パンチの独り言

(11月25日〜12月1日)
(轍を踏む、学び舎、べき論、悪魔の囁き、親の務め、未解決、現状打破)



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12月1日(日)−現状打破

 先月は、読書が、進まなかった。難解な内容のものが、鞄の中で、腐り始めているし、小説の大家が、著した記録集のような代物に、四苦八苦している。睡眠薬代わりの、読み物は、この所、外れが続き、今回も、期待外れで、終わりかけている。
 本来なら、今月分に、回るはずだが、流石に、絵本1冊で、終わるのは、何とも風が悪い。だから、今朝、読み終えようと、急いでいる。半世紀前に、大々的に開催された、万国博の、目玉の一つとなった、とんでもない建造物を、作り上げた芸術家を、周囲で支えた人々への、聞き取り集である。本人に、会ったことはないが、実質的な妻として、最盛期から、晩年まで、支え続けた養女の方とは、何度かお会いし、お話も伺ったことがある。まるで、信者の如く、死後も愛情が尽きない姿に、驚きと共に、本人の偉大さを、実感させられた。本の対談に、登場する人々は、まだ存命であることから、当時、駆け出しであった人が、大部分で、あの時の仕事を、境にして、階段を、駆け上ったようだ。聞き手が、芸術家の跡を継いだ人だけに、礼賛ばかりが、並んでいるのは、致し方ない所だが、鬼才の異様さを、今更取り上げても、少し視点が違う位で、新味は無い。一方で、若気の至り、と言いつつも、成果の程を、自慢を交えて、語る人々には、何の印象も抱けない。確かに、過激な企画の中で、厳しい時間制限と、大事業という重圧に、耐え抜いたことは、賞賛されるべきだろうが、それ以外に、何があるのか、見えてこなかった。更に、その後の、この国の成り行きに、様々に批判を、浴びせようとする聞き手に、同調する姿勢には、誰が、それに加担したのか、などと思えてしまう。確かに、旧弊を打ち破り、奇想天外も含め、大事業を、完成させたことは、事実には違いがないが、それは、彼らだけの仕事ではない。大建築家や大芸術家の意識は、今となっては、知りようもない。その中で、彼らの言い分は、どうにも、軽薄に映る。

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11月30日(土)−未解決

 課題山積、と言われる時代に、解決に向けての対策は、手詰まり感が、強まり続ける。あれ程真剣に、課題追求が行われ、山積みになる程に、多くのものが、指摘されているのに、何故、解決の糸口さえ、見出だせないのか。原因は、一体全体、何処にあるのか。
 その答えが、見つかりさえすれば、解決の速度は、増すに違いない、と信じる人が多い。だが、原因によっては、それが、確かになっても、糸口さえ、掴めないのではないか。課題を、発見することは、解決への第一歩、と言われるから、皆が挙って、それに取り組んできた。このやり方で、問題が、明らかとなり、解決の端緒を、掴んだことから、広く使われるようになった。ところが、社会問題の多くには、これが、通用しないことが、明らかとなりつつある。当事者達は、何が違うのか、首を傾げているが、中々見えてこないようだ。特に、格差の問題は、その根源が、明らかになっても、無くすことどころか、縮めることさえ、できないままとなる。となれば、焦りが募り、更に、極端な方策が、講じられるが、殆ど、変化が起きない。つまり、問題は、明らかなのに、解決ができない、という重大な課題を、抱え込んでいるのだ。では、明らかな問題を、解決する手段は、存在しないのか。もし、そうだとしたら、課題を掘り出し、問題を明らかにするのは、何の役にも立たないだけでなく、明らかにされたことにより、別の問題が、出てくるのではないか。貧富の問題も、性別の問題も、同じような状況にあるようだ。関係者は、解決を目指し、努力を続ける、と言われるが、徒労に終わりかけ、頓挫しつつあることに、何の疑問も、抱かないのだろうか。実は、視点を変えて、この問題を、眺めてみると、気付くことがある。課題を見出だすことが、最優先となるが、その多くが、現状の批判ばかりで、問題かどうかを、見定めていないのだ。問題でないものを、掲げても、何にもならない。どうなれば解決かさえ、不明なのだ。

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11月29日(金)−親の務め

 被害に遭っているのは、子供なのだが、その原因を、作っているのは、何だろうか。子供の行動範囲は、徐々に、広がると言われる。幼児の頃は、親だけが、接することのできる、大人だが、幼稚園や小学校に、行くようになると、別の大人達が、登場してくる。
 とは言え、それは、ほんの一握りに、限られている。それに比べると、事件に巻き込まれた、子供の多くは、見ず知らずの大人達と、接触していたことが、明らかとなっている。そこに、大きな違いが、あるのではないか。多種多様な考え方に、接することは、成長過程で、重要な要素と、考えられている。しかし、対面の接触と比べると、機械を通したものは、大きな違いがあると言われる。子供を誘惑した大人の多くは、実際の姿を、見せないままに、ある役を演じている、と言われる。それによって、子供にとって、理解のある大人が、機械を通すとはいえ、目の前に現れ、実物に、接したいと、願うようになる。そこが、分岐点となるが、現実社会から、逃げ出したいと、願う子供に取り、何よりも、大切な存在となれば、思う壺なのだろう。誘った人間も、そこまでの見込みを、立てていた訳でもなく、成り行きで、そうなったという場合でも、なればなったで、もっとできる、と思うのではないか。こんな経過を辿り、事態は、悪化の一途を、辿ることとなる。凶悪化する場合や、最悪の事態を、招く場合も出てくる。では、そんな事態に、陥らないようにする為に、何が肝心なのか。現実逃避が、可能な事態に、至らぬような配慮は、常に必要だが、そんな思いを、過ぎらせた経験のある人は、多いのに、これまでは、何故、一線を越えずに済んだのか。そこに、大きな違いが、あるように思う。親の役目は、本来、そこにあるのだが、さて、当事者達は、それに気付いていたのか。自分のこととして考えれば、気付けるようにすれば、防げそうに思う。難しくはないだろう。

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11月28日(木)−悪魔の囁き

 何故、と思う事件が、続発している。と言っても、今、突然、発覚しているが、実際には、殆ど目立たず、闇から闇へと、隠されていたものが、表に出ただけ、なのかもしれない。犯罪については、平和が続く中で、凶悪化しているとか、若年齢化しているとか、言われる。
 その度に、実際には、混乱の時代の方が、子供達の犯罪の数は、多かったとの統計が、発表される。だが、世間の印象は、正反対の状況で、その理由が何処にあるのか、はっきりしない、と言われる。ただ、身近なことを除き、関心が広がらなかった時代と比べ、今は、矢鱈とも思える程、首を突っ込む人が、増えているようだ。その為、同じ程度の数も、過大に受け取られ、増加し続けている、と受け取る人が居る。それに加え、印象を強めているのは、同じ犯罪でも、形態が異なるからだろう。親の監視が厳しく、自由が少なかった時代と違い、今は、好き勝手に、暮らせる時代だろう。その上、過剰な躾は、一部を除き、虐待と見做されるから、親は、放任に走るしか、道が無いと考える。実際には、誤解でしかなく、単に、責任放棄なだけだが、それが、ある傾向を、助長しているようだ。若者が、悩みを抱えるのは、古今東西、変わらぬ傾向だが、それに対する働き掛けに、最近は、大きな変化が起きている。見ず知らずの人間が、深く関わることは、以前なら、起き得ないことだったが、手軽な発信装置を、手にした途端に、不特定多数との接触が、いとも容易く、行えるようになった。それが、犯罪への接近をも、容易くすることで、犯罪に手を染める子供も、被害に遭う子供も、続出することになった訳だ。善悪の区別がつかず、欲望を満たすことだけを、追い続ける年齢が、その機会を得れば、こんな事態に、陥るのは当然だ。なのに、何故、道具を、与えてしまうのか。

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11月27日(水)−べき論

 現代社会では、賢く生きることが、第一とされている。その為、損をしないだけでなく、得をするような、仕組みの導入が、肝心とされる。損して得とれ、ではなく、そもそも、損をせずに、得だけを、掴むことが、賢さの表れ、と言われている訳だ。
 こんな背景から、還元制度が、導入された訳だが、それが、減収に繋がっては、元も子もない。少子化の問題も、これまで、様々な優遇制度が、導入されたが、結果は、芳しくないどころか、勢いが、増しているとさえ、伝えられる。金銭的な負担が、最大の要因とされたが、それが、真っ赤な嘘であることが、判明しつつある訳だ。では、何が、肝心なのか。金銭でなければ、心理となる、というのが、世相のようで、心配や不安という言葉が、盛んに使われるのも、その表れだろう。その中で、何が、出産や子育ての、不安要素なのか、と思うのは、それが、当然とされた時代に、育った人間だけであり、今や、そんなことは、当然ではなく、過度な負担とさえ、言われている。面倒とか、責任を感じるとか、兎に角、心の問題を、前面に押し出し、逃避を正当化する。経験者からは、正反対の意見が、出る所を見ると、これもまた、最近の傾向で、やらないことが、最善の策という考えに、基づいているようだ。義務とは言わないが、本能の一つと、見るだけで、随分変わりそうに思う。これとは無関係だが、社会制度の問題も、同じ考えに基づいている。損をせずに、得だけを、手に入れるのは、企業とて、同じだろう。損益の問題ではなく、国に対する、納税の義務の問題だ。法人税を、減らしさえすれば、業績が、上がるとの訴えに、安易に応じた結果、今は、余剰金が残り、内部留保となった、とされる。それに対して、更なる優遇を、との議論が始まったらしいが、いい加減にすべきだ。税率を下げたのは、俸給を上げる期待だったが、結局、何もせず、懐を温めただけだ。そこに、更なる優遇とは、愚かとしか言えない。厳しい制度を、導入せねば、野放図が、蔓延するだけだ。

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11月26日(火)−学び舎

 少子化の影響が、ついに、表面化し始めた。などと書いたら、今頃何を、との指摘が、飛んできそうだ。一部の地域を除き、多くの小中学校が、閉校となっているが、その影響が、更に、上の学校にまで、及び出したのだ。高校の数も減り、次は、最高学府となる。
 確かに、一部の私立大学は、既に廃止となっており、始まっている、と思う人も居るだろう。だが、その多くは、放漫経営の挙句、入学志望者の減少が、止まらないまま、定員割れを、続けた結果、と言われている。正常な経営を、続ける限り、問題はない、と思う関係者もおり、特別な手立ての、必要を感じなかったらしい。だが、現代社会では、人気が第一とされ、その根拠には、魅力こそが、重要となる、と言われる。では、学び舎で、何が、魅力となるか。これも、世相に、左右されるもので、成長が続く時代には、人々の関心は、学ぶことより、楽しく通うことに、向いていた。その結果、まるで、遊園地のような設備を、前面に押し出す所までが、登場していた。流石に、一時の迷い、程度のことで、この騒動は、過ぎ去ったが、今の窮状には、そんな打開策は、通じそうにもない。実質を求める人々は、成果を追い求め、何が手に入るか、に関心が集まる。本来なら、教養や知識を、高める為の場に、ならねばいけないが、目に見える成果とは、全く別のものらしく、卒業後の成果を、追い求めている。これは、つまり、就職先や、卒業後の収入という、目に見える形の成果であり、それを謳う所も、数多く出てきている。だが、人を雇う側は、看板だけで、決める訳でもなく、その間に、身に付けたものを、成果として評価する。だとしたら、この認識の違いは、どんな乖離を、招くのだろう。本来、適材適所が、望まれるのだが、こんな現状では、認識の違いだけが、拡大していきそうだ。自分は違う、と言えるだろうか。

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11月25日(月)−轍を踏む

 還元制度が、好調と言われる。反対の矛先を、躱す為に、苦肉の策として、登場したものだが、連日のような、叫びにも似た、訴えが功を奏したのか、導入業者が、急増することで、その為の資金が、底をつく、と言われる。これが、経済好転へと、繋がるのか。
 そこには、多くの絡繰りが、仕組まれている。その結果、前回の轍を踏まぬよう、とばかりに、軽減の仕組みが、取り入れられた訳だが、それ自体が、功を奏するということは、肝心の増収は、空振りに、終わらないのか。そんな心配もせず、ただ、恩恵に浴している、という実感を、抱くことこそが、貧しい人々の、関心なのだろう。だが、それでは、金銭的な貧しさだけでなく、心の貧しさまで、背負い込むことに、ならないのだろうか。税収を、増やすことが、肝心と言いながら、一方で、還元策を、講じることは、矛盾しているように、見えている。その結果が、出るまでは、結論を、下すことはできないが、好調との状況は、裏目に出るとの、予想に与するように、思えてくる。本来、必要な額を、どう集めるかが、重要な筈であり、その額を目指して、決められる筈だが、どうも、様子がおかしい。何事にも、丼勘定が基本で、本来、毟り取ることを、旨としてきたものが、味方のふりをする為に、取るものを取らずに、施しばかりを、優先させてきた。その結果、国の財政は、不安定なものとなり、借金で、支えるしかない、状態に陥っている。これは、世界的な傾向で、国債という名の、借金の返済期間を、人の寿命を上回る程に、延ばすことさえ、当然の如く、採り入れ始めている。その場に、必要な資金は、その場で、集めることが、基本とされていたが、強欲な庶民達は、権利は、強奪してもいいが、義務を、果たすつもりは、毛頭ないようだ。

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