パンチの独り言

(12月23日〜12月29日)
(無知の罠、反発、空っぽ、逸機、暗い話題、同じ理、三分の理)



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12月29日(日)−三分の理

 合理と論理の話は、所詮、屁理屈に違いない。だが、他人への迷惑に関して言えば、同じようには、扱えないと思う。論理は、あくまでも、論を尽くす為のものであり、それに巻き込まれたとしても、議論の上で、正しい答えに、辿りつけるが、合理は、単なる押し付けだ。
 だが、世の中の大部分は、同じようにしか、扱っていない。根本には、迷惑という考えが、あるのだろう。正しい答えを、手に入れる為としても、議論のような、時間がかかるものに、巻き込まれるのは、迷惑なのだ。それに比べたら、押し付けでも、何でもいいから、さっさと決めて貰って方が、いいと思うのだろう。だが、そこには、大きな違いがある。間違いだと判り、それを、正して貰う為に、手を挙げたとしても、合理で押し切った人間は、取り合う気が無いのだ。議論もせずに、簡単に、答えを導き出したのに、何を今更、文句を並べるのか、という訳だ。これはこれで、正しい考え方の一つ、と言えるのかもしれない。無理難題に、巻き込まれぬ為の、議論の機会を、自ら、投げ出したのだから、その責任の一端は、受け入れた人間にもある、という訳だ。もし、後になってから、文句を並べるのなら、はじめから、合理として示されたものの、正体を暴こうと、努力すべきだろうし、それをしてこそ、文句の権利を、保持できるに違いない。それを、面倒だからと、放り出しておいて、今更、なのである。だが、世の中は、面倒が、先に来る。そこで、意を決して、問題点を、指摘しても、周囲からは、迷惑顔で睨まれ、無駄とまで、言われかねない。そんな人々に、糾弾され続け、自分も、面倒に感じれば、すぐに、長い物には巻かれろ、となるのかもしれないが、それでは、何事も、悪い方にしか、進まないだろう。それも、私利私欲に走る、権力者の思う壺であり、それで、被害を受けても、やはり文句は、言えないのだ。最近の風潮は、随分と変わったが、それでも、この考え方には、一理あると思う。

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12月28日(土)−同じ理

 論理の重要性を、度々、強調してきた。何事も、論を積み重ねることで、答えを、導くことが、できるという主張で、論理展開さえ、徹底していけば、最適な答えに、辿り着ける筈、ということだ。だが、これも、使いようによっては、過ちを、犯しかねない。
 合理性は、論理性と同じ意味、と思う人も、多いのではないか。理に、見合う考え方で、答えを見出そうとする、合理に関して、論理と同じこと、と思っているのだ。だが、一時、流行った表現に、合理化というものが、あったのを、思い出すと、明らかな違いに、気付けるのではないか。理に合うように、という意味で、殆ど変わりがない、と思うかもしれないが、ここで使われる「理」は、理屈に近いもので、一般に通用するものとは、限らない。つまり、合理化を、推し進める人々が、自分達の「理」を、当てはめることで、改革を進めることなのだ。そこには、ある理屈があり、論を積み重ねる余地は、全く残っていない。今も、この合理性を掲げて、自分の理屈で、押し切ろうとする人が、組織には居り、その結果として、何かしらの改革が、実行されるが、いつの間にか、その改革が、非合理と変貌し、次の理屈に、合わなくなる。これは、論理を重んじ、どのような理屈も、きちんと検証して、その正当性を、確実なものにする、手順を、踏まなかった結果なのだ。合理とは、その程度のものと、受け取った上で、合理化を、推し進める人々に、対処するようにすれば、間違った改革は、潰すことができ、正しい判断を、下すことができる。国は、様々な民営化を、合理化という目的で、推し進めたが、多くの問題が、噴出し続ける。構造欠陥だろうが、合理とは、その程度のものなのだ。それを、検証する為に、論理を使えば、もっとマシな答えが、導けたのだ。

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12月27日(金)−暗い話題

 当然の如く、伝えられるのだが、何処か、腑に落ちないことが、ないだろうか。この所、人材不足が、深刻と伝えられ、その穴埋めに、ある年代の人々の、採用が伝えられる。氷河期と言われ、行き先が、見つけられなかった世代が、今は、機会を得たと。
 不況の中で、採用を見送らざるを得ない、という年があると、企業では、数年してから、その年代の転職者を、募るのだという。そんな企業では、ある年代は、転職者ばかりで、能力が高くとも、今一つ、盛り上がりに欠ける、と言われたりする。他社での成果を、基にして選ばれた人々は、新卒採用に比べれば、試し期間を越えて、ある程度の見込みが、立つことから、確実性は、確かに高いのだが、熱意が、感じられず、その上、次の場所へと、移ってしまう危険も、残っている。使う側としては、穴埋めだけでなく、成果にも、期待したい所だが、そうもいかない、という事情があると言われる。それに対して、公務員は、不況と雖も、採用は続けられ、穴は、空いてはいない。そこに、人を注ぎ込もうと、中途採用が、盛んに報じられ、その対象が、氷河期時代の人材となれば、何らかの思惑が、あるに違いない、と勘繰りたくなる。非正規雇用とはいえ、長く勤めた経験から、能力の高さが、評価できるとの報道に、それ自体に、疑問を抱いた訳ではない。疑問は、何故、何時までも、非正規なのか、能力が高いのだとしたら、何故、どの企業も、手を出さないのか、という点に、不思議が飛び交うのだ。この国の、雇用制度について、多くの指摘が、なされているが、最も大きな問題は、ここにあるように思う。新卒を逃せば、次の機会を、得られないという状況は、不思議を通り越し、差別とさえ、思えてくる。能力を、測る手立てを、持ち合わせていないから、という声があるが、非正規とはいえ、身近で、評価を下す機会は、たっぷりあるのに、だ。報道では、明るい話題のように、扱われるが、実は、まだまだ暗闇にあることを、伝えているだけだ。

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12月26日(木)−逸機

 徹底追及と、言っていた筈だが、忘れ去られようと、しているようだ。不祥事は、その原因を明らかにし、責任を負わせることで、同じようなことが、二度と起きないように、厳しく追及される。責任は、地位や職を、失うことにも、繋がるから、防止にもなる。
 本来なら、一つ一つの結論を、導くことで、終息を迎えるが、次々に、露呈するような事態では、手が足りなくなる。それでも、確実に、物事を進めれば、何事も、片付けられるが、そういう仕事に、慣れない人々は、次が起きると、前のことは、放り出してしまう。政治家は、その典型なのか、と思えることが、この所、続いている。花見の宴に、誰を招くかは、本来は、功績に応じて、とのことだったが、無名な人物が、数多く混じっており、更には、犯罪に手を染めた人物までもが、招待されていたことが、暴かれると、様相は、一変した。人気取りが、その手立ての一つとして、利用していたとの指摘は、功名心をくすぐることで、支援を、確実にしようとする、あの連中の性の一つ、とも言われる。証拠隠滅との指摘は、ほぼ確かなものだが、知らぬふりを、し続ける人々は、確実な証拠さえ、隠しておけば、安心との思いが、あるようだ。だが、長引けば、予想外の展開が、起こりかねないとの懸念は、新たな餌を、反対勢力という猛獣に、投げ入れることで、強引な幕引きを、図ったのではないか。今後の展開が、どうなるのかで、この指摘が、的中するかが、決まると思うが、同じ本丸を、攻め込むにしても、全く異なる方向から、進むことは、必ずしも、正しいとは言えない。どちらにしても、政権を握る人々は、的を外させ、対象を、絞り込ませぬように、情報を、操作し続ける。あちこち、目移りすれば、何が、肝心なのかさえ、見失うこともある。これまで、何度も、繰り返されたことで、また、逃してしまっては、何にもならない。

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12月25日(水)−空っぽ

 実態を、理解できないからこそ、不安を口にできる。こんな風潮が、世間に蔓延る中、本来なら、正確な情報を、伝達する役割の人々が、とんでもないことを、繰り返している。不正確な情報や、間違った情報を、意図的に、流布するのだ。その結果は。
 まさに、今、巷が巻き込まれている、混迷の様相が、導き出されている。事実が、最優先される筈が、意図や思惑が、優先された結果、正確な情報は、切り捨てられ、歪曲されたものばかりが、並べられる。冷静に眺めれば、簡単に、見破られるものまでが、次々に、陳列された光景は、噴飯物に違いないが、不安を口に、感情的になった人々には、まさに、餌をばら撒いたような、喧騒が巻き起こる。津波が起これば、次のものが、と煽り立て、地震が起きれば、こちらでも、と煽り立てる。事故の話とて、悲劇の筋書きが、披露されるばかりで、改善の兆しは、全く見えてこない。悲劇の主人公に、なったかの如く、人々は、口々に、悲惨な結末を、喚き立てる。こんな状況で、彼らの目には、どんな未来が、見えているのか。未来などというもの自体が、存在しないのでは、とさえ思える。だが、その実、彼らの目には、自分自身の、明るい未来が、見えているのではないか。芝居でもなければ、こんな気持ちを、表すことは、できそうにもない。幻と思えば、まだ、やり過ごせるのだ。最近も、地球全体の、環境問題に対して、真剣に訴える少女が、多くの媒体で、取り上げられている。英雄かの如く、扱われるけれど、こちらは、その言葉の数々に、何の重さも、感じない。何故、多くの人が、称賛の声を、送っているのか、全く理解できない。ある偏った考えに、取り憑かれたような、言動の数々が、称賛の対象として、紹介されるが、実際の中身は、空っぽにしか、見えていない。

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12月24日(火)−反発

 不安を、口にする人に、その理由を、尋ねてみると、解らないから、と返ってくる。だったら、少しでも、理解が進むように、努めてはどうか、と思うが、多くは、その気配さえ見せない。その代わりに、募る不安を、強く訴え、救いを求めるのだ。
 こんな人々を、相手にして、社会は、様々な仕組みを、整えようとしている。それらの努力が、無駄とは思わないが、多くが、成果を上げられぬまま、不安の声が、広がり続けるのを見ると、何かが、誤っていると思える。何もかも、全てを知ることは、誰にも、できないことだけに、無理強いは、禁物となるが、それにしても、自分から、動こうとしない人の相手を、いつまで続ければいいのか。その一方で、多くが理解できないことを、いいことのようにし、不安を煽り続ける人々は、どんな意図を持っているのか。注目を浴びたい、と願う人々にとって、不安を煽ることは、近年、魅力的な手立て、と見られている。それに対して、不安を抱く人々が、少しだけでも、気持ちを変化させ、相手の言い分に、疑問を呈したり、解らない部分を、尋ねてみると、大きな変化が起きる。好き勝手な意見を、主張してきたものが、滞りを見せ、論理の破綻を、来す場合もある。これも、自己責任の一種だが、自分の不安を、自分で取り除かねば、心理的な浮き沈みに、悩まされ続けることになる。ほんの少しの努力で、少しでも、心が晴れるのなら、誰もが、それをするだろう。しかし、社会全体としては、そんな気配に、気付かせぬよう、不安を煽る材料を、示し続ける。風評という、姿のない怪物を、登場させてみたり、論理的な説明より、感情的な報告を、優先させてみたり、兎に角、冷静さを、失わせようと、努めているように見える。そこでは、巻き込まれぬように、跳ね返す力が、必要となる。自分なりのもので、十分だ。

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12月23日(月)−無知の罠

 スマホに、買い換えてから、出先でも、情報を手に入れ易くなった。携帯の時には、メールを転送設定し、出先でも、確認できるように、しておけば、連絡については、何とかなっていたが、ネット情報全般となると、抜け落ちるものが、数多くあった。
 その意味で、手にする端末は、今、目の前にあるものと、殆ど変わらない機能を、有している。整備すれば、独り言の入力も、可能になるだろう。しかし、入力方式の違いは、そんな必要はない、と訴えてくる。慣れない方式では、かかる時間も、間違いの数も、桁違いとなる筈だ。暫くは、このままだろうが、そのうち、音声入力が、問題なくなれば、そちらに移行、となるかもしれない。便利さだけでなく、手軽さが、今後の展開において、重要となるが、そんな想像さえ、打ち破るような仕組みが、登場しかねない。しかし、便利の裏には、様々な罠が、仕掛けられている、と言われる。昨日の不具合は、出先で回復を、確認できたが、その時点では、情報が得られなかった。夜に届いたメールで、原因が判明したが、それは、フィッシングサイトへのリンク、というものだった。フィッシングとは、想像通り、魚釣りへの連想だが、英語表記では、混乱を避ける為に、phishingと綴られる。だが、意味は同じで、獲物を、「釣り上げる」ということだ。獲物とは、詐欺の被害者であり、ネット上での情報交換に、必要となる鍵情報を、まさに、釣り上げる為の仕掛けに、誘い込む口を、不特定のサイトに、設置することを指す。被害が拡大したことから、設置されたサイトを、閉鎖するなどの措置が、取られるそうで、今回は、それにより、無料サイトを提供する場自体が、強制的に、閉鎖されたのが、原因だったとのことだ。本来、管理者の責任も、開設者の責任も、問われるべきだが、その前に、危険な場を、閉ざすのが、手っ取り早い、ということだろう。早速、こちらも、データを、ざっと点検したが、幸い、その痕跡は、無かった。

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