろうが、以前から、同じ質問が、行われていたことを、考えると、何も、変わっていない、と思うのでは。
 税率を、上げたことへの、言い訳にしか、ならないようなことが、このひと月、起きているのだが、賢く生きる人は、どれ位居るのだろうか。外食と、単なる買い物を、区別する形で、適用される税率を、変えているが、その線引きの基準は、客が、どう判断したか、によるものとなる。その為、一部には、店先の席を、片付けた所も、あるというが、何とも、迷惑な話だろう。だが、そこで、2%の違いが、出ると聞けば、賢く生きる為には、嘘も方便、となるのが、人情なのではないか。ただ、2%とは、一体どれ位なのか、と考えては、どうだろう。持ち帰りかどうか、を問われるような食事は、その多くが、ファストフードと呼ばれるもので、一人当たり、大体500円程度のものだろう。だとすれば、その2%とは、10円である。それを、節約すれば、毎日食べたとして、3650円を、溜め込むことが、できるわけだ。自身を、底辺にあるとして、日々の生活にも、困っていれば、確かに、この額でも、重要なものとなるが、果たして、どうだろうか。逆に見れば、たった500円とは言え、外食せずに、自分で作れば、10円以上を、節約することも、可能だろう。どちらが得で、どちらが賢いか、考え方の違いに、過ぎないのだが、そんなことを、庶民達に、店先で、考えさせることに、果たして、どんな意味があるのか。そちらの方が、遥かに重要な問題、なのではないか。日々の生活に、汲々とさせられた上に、毎日、嘘も方便と、思いながら、暮らし続ける。何だか、器まで、縮めさせられて、いるような気がする。

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