パンチの独り言

(11月18日〜11月24日)
(例外、証拠隠滅、楽観へ、選ばれる、奉仕活動、差別せず、資産運用)



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11月24日(日)−資産運用

 基本的な数値の動向で、運用先を定める。大きく、二つに分かれる、投資方針の一つだが、最近の動きは、摩訶不思議な状況に、あると言われる。最高値を、更新したとの文字が、紙面を賑わす一方、企業業績は、冴えない数値を、示しており、下方修正が発表される。
 となれば、この上げを支えるのは、もう一つの勢力だろうか。業績などの数値ではなく、市場の動向、つまり、その場の上げ下げを、分析することで、投資先を、選定するものだが、この勢いが増すと、上昇基調が、更なる上昇を呼び、最高値の更新が、続出することになる。現状は、この典型とも思える様相を、呈しているようだが、それはそれで、突然訪れる、下降基調への転換が、投資家の憂鬱を、引き起こすことになる。最近は、金融業界の不調から、長い目で見た、投資先の選定が、行い難い状況にあり、ただ、預けるだけでは、目減りに、襲われるという事態が、起き始めており、それよりは、不安定の危険が、あるものの、上昇の可能性が、少しでもある方に、目が向くのは、当然のことかもしれぬ。安全資産が、殆ど見えない状況で、少しでも、利益を上げねばならぬ場合は、こんな投資方法しか、残らないのだろう。ただ、皆が挙って参加すると、それが呼び水となり、買い基調が、株価の上昇を、引き起こし始める。貴金属の相場に比べ、流動性が高いと言われれば、その勢いは、注ぎ込まれる資金の大きさで、決まってくる。では、この勢いは、いつまで続くのか。一見、安定成長を、続けているように見えても、不安材料は、数多く、見出だされている。再選を、確実にしようと、躍起になる、海の向こうの大統領も、やはり、不安要素でしかない。特に、自らの立場さえ、危うくするような、暴言や謀略を、繰り返すようだと、心配の種は、尽きないだろう。こちらも、賢く振舞わねば。

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11月23日(土)−差別せず

 多様性とは、違いがあることで、今は、種の多様性として、様々な種類の生き物が、生存できるようにすることや、ヒトという種の中での違いを、尊重することなどが、取り沙汰される。どちらも、違いを認め、それを保つことが、重要との考えが、根底にある。
 その過程で、違いが、無いことを、主張する人も居るが、それは、扱いにおいてであり、それぞれの違いは、歴然とある。昆虫の標本箱を、眺めたことのある人は、何故、同じ種の虫を、こんなに並べるのか、不思議に思っただろう。だが、細かく見てみれば、模様や形に、僅かな違いが、見出だせる。表面的な違いであり、ヒトで言えば、顔や体型の違いとなる。ここまでなら、誰もが、違いを認め、受け入れるのだが、性格や能力などの、更なる違いで、極端なものとなると、反応が違ってくる。今、求められるのは、このような違いを、認め合い、互いを尊重することだが、求められることから、現状は、そうなっていないことが判る。では、何故、できないのか。認めないから、と言われるが、自分との違いは、当然のものとしても、それが、容認の範疇かどうかが、肝心となる。時に、嫌悪を催す、とまで言われる反応が、何故、引き起こされるか、原因は、はっきりとしない。だが、それが、障害となるから、それを、取り除く為の手立てが、盛んに、講じられている。単純には、知ることが、第一と言われ、教育が、施されるが、期待程の効果は、上がっていない。頭では、解っていても、心では、と言われるのは、その為だろう。違いを知っても、感情が、伴わないと言われ、その壁を、どう取り除くのか、となるが、手詰まりのようだ。多様性を認めず、差別を繰り返すことが、問題とされるが、その解決は、難しい。そこで、差別を受ける側を、眺めてみると、違う差別を、している場合がある。差別の問題は、歴史的なものだが、多様性の理解だけでは、解決しないと言われる。では、どんな意識が、必要となるのだろう。

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11月22日(金)−奉仕活動

 ボランティア活動が、社会の奥底にまで、浸透している。災害が、起こる度に、被災地で、動き回る姿が、取り上げられる。だが、広範囲に及ぶ、甚大な被害の中では、その数が、足らないと伝えられる。地獄に仏とは、度が過ぎる表現だが、そんな気持ちで、待つようだ。
 こういう活動を、皆が注目する前から、続けてきた人物の、話を聴く機会があった。様々な活動を、多方面に行ってきた自負心は、かなりのものなのだが、どうも、話の中に、入っていけない気がした。本当に、困っている人達を、助ける為に、これらの活動は、実施されている。確かに、その通りだと、思ったからこそ、精を出しているのだろうが、引っかかったのは、困っている、という程度の話だ。日常的に、不安や心配を、口にすることが、当然となった社会では、何の疑問も、出てこないのだろうが、見方を変えると、過剰とも思える、介入なのでは、とさえ思える。だが、渦中の人々は、助ける側も、助けられる側も、真剣に取り組んでいて、何の疑問も、湧いていない。そこに、違和感を覚えるのは、こちらの見方が、正面からではなく、側面ばかりに、向いているからかもしれない。助けが必要なのは、明白なのだと、当事者達は、訴えているが、そこに、疑問を挟みたくなるのだ。社会の中では、自立することが、第一と考えれば、余計な手助け、とも思える。全てに、当てはまる訳ではないから、軽々に発言する訳にはいかないが、首を傾げる位は、許されるだろう。当事者が、気付かぬこととして、もう一つ、大きなことは、これ程大規模に、長期間続いた活動が、多くの人に、あまり知られていないことで、ここでも、疑問符が、浮かんでくる。社会活動の難しさは、こんな所にある、とも言われるが、何故、伝わらず、広がらないのか、その疑問に、答える術を持たないと、活動の継続は、難しくなる。

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11月21日(木)−選ばれる

 入試制度の問題が、盛んに取り上げられている。人生の岐路で、重大な決断が、下されるとなれば、誰もが、必死になるのも、当然なのだろう。しかし、認識の甘さが、指摘されたり、無配慮な発言が、糾弾されたり、何処か、別の方へと、向かっているようだ。
 本来、入試とは、選抜の為に、行われるものだ。その意味で、選抜する側が、自分達にとって、良い結果を得る為に、工夫を凝らす。だが、今、話題になっているのは、選抜される側に、都合の良いこと、別の言い方では、平等のものである必要がある、とされる。これが、認識の誤りであることは、確かなのだが、弱者に優しい社会は、そんなことさえ、気付くことができず、混乱を、悪化させている。選ぶ側が、自分の基準に、見合った人材を、見つけ出す為の手立てを、学校に当てはめれば、入試制度となる。まるで、選ばれるのが、当然である、と思い込む若者は、ここに、問題点がある、と聞いたとたんに、過剰反応を示す。今に始まったことではなく、昔から、受験戦争とか、悲惨な受験生とか、そんな表現で、社会を味方にしてきたが、その割に、努力をせず、楽に走ってきたのは、周知の事実だろう。にも拘わらず、懲りない連中は、若者の味方の顔で、更なる混乱を、招いている。こんな連中の、相手をする暇があるなら、勉学に、勤むべきだが、逃避行動に、走る連中は、これ幸いと、声を上げている。入試だけでなく、試験そのものが、平等である筈がないのは、明らかで、山が当たるとか、運が良かったと言われるのも、その証左だろう。一方、記述への移行に、反対する勢力は、現状維持を、主張するようだが、選択式が、導入された時、猛反対をしたのは、おそらく、同じような考えの、連中だろう。確かな考えを持たず、ただ、勢いで、騒ぎ立てる。愚の骨頂としか、見えてこない。選抜に、平等が、ある筈もないことに、気付かぬままに、手を伸ばせば、火傷するのは、確かなのだ。

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11月20日(水)−楽観へ

 老後への不安が、様々に、取り上げられる。現状だけでなく、今後の変化が、どのような影響を、及ぼすかが、重要な要素となり、時に、不安を煽る結果へと、繋がる。将来への心配は、尽きることがないが、それは、何がどうなるかが、分からないからこそだろう。
 悲観的に考えることは、自分を守る為にも、危険な目に遭わない為にも、重要なものに違いない。しかし、それだけで、終わらせては、湧いてきた不安に、押し潰されかねない。では、どうしたらいいのか。何事も、悪い方向に、考えてみたとして、その解決法や、回避の手立てを、考えることで、危機回避の筋道を、定めておけば、不安を、少しは解消できる。それにより、自分なりの対応策を、講じておけば、ある意味、安心へと繋がる。だが、多くの人は、不安の種を、周囲に見出だすだけでなく、その解決を、周囲に依存する。その結果、不安の原因は、実は、自らの中にあるのに、責任転嫁を繰り返し、心配の種を無くせず、不安が募る結果となる。非情な言い方をすれば、自業自得に、違いないのだが、最近の傾向は、自分も含め、他の責任にしたい人間が、異常な程に、増えた結果、同情という、仲間意識が、強まり続け、結果として、自分以外に、問題があるとする考えが、大勢を占めてしまう。冷静に考えれば、ほんの小さなことで、解決の糸口が、見つかる筈なのに、そのきっかけさえ、掴めないままに、他人のせいにする。この繰り返しでは、何の解決も、得られないばかりか、責任を負わされた人々は、心休まることなく、どこまでも、努力を続けさせられる。自分も含め、改善を図る必要が、あることは明白だが、それを妨げる風潮が、社会に満ちている。これでは、この先、明るい未来は、やってきそうにない。だが、自分を変えれば、明るくすることが、できるのではないか。悲観から、楽観へ、と。

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11月19日(火)−証拠隠滅

 記録に対する、認識の違い、とも言われるが、そうなのか。海の向こうと、こちらで、記録を残すことに対し、正反対とも思える、実態が伝えられる。特に、公共のものについて、こちら側は、秘密を守る事を、優先する余り、記録自体を、消滅させようとする。
 この慣習が、始まったのは、敗戦直後の、軍や国の文書破棄の、動きからとの、話が伝えられる。都合の悪いものを、隠そうとする心理が、この事件から、形成されたとするものだが、本当だろうか。人は、誰でも、悪事を暴かれる事を、忌み嫌い、避けようとする。それは、あくまでも、利己的なものであり、公共への奉仕を、謳う立場では、徹底的に、排除すべきというのが、海の向こうの、根本原理だろう。それに対し、公共の安定を、目指すように見せ、一方で、奉仕者個人が、彼らの立場により、手に入れた利益を、暴かれないように、というのが、こちら側の方針だろうか。何れにしても、記録を残すことを、優先せずに、政を行い、国の運営を進めれば、歴史に学ばず、ただ、場当たり的な、思いつきを、押し通することになる。バレるかどうか、ということばかりに、目を奪われ、本当に大切なことを、投げ出すような動きが、いとも容易く行えるのが、こちら側の問題だろう。それを容認せず、自らを戒める為に、記録を、ほぼ完全な形で、残そうとするのは、歴史に学ぶことの、大切さを意識するからであり、更には、自らの行状の正しさを、後世に問う為なのだ。秘密は、当然の如く、守らねばならないが、事が済めば、その経緯を、詳らかにすることこそが、大事なのだろう。今回の宴の話も、そんな見方からすると、公職にある立場に、あるまじき暴挙であり、記録の残し方にさえ、何かしらの、謀略が感じられることに、宰相の品格だけでなく、彼を支える勢力の、傲慢さが見える。人気取りは、それにしか、関心がないからか。

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11月18日(月)−例外

 此の所、薄墨色の葉書が、頻繁に届く。同世代の、親世代が、その時期に来て、訃報も、数々、届けられるが、それに付随する、所謂、欠礼葉書が、届けられるのだ。習慣と言えば、その通りのことだが、年始の挨拶の習慣が、徐々に、薄れる中での、儀礼だろうか。
 とはいえ、こちらも、親の一人が、あの世へと旅立った。本来なら、皆と同様に、欠礼葉書を、準備すべきだが、どうも、その気が起こらない。何も、特別なことを、しなくても、という思いの半面、友人関係の中には、互いの親とは、何の関係もない中では、押し並べて、欠礼を詫びるのも、何処か、違和感を覚える。本来なら、こちらが、礼を失することを、事前に、詫びておこう、というものだが、最近は、これにより、受け取りを、拒むような印象を、受ける人も居る。それは、誤解なのでは、と世に問うても、何の反応も、返ってこないだろう。それより、年始の儀礼については、そのままにして、後から詫びるのも、方法の一つではないか。という考えから、欠礼葉書の準備を止め、寒中見舞いで、置き換えようかと思う。賀状が、届いた相手には、これで、失礼を詫び、事情を説明する。相手によっては、気付かぬことを、叱責されたかの如く、感じるかもしれないが、そんな思いは、欠片も無い。習慣とは、本当に、恐ろしいもので、横並びが、当然との思いが、そこにはある。だが、こちらの考えは、別の所にある。ただ、今の時代には、こんな例外は、異常なものと、受け取られるかもしれない。国民性の表れが、このような所にも、満ち溢れてくると、何とも、過ごしにくい感覚が、出てくる。それでも、互いの思いを、理解し合い、互いの配慮を、思い描けば、何かが伝わるのでは、と思えてくる。さて、どんなことが起きるか。

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