パンチの独り言

(12月16日〜12月22日)
(社会責任、公私混同、自由か束縛か、守って欲しい、集中と分散、人間関係、更新)



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12月22日(日)−更新

 先週も、接続不能な状態が、続いていたが、今も、その状態にある。ただ、前回との違いは、ブラウザからの接続が、できないだけで、ファイル転送に使う、FTPと呼ばれる仕組みからは、何の問題もなく、接続できることだ。だから、書き込みだけは、済まそうと思う。
 この所の不安定が、何によるものかは、明らかではない。管理者は、状況報告を、行うと伝えているが、その後、音沙汰はない。世の中には、無料提供も、幾つかあるけれど、こういうことが起きると、やはり、ただというのは、という気持ちになる。利用者の数も、実は、大したことがないようで、前の所に比べると、ネット上の悲鳴は、随分少ない気がする。それだけ、有料提供へ、移ったのかと、思うけれども、その一方で、所謂、SNSの中には、独り言のような、書き込みを、提供する場もあり、どちらかと言えば、それが、最も大きな要因と思える。広告等を、散りばめることで、無料提供を、実現しており、世界中に、人口より多いとも、思える程の会員数を、誇るところもある。公開を基本とするが、仲間内だけの閲覧も、含まれており、利用法を、間違えなければ、秘密を守ることも、可能となる。但し、匿名性を考えると、難しさが、表面化する所もあり、自由な、意見発表の場、とは言い難い。備忘録とか、意見交換とか、人それぞれに、利用目的は、異なっているようだが、今でも、変化し続けており、どこに向かうかも、はっきりとはしていない。一方で、独り言を設置している場は、ある意味、旧来の考えに、基づいた仕組みであり、ブログと呼ばれる、利用者が、意見を発表する場を、提供している。しかし、無料という仕組みには、様々な問題があり、どのように維持し続けるのか、課題は、数多ありそうだ。今回は、いつ回復できるのか。期待を込めて、更新しておくことにする。

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12月21日(土)−人間関係

 自由だからこそ、個人の考えを、尊重すべき、という空気が、社会全体に漂い始めたのは、どん底に、落とされてから、徐々に回復しつつある中だった。それでも、共同作業を、優先する雰囲気は、残っており、お互い様、という考えが、主だった。
 それが、崩壊し始めたのは、やはり、経済が、弾け飛んだ時だ、と思う人も多いが、実は、それ以前に、崩れていたのではないか。繁栄が続き、成長に、限りがないと信じる中で、他人を出し抜くことが、更なる成長を、続ける為の、唯一の手段と、信じる人々が、街を闊歩すると、個人主義の台頭と共に、共同体に対する考えは、薄まり続けていた。お互い様より、自分を最優先で考え、他人を蹴落としてでも、自分の利益を、追求するという考えが、金銭的な力と相俟って、社会の中で、大きな力へと、変貌していった。それ自体は、経済崩壊と共に、崩れてしまい、当時、大きな顔をしていた人々は、いつの間にか、表舞台から、姿を消してしまった。だが、金の力に頼る人々は、その後も、裏の世界で、生き続けていた。違法な勧誘や、詐欺に関する事件など、多くの事件が、金絡みで、話題となっていたが、そこには、被害者と呼ばれる、人々の存在があった。彼らも、嘗ての夢が、崩れ落ちる中で、将来への不安に、苛まれた結果、法外な儲け話に、飛びついた訳で、ある意味、個人主義の亡者の一人、でもあったのだろう。一時は、個人の責任が、高く掲げられたが、その後は、被害者ということで、弱者保護の対象となった。だが、騙されたとはいえ、彼らに、責任がないとは、言えないだろう。大金を失い、失意のどん底で、責任を追及すれば、鞭打つことになるが、とはいえ、やはり、問題は、加害者だけに、あった訳ではない。お互い様が、忘れ去られる中で、こんな事件が、多発したことに、結び付きを、感じるべきだろう。人と人との関係が、崩壊したという点で。

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12月20日(金)−集中と分散

 根本の仕組みが、変化したことで、人々の考え方が、変わってしまった。と言っても、それには、貧富の差が、歴然とあり、誰もが、自分に都合のいい考え方を、しているだけだ。それが、歴然とした差を、更に広げることとなり、苦しい人々は、更に苦しめられている。
 政治の世界も含め、力を持つ人間が、自分に都合のいい方向に、進めようとすれば、苦も無く行えるが、力の無い人間には、容易なことでは無い。それでも、力を合わせれば、ということで、投票行為での行動様式を、変化させる動きが、起こっているが、実際には、影の力に振り回され、結局、金と力の問題であることには、変わりが無い。また、貧困層が、光を見たと思っても、見せかけの利益は、所詮、中身の無いものへと、変身してしまう。その結果、糠喜びに終わり、がっかりするのかもしれないが、次の餌に、飛び付くだけで、何も変わらないままとなる。一体全体、どうしてしまったのか。民主主義では、皆で、様々な改革を進め、それにより、自分達の生活を、明るいものへと、変えていくのが、本道だと思えたが、実際には、そうでないのだろうか。自由主義と民主主義、同じ考えに、根ざすものと思えるが、実際には、大きく異なるようだ。その上、民を中心に、と言っても、それを操る人々が、国を導くとなれば、民の声は、必ずしも届くとは、限らなくなる。金と力を握った、一部の富裕層が、その気になれば、何でもできるだろう。だが、彼らを支えているのは、民衆であり、小さな力が、集まった結果として、一部に力が、集中したのだとすれば、その力を、小さな人々に、注ぐことこそが、国という単位を、動かす力になる筈なのだ。ただ、その考え方が、近年、大きく変わってしまった。このままでは、不平不満が、燻り続け、何時か、燃え上がることに、なるのではないか。

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12月19日(木)−守って欲しい

 保護とか、保証とか、守って貰うことが、当然とされる。確かに、弱い者を、守ることは、社会の務めの一つ、なのだろう。しかし、それで、十分なのだろうか。弱い者を、強い者が、守るのは、社会の仕組みとして、整えるべきだが、現状は、何かが足りない。
 特に、近年のように、弱者が、権利主張の一つとして、様々な要求を、掲げるようになると、それらを満たすべく、多くの手立てが、講じられる。しかし、どんなに、救済策を、講じたとしても、守り切れないものが、あるのではないか。個人情報の保護が、各所で論じられ、情報流出が、報じられる度に、不安を募らせる人が、画面に登場する。だが、一個人の情報が、流出したとして、それが、どんな被害に、結び付くのかを、正確に説明できる人は、殆ど居ない。不安は、目に見えない形で、襲ってきており、具体的な姿が、見えないだけに、不安なのだと、彼らは訴える。だが、それでは、対策は、講じようがない。実際には、情報を、入手した連中が、襲ってきた時に、初めて、何が起きたのかが、判明する。だが、それでもまだ、被害を受けることを、逃れる手段は、残っているのではないか。相手の甘言に、乗せられるかは、判断の範疇にある。断る勇気を持てば、簡単に、断ることができる。にも拘わらず、それができないからと、守って欲しいと要求するのは、筋違いだろう。最近、問題となっている事件の多くは、ほんの一言で、未然に防げるものばかりで、不安に感じる必要は、殆ど無い。なのに、大騒ぎを繰り返し、不安を訴える。それに対し、親切な人々は、無駄としか思えない努力を、始めようとする。これは、自己責任などと、言うべきものではなく、人として、当然のことに、過ぎないものだ。あれこれ、余計な手を、差し伸べるのは、止めておいた方がいい。

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12月18日(水)−自由か束縛か

 近頃の若者は、という批判の声は、古今東西、絶えることがない。名を成した人程、その勢いが強い、などと言われるが、未来を託す為に、必要なものが、幾つも欠けていることに、不安が募るばかりなのだ。自由に、のびのび、という話は、わからなくもないのだが。
 実際に、勝手気儘に、させておくと、何一つ片付かず、暫く様子を見ても、成長の兆しさえ、見えてこない。自分の時代を、思い起こしてみると、上からの圧力を、強く感じる中で、何一つ、教えてくれないことに、強い反発を、抱いていたものの、何もない中から、解決への糸口を、見つけ出した喜びは、自分の可能性を、意識させるものへと、繋がっていた。それに比べて、という思いが、過るのは、当然のことで、圧力の代わりに、事細かな指示を、与えたとしても、それさえ、正しく行えない若者に、落胆だけが、残ってしまう。それなら、自由にやらせれば、いいという意見が、出てくるのだが、何の指示も無い中で、肝心の若者は、呆然と、時間を過ごすだけで、何の変化も現れない。圧力の中で、自分なりの努力をした人間にとって、圧力をかけずに、自由にやらせることに、成果は、殆ど期待できない、と映る。何故、こんな事態に、陥ったのか。これも、何度も繰り返したことだが、傾向と対策が、整備される中で、子供達は、細かな指示を、守ることで、評価を受けることとなる。だが、全ての指示に、従うことができる人間は、ほんの一握りであり、その割合が、評価の高低へと、結びつく。つまり、目の前に現れた、若者の多くは、整備された指示を、十分にこなせず、かといって、そこから抜け出す為の、手立てを、自分なりに講じたわけではない。ある意味、限界点に、到達した人間を、どう扱うか、ということが、現場に課せられている。他人への依存も、指示待ちも、そんな中で、表面化した問題なのだ。では、どこから手をつけたらいいのか。簡単には、見つかりそうにない。

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12月17日(火)−公私混同

 公共投資が、悪者と断じられ、停滞したのは、何故だろう。無駄遣いが、声高に訴えられ、経費削減は、企業だけのものではなく、役所にも、適用されるべき、との指摘が強まったのは、その後に、来たことだろう。実は、どちらも、無い袖が、原因だった。
 累進課税が、厳しく批判され、是正と称して、税率の幅が、縮められた時、その後の展開を、予想した人は、少なかったのではないか。金持ちから、毟り取ることができず、減税を、当然とする社会風潮に、税収は、減り続けることとなる。懐が、寂しくなっても、出て行くものを、減らせば、何とかなる、との見込みは、政権交代後の、厳しい査定でも、現実のものと、ならなかった。細かな部分を、厳しく査定しても、中核をなす、多額の支出に、手が及ばず、一方で、公的な整備は、常に必要となれば、切り捨てることも、できないからだ。では、収入を増やせば、と高らかに始まったのが、宰相の名を冠した、経済政策だったが、はじめは兎も角、すぐに、絵空事であることが、露呈し始め、成長は、幻と化してしまった。となれば、本気で、収入を増やす必要が、出てくるのだが、税制の専門家のように、振舞ってきた政治家が、絞った知恵は、場当たり的で、金持ちや大企業に、有利になる政策ばかりが、表に出てくる。これでは、更なる減収に、苦しむだけ、と映るけれど、世論を左右するのは、富裕層となれば、称賛の声が、高まるとなる。公の整備が、進まぬ中で、個人の考えは、自己責任ではなく、社会への依存を強める。これでは、悪化の一途、と思えるけれど、当人達は、気付く気配もない。その上、責任だけでなく、守るべきことさえ、依存性が強まり、他人事のように、決めつける。個人情報に関する話は、その典型であり、自分で守れるものまで、政府に頼ろうとする。公私混同は、公の立場にある人間の話だが、庶民の多くは、別の形の混同を、当然と思っているようだ。

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12月16日(月)−社会責任

 所詮、独り言なのだから、理解して貰う必要は、無い。と言ったら、じゃあ、何の為に、書いているのか、と問い返されるだろう。はじめの言葉は、言い過ぎだが、懇切丁寧に、説明するのは、独り言には、似合わぬことだ。だから、隠喩や暗喩が、多くなる。
 だが、始めから終わりまで、それでは、取り付く島が、無くなる。では、どこまで、説明すれば、いいのか。この疑問は、書く側には、答えられない。読む側が、ここが、わからないと、返してくれて、初めて、糸口を、与えられる。こんなことから、書き始めたのには、ここ数日、自分でも、わかりにくかろうな、と思いつつ、書いたからだ。焦点が、絞られず、内容が、ぼやけてしまったことも、理由の一つだが、そうでないものもある。本来、人種差別の実情を、訴える為に、使われた言葉が、全く異なる差別に、適用されたことに、強い違和感を、覚えると共に、そんな実情を、招いた背景に、何があるのかを、指摘したくなったのだ。経済状況に、翳りが、見え始めた頃から、社会では、自己責任なる言葉が、盛んに、使われるようになった。特に、金銭が絡む現場では、自己判断による投資の責任は、自分にあることが、強調されていた。ところが、それが、いつの間にか、あらゆることに、適用され始めた。社会秩序の整備や、危機管理のように、社会全体で、責任を負うべきことまで、各個人が、責任を負うべき、との意見が、台頭し始めたのだ。その結果、富裕層は、備えができるが、貧困層には、先立つものがない、というだけで、恩恵に浴すことも、災害を逃れることも、できないこととなった。これが、人種差別と同様に、貧富による差別なのだと、決めつける為の、言葉の援用だった。だが、そこには、無理があるように思える。富裕層への優遇を、放置したままに、社会制度を、改善することは、できないからだ。社会的な責任を、貧富により、差をつけることを、当然としない限り、この歪みは、取り除けない。貧者の主張だけでなく、富める者の意識こそが、重要となる。

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