国全体としては、人の数が、減り続けているのに、一部の地域では、増加の一途が、続いている。職を求め、利便性を追求し、より良い環境を、手に入れた結果、と言われるが、果たして、そうなのだろうか。人口集中地域が、更に多くの人を、集めるのに。
成長期にも、同様のことが、起きていたが、様相は、かなり違っていた。全体として、人口が増え続ける中で、周辺地域への、拡大が続いていたことが、当時、伝えられていた。住む場所を、幾ら求めても、提供される住居には、限りがあり、開発が進む、新興住宅地に、移っていく人が、増え続けていた。住宅地は、住む為の環境を、整えていったが、それ以外の利便性の多くは、犠牲にされた。通勤時間は、伸び続けて、片道2時間が、当然と言われる程となり、痛勤などと、揶揄されていた。それ以外にも、文化施設に出かけるにも、同じだけの時間がかかり、文化への興味を、捨て去る人も、居たと言われる。そんな時代を経て、改善策が、講じられたと言われるが、集中地域の面積が、増す訳ではない。ただ、平面的な問題を、立体的な建物で、解決しただけのことだ。交通の便が、いいと言われる地域に、高層の建物が、姿を現し、その多くが、住宅となった結果、それまでとは、全く異なる集中現象が、起き始めた。住む人の数が、増えてくれば、それに伴う、公共施設の増設が、必要となる。一時期、学校不足が、深刻となっていたが、それについては、何とか解決策が、見出だされたのだろう。これで、全てが解決した、と思われていたが、実は、落とし穴は、別の所にあった。最も大きなものは、移動の手段なのだ。交通の便を、手に入れたのだから、それで十分とされたが、実は、住宅そのものの、移動手段が、問題となったのだ。横移動なら、それぞれに、何とかできるが、縦移動は、道具を必要とする。何もなければ、それでもいいが、何か起きれば、それまでとなる。
地元の、絶滅危惧種が自生する、山の保護に、取り組む団体に、こちらが関係する、地元の催しの、収益の一部を、寄付することとした。代表者に、渡すだけで、事が済むと、思っていたが、事前に連絡をしたら、数人の人に、待ち構えられてしまった。
彼らの喜ぶ顔は、こちらの喜びにも、繋がったが、一方で、浄財とは言え、少ない額でも、喜ばれる実態に、懸念が広がった。本来、自治体から、ある程度の支援を得て、活動が維持されるものだが、同じ山に関わる、別の団体との軋轢が、こんな所にも、影を落としているようだ。今回は、危惧種の花の、保護を願っての寄付ではなく、その山の登山道が、台風による大雨の、被害を受けたとの話に、対するものなのだ。伐採された木々が、放置されていたことが、被害を拡大したとのことだが、管理者の責任を、追及できるような、状況にはない。保護団体の人々が、一つ一つ片付けるしか、手立てはないらしい。その上、行政からの支援は、期待できないとのことで、今回の寄付は、低額とはいえ、感謝の対象となった訳だ。その席での雑談でも、野生動物の被害が、話題に上ったが、中でも、深刻と言われるのは、鹿の被害だろう。保護の対象となり、駆除が控えられた結果、野放し状態となると、繁殖力が、一気に爆発し、保護地域だけでなく、他の場所へも、生息地域を広げ、各地で、食害と呼ばれる事象を、起こしてきた。数が増え、食べるものが、足らなくなると、何でもかんでも、口にするようになる。若木の被害は、特に深刻で、立ち枯ればかり、となっている。その上、山から下る鹿達は、人家の近くにも、現れる始末。車との遭遇が、事故に繋がることも、多いと言われる。そんな話題に、花を咲かせていたが、まさか、自分の身に、それが降りかかるとは、予想だにしなかった。車での移動中、峠越えの下り坂で、道路脇から、突然現れた鹿に、ぶつかってしまった。大事には至らず、車は無傷で、おそらく鹿も、飛び跳ねて、逃げたから、無傷だったろう。身近なことだ、ということだ。
買い手は、不満が残っても、現状で、満足するしかない。売り手市場なのだから、それは、当然のこと、と伝えられるが、本当なのか。逆に言えば、少ない数の人材を、奪い合うのが、当たり前、と伝えられるのだが、それ自体が、本当なのか、という疑問だ。
改めて、こんなことを、書く背景には、ある問題が、表面化しているからだ。それは、職を求めて、やってきた人間が、参考資料として、持参する、それまでの成績、という形の、点数化された書類と、目の前に座り、こちらの質問に、受け答えする人間に、何とも表現できない、違和感が芽生える、という状況なのだ。高学歴で、そこでも、良好な成績を、修めてきた人間が、こちらの質問に対し、そつのない受け答えを、しているように見えるが、その答えの多くが、誰もが、正しい答えとして、提出するものに過ぎず、真の実力を見抜く、役に立っていないように、感じられるのである。定型の質問と、定型の回答という、組み合わせを、正しく導き出せば、何の心配もない、と目の前の学生は、自信に満ちた表情を、見せている。しかし、将来性に期待し、その後の採用を、決定した結果、数年後には、姿を消す人々に、採用時には、何の不安も、抱かなかったのは、何故なのか、この答えが、見つかれば、人材発掘は、確実なものとなる。となれば、他との競争が、あったとしても、妥当な人材ではなく、こちらの眼鏡にかなった人材を、見つければいいだけのことだろう。それなら、過当競争の中でも、勝ち残ることが、できるのではないか。こう書くのは、さほど難しくはないが、では、何を指標として、どんな人物を、選び出せばいいのか、それを考えねばならない。人事担当者の悩みは、いつまでも続く。それでも、何とか、答えを導かねば、社の将来は、暗いものとなってしまう。どうしたものか。
実感はない、と言われるのに、株価だけは、上がり続けている。実感どころか、実態さえない、とも言われるが、それでも、市場を動かす人々には、都合のいい相場が、続いている。景気がいいから、という解釈は、殆ど聞かれず、何が根拠となるのか、見えない。
とは言え、就職事情にも、同じ傾向が見られる。所謂、売り手市場が、続いており、卒業を控えた人々は、多くの機会の中から、どれを選ぶか、悩んでいると伝えられる。だが、選ぶ側に、選択の自由が、ない訳ではない。人材発掘は、今も昔も、将来を決める手立てとして、最重要課題となり、目の前に現れる、不確かな人間を、吟味する必要がある。何処かで聞いた話を、まるで、我が事のように、話し続ける学生に、どんな潜在力があるのか、人事担当は、見極める必要がある。それも、学校の成績に、裏打ちされたものではなく、どこにも、現れていないものを、見出だす必要がある、と言われる。何が、きっかけとなるかさえ、判らない中で、人の能力を、測ることは、困難を伴う。これまでの経験からは、偶々こそが、全てであり、見込み違いが、殆どとなる。ただ、最近の傾向は、成績を、頼りにするのではなく、逆の結果と、見てみることが、必要とされる。つまり、与えられた課題を、そつなくこなすことが、好成績に繋がることは、昔から、変わらぬことだが、課題の範囲が、時代と共に、徐々に狭められた結果、数少ないものに、取り組む場合に、限られた話となり、応用力が備わらず、反復や繰り返しにしか、使えない能力が、現れたものとなってしまった。これでは、臨機応変は望めず、一つの情報から、全体を予測できない、あるいは、しようともしない人間が、大きな顔をしているのだ。さて、何を、指標にしたら、本物の人材を、見つけ出せるのか。
海の向こうで、暮らしていた頃、道端で、子供を叱っていたら、道の向こうから、叫び声を上げる女性が、こちらを、睨みつけていた。当時、”child abuse”が、まさに、乱用される程、虐待が、社会問題として、深刻化する中、正義を、振りかざしたのだろう。
あなたには、無関係なこと、と言い返すだけで、その場は、収まった。友人達と、その話をした時も、皆が、それは、正しい行い、と認めてくれたが、その後、あの国は、様々な社会問題に、苦しみ続けている。それを、更に悪化させているのは、あの大統領の、傍若無人ぶりであり、自己主張こそが、全てとの姿勢に、国内だけでなく、他国との関係も、冷え切っている。子供の躾に関して、ここで、何度も取り上げてきたが、体罰を伴うものを、否定はして来なかった。最近は、特に、言葉で叱ることさえ、体罰の一種と、見做されることから、それ自体を、禁じることは、育児放棄の一種と、思えるからだ。その中、子供に対する体罰を、全面的に禁止しようとの、動きがあるとの報道が、流れてきた。世も末と、思えることは、数々あるけれど、これ程のものは、他にないのでは、と思えるのだが、どうだろう。ある水準を、保つ為に、努力せねば、劣化の一途を辿る、ということは、自明だからこそ、各自が、各自の努力を、続けることが、重要となる。子育ても、その一つであり、その影響の大きさは、世代を継ぐ形で、徐々に拡大するからこそ、最も気をつけねば、ならないことの一つとなる。そこに、虐待が、深刻化しているからと、全面禁止の導入が、検討されるのは、本末転倒としか思えない。過激な虐待を、排除することは、当然だが、それが、うまくいかないから、と言って、深刻でないものまで、全てを、というのは、愚かとしか思えない。見つかれば、罰せられるとなれば、過激なものほど、隠し通そうとする。結局、無害を罰し、有害を放置するだけとなる。
教育現場の職場環境を、改善しようとする動きが、激しくなっている、と伝えられる。それ程劣悪な状況に、あるのだという話に、首を傾げたくなるが、当事者達は、業務の多さに、潰されかけている、と訴えてくる。最近は、日々の活動を、事細かに、伝えながら。
確かに、時間を追いつつ、仕事の内容を、追いかけてみると、過剰な負荷が、かけられているように、見えないことはない。こんな表現を、使うのは、負荷の多くが、効率化、省力化の対象と、なり得ると思えるからだ。昔の職員室を、覗いていた感覚からは、今の職場の状況は、大きく変わっている。これは、どの職場でも、当然のことで、学校だけが、違う訳ではない。手で、ガリ版を作り、印刷をしていた時代から、原稿を作れば、機械が、ガリ版を作る時代へと、変化することで、読み易い通信文が、子供達の手に渡されていた。印象を良くするのは、こういうものの出来栄えだが、それでも、内容の多くは、定型文であり、それは、今も変わっていない。パソコンとプリンターという組み合わせが、学校にも届けられ、文書作成が、簡単なものへと、変わっていったが、それは、他の職場同様に、文書の種類と数を、増やすことへと繋がり、業務量は、減るどころか、増えたと言われている。だが、同じ様式で、ほぼ同じ内容の文書を、作る為に、時間をかける必要はない。何しろ、世間では、コピペで、事が済まされている。ここでも、空欄を埋めるように、定型の文書を、作成すれば、事が足りるのだ。だが、これだけではない。採点業務や、子供それぞれへの、個別の対応に、時間が取られるからだ。ただ、こちらも、効率化は、可能だろう。秘密保持も含め、様々な問題が、指摘されるが、昔は、採点を、自宅で行っていたし、対応も、一部に限ることで、少なくしていた。根本を、改善せずに、上辺だけの対策を、講じたふりをするのは、ろくな結果を招かないだろう。
働き方改革の嵐が、職場に吹き荒れている、と言われる。従来の規則では、改革は及ばない、とばかりに、厳しい規制をかけ、強制的な手立てが、講じられた為だ。それは、一部の労働者には、歓迎すべきもの、となるに違いないが、多くは、右往左往となる。
当事者達は、大改革と胸を張るが、その実、小手先のものに過ぎず、効果の程は、定かではない。その上、変化が、強行されるから、影響の及ぶ範囲では、大混乱が、起きていると言われる。だが、混乱は、当然のことと片付けられ、暫くは、嵐が過ぎ去るのを、待つしかないと言われる。新しい制度が、全体に行き渡れば、その状況で、落ち着くものと、見られているのだ。しかし、小手先に過ぎないものが、これ程の影響を、及ぼすこととなるとは、多くの人は、予想しなかったのではないか。だが、根本解決が、難しい中で、小さな変化でも、慣習に縛られる人々には、実質的な圧力だけでなく、心理的なものまで、小さなものでは、済まないのだろう。制度として、導入することで、このような激変が、起こることは、予想できた筈だが、何の手立ても、講じられなかった。結果として、大混乱を、来した訳だが、根本解決を、目指そうとしない人々は、何の変更も、決めないのだ。働き方で、誰もが、重要と思いつつ、手を付けないことの一つに、効率化の問題がある。時間に縛られて、働く人々の多くは、効率を考えず、ただ、片付けるべき仕事に、取り組み続ける。これでは、時間短縮は、程遠く、増え続ける仕事に、超過勤務で、応じるしかなくなる。今、教育現場で、盛んに取り上げられる問題も、ここに、原因があるように思えるが、誰も、触れようとせず、問題のすり替えで、誤魔化そうとしている。これでは、何の解決もなく、目先を変えただけなのに、何故、誰も、真剣に取り上げないのだろう。