パンチの独り言

(2019年12月30日〜2020年1月5日)
(面倒くさい、年の暮れ、歯止め、力の乱れ、背中、複数解、過誤)



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1月5日(日)−過誤

 ここ数日、書き綴っているのは、懸念の一種だろう。誰の心配をする訳でもなく、ただ、国や人類の心配を、しているだけだ。このまま、私利私欲に走り、好き勝手な振る舞いを、続けていくと、それは、破滅に結び付く。そんな懸念を、抱いているのだろう。
 この程度のことを、心配するのは、悲観的に過ぎると、一笑に付す人も、居るだろう。だが、彼らの楽観は、単に、物事に、真剣に取り組もうとせず、放置するだけに過ぎない。一つの答えを、与えることで、満足する人々は、それへの反発が、起きなくなった頃から、心配するより、安心感を、与えることに、専念してきた。何も、心配せずとも、世の中は、正しい方向に、進んでいると言い続け、何の確証も、示せぬままに、何事も、有耶無耶にしてしまう。だが、安定が危うくなり、不安が、強く訴えられ始めると、安心材料を、与えることは、止めにして、不安を解消する為の、餌撒きに、躍起となる。問題の本質に、目を向けず、上辺だけを、取り繕うのでは、一時の安心しか、得られぬまま、問題は、膨らみ続ける。本来なら、覚え込ませるだけの年代から、自ら、問題を見つけ、解決する為の手立てを、模索する年代へと、変化する筈の時でも、安心という餌で、目を逸らそうと、腐心し続ける。これでは、記憶装置を、作っているだけで、何の役にも立たない。それも、完璧には、程遠い状態で、記憶違いで、失敗を、作り出す羽目となる。その位なら、機械に任せればいいし、今となれば、経験に基づき、最適の答えを導くことさえ、機械で、可能となり始めた。それなら、あんな役立たず、相手にせずとも良い、となるのが当然だ。そんな教育は、無駄どころが、悪い影響しか、及ぼさない。だったら、このやり方を、改めるしかない。何処に間違いがあるのか、わかっているのだから。

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1月4日(土)−複数解

 何でも、教え込もうとし、何でも、教えて貰えると思う。そんな人間関係で、迷いが生まれたら、何が起きるのか。信頼は崩れ、断絶が深まる。そこに至ってから、慌てたとしても、何もできない。今の状況は、まさに、その状態にあるのではないか。
 成果を餌に、築かれた関係は、肝心なものが、失われてしまうと、崩れるのが、当然なのだ。与えることで、依存体質を、確実なものとしてきたが、与えるものが、見つからないばかりか、今必要なものまで、見つからないとなれば、従う意味は、全く無くなる。確実なものを、提示することで、道筋を、示そうとしても、不確実性が、高まってくると、的外れが続き、疑いの目が、向けられてしまう。昔は、確実なものなど、何処にも無く、自分で、見つけることが、必要とされていた。その中で、自分で見つけられた人が、成功を手にすることが、できていた。だが、いつの間にか、確実な方法が、あるとされ、それを、真似することで、成功を手に入れられる、となっていった。これ自体は、先人に学ぶという点からは、何も、間違っていないだろう。だが、同じことが、繰り返された時代と異なり、急激な変化や、前例のない出来事が、度々起きるようになると、一つの正しい答えだったものが、誤りとされ、失敗が繰り返されるようになる。そこで必要なのは、対応力と呼ばれるもので、異なる事例に対し、異なる対応策を、導き出す力を、身に付けているかが、人間の力として、評価されるようになった。それまでの、決まり切った答えを、如何に速く、正確に、導き出すかではなく、様々な答えを、課題に応じて、選び分けることが、必要となった。では、それは、どう学べるか。自分で、様々な例を、眺めることで、それぞれの違いを、学び取り、より良い答えを、導く判断力を、培う必要がある。その際に、基準となるのは、倫理とか道徳という、社会の規範となるものではないか。ただ、これも、一つの答えを示せばいい、とはならない。ここでも、多くの答えがあり、それを、使い分けることが、必要となるのだ。

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1月3日(金)−背中

 人の道とは、どんなものなのか。道を外れる、という表現は、何度も耳にするが、肝心の道そのものに、関する情報は、余り流れていない。元々、人の歩むべき道など、無いのではないか。これは、道がない、という意味ではなく、単に、唯一無二のものが、無いという意味だ。
 昔の話を、持ち出しても、詮無いことかもしれない。しかし、ここでも、今時の、傾向と対策が、問題を起こしていると、見てみると、何となく、昔のやり方の意味が、見えてくるのではないか。傾向と対策は、唯一無二の答えを、身に付ける為に、大いに役立っている。しかし、これという答えが無く、正解と思しき多くの答えから、自分で、試すべきものを、選び出そうとする場合に、傾向と対策は、殆ど役に立たない。特に、最近の若者のように、正しい答えを、追い求め、それを、授けてくれるのを、待つ姿勢を、良しとする場合には、一つの答えを、示してくれなければ、何の意味も、持たないこととなる。だとしたら、どうなるのか。だとしたら、どうすればいいのか。その答えも、傾向と対策で、ということになるのだろう。だが、何も、示してくれない。だとしたら、何を。答えてくれない、信奉者達に、若者達は、何を思うのか。決まり切ったことには、当たり前のように、唯一無二の答えを、示すことで、まるで、そのやり方が、無敵かの如く、思い込ませる。だが、その欠陥が、露呈した時に、彼らは、何をしてくれるのか。何もしてくれないのだ。それによって、自分の地位を守り、それにしがみつく人々は、実は、何も示してくれず、何の手助けも、してくれない。だとしたら、次代を担う人々は、何をしたらいいのか。昔の話を、思い起こせば、大人の背中を見て、何かを、思い付くことで、自ら、答えを導き出すことが、正解を導く方法となる。そこには、数多くの答えが、ある筈なのだ。

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1月2日(木)−力の乱れ

 驚くべき情報が、もたらされた。年末年始で、慌ただしくする人も居るが、一方で、官公庁をはじめ、多くの組織が、業務を休む時期に、まさに、その隙を突いた暴挙が、実行されたとある。法治国家において、貧富の差なく、守られるべきものが、破られた。
 真相は、これから、徐々に明らかにされる。だが、その前に、既に明らかなのは、守るべき法律が、いとも容易く、破られたことだ。報道当初から、それまでの捜査で、如何に酷い扱いを受けたかを、訴える声だけが、伝えられていた。そこに、強い違和感を、抱いた人が、多かったのではないか。まずは、不祥事が続いていた、ある役所に対する、不信感が、頭を過ぎっただろう。そこには、別の疑いを、差し挟む余地もある。如何に杜撰と雖も、こんな映画のようなことが、行われたことに、誰がどう、という疑問を、抱いたに違いない。但し、これらに対しても、今後、徐々に明らかに、されるだろう。一方、一種、社会的な虐待を、受けたとの訴えに、手を貸した筈の人々も、思いもよらぬ裏切りに、呆気にとられたと、率直に話していた。あの業界の人々が、誰かの利益を目的に、心にもない言葉を、吐くことは、確かにあるのだが、今回のは、果たして何方なのか、知る術はない。ただ、被告不在のまま、今後の裁判が、開かれるのか、まだ明らかではない。結論を導く筈の過程が、途切れてしまったことに、落胆する人も多いだろう。はじめに触れたように、貧富の差なく、守られるべきことが、金の力によって、破られたとしたら、更に、強い不平不満の思いが、社会に広がることに、なりそうに思える。一方、倫理や道徳という言葉が、これ程までに、取り上げられるのも、この時代の特徴となりつつある。金の力が、心の力を、押し潰せることに、末世を、強く感じる人が、増えている。そろそろ、乱世が、姿を見せ始めたのか。

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2020年1月1日(水)−歯止め

 新しい年を迎え、何を願うのか。第一には、平穏な年月を、願うのではないか。安定した時代が続き、それを、当たり前のこととして、人々は、無理難題さえ、叶えようとする。それは、国にとっても、市井の人々にとっても、当然の権利のように、なっている。
 しかし、この考えには、大いなる過ちが、込められている。自らの、過分な願いは、他人を貶め、時に、自分の幸せを願う余り、他人の不幸さえ、願いかねないのだ。自分には、権利があるが、他の人には、それが無い。何故、このような理不尽な考えに、取り憑かれるのか。正常な感覚では、理解し難いものに、違いない。だが、当人達は、何の疑いも抱かず、権利を主張し、横車を押し続ける。国による、そんな横暴も、以前ならば、良識が、覆い隠していたが、今は、支援者が増え続け、その後押しをいいことに、無茶が、罷り通っている。混乱期には、政変を発端とし、独裁者が登場することで、極端な政が、押し通されていた。頂点に君臨する人間は、別の権力が、登場することで、闇に葬られたが、今は、民衆を味方に、独裁に見紛うような、横暴が罷り通っている。良識は、民衆の味方とはならず、彼らの夢や希望を、叶える力とはならない。その代わりに、極端な政策や、差別的な考えが、社会に蔓延し、個人の利益の追求が、それと相俟って、進められていく。だが、その結果は、火を見るよりも明らか、なのだ。無理矢理、拡大した数値は、実態を表さず、それらの数値に従って、引きずられた様相は、或る日突然、崩壊を迎える。よく似た現象は、これまでにも、小さな規模で、起きていたが、大国が、国を挙げて、暴走を続けたことは、殆ど無かった。それが、まるで独裁国家の如く、頂点の暴走が続く。冷静に見れば、破綻を来すようでも、皆で走れば、怖くないとでも言うのか。国だけでなく、個人の範疇でも、同じことが、言えるのではないか。

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2019年12月31日(火)−年の暮れ

 一年の最後の日を迎え、新しい一年は、明るくなるように、と願うものだが、最後の最後に、あらゆる手立てが、裏目に出てしまい、散々なものに、なりそうだと思えてくる。こんな年の暮れは、今だ嘗て、無かったが、これも、人生の一幕、なのだろう。
 分相応とか、足るを知るとか、身の丈に、合ったことを、心掛けるのは、自分の為だけでなく、周囲の為にもなる、と思いながら、日々を暮らしてきたが、どうにも、思い通りにならぬことに、怒りを越して、呆れてしまう。たとえ、自分が、そんなことを、心掛けていても、利己的な人々に、それが、届く筈もない。これほど、明らかなことは、ないに違いないが、その痛手を被ると、改めて、他人と生きることの、難しさを、思い知らされる。こんな形で、新年を迎えることは、誰もが、避けたいと願うだろう。節目を、どう越えるかは、その為の一つの手立て、となるかもしれない。神頼みとか、仏に縋るとか、そんな気がなくとも、こんな形で、身に降りかかった、穢れは、誰かの助けを借りないと、落とすことが、難しいのかもしれない。多くの人々は、こんな思いなど、微塵も抱かず、列に並び、神や仏の前で、祈るのだろうが、中には、今年こそは、とばかりに、気合を込めて並び、祈る人も、居るに違いない。それが、救いになるかは、本人も含め、誰にも分からぬものだが、自身の力で、どうにもならぬものを、何とかしたいと思う時、祈りを、捧げるものなのだろう。古来から、自力では、どうにもならぬ中、救いを求め、窮地を脱しようと、人は、祈りを重ねてきた。苦しい時の神頼みと、揶揄されることもあるが、うまくいく時には、必要ないことだし、その暇さえ、見出だせないことも、ある。新しい年は、困難が、山積みとなるだろうが、うまく乗り越えられるよう、努めようではないか。幕引きは、華やかにしたいものだから。

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12月30日(月)−面倒くさい

 資格が欲しい、と願う人々に、大学は、何らかの資格を、与えている。大学に、進む理由は、嘗ては、学問を究める、と言われたが、今では、単純に、資格だけで、運転免許証と共に、大学の卒業証書が、必要不可欠な資格、となっていると言われる。
 真偽の程は、定かではないが、各年代の、過半数が進学し、それが、当然の資格となってから、敢えて問わずとも、保有するのが、当然となっている。求人欄には、当然のこととして、資格の一つに、挙げられており、そうでなければ、薄給の肉体労働に、振り分けられる。では、そんな資格に、企業は、どんな期待を、抱いているのだろうか。これは、難しい問いのようだ。確かな答えが、ある訳ではなく、単純に、篩い分けに使うだけで、何を身に付けたかを、問うている訳ではない。それより、ある期間、真面目に、学校に通ったのだから、企業での仕事にも、適応できる筈、と思い込んでいるのではないか。しかし、実際に、働かせてみると、日々の業務を、こなすには、様々な点で、欠陥があることが、明らかとなる。毎日、同じ仕事を、繰り返させても、日々、間違いが繰り返され、その後始末に、上司が追われることも、多々あると言われる。一方、定時出社、定時退社の仕組みに、馴染めぬ人々も、数多く居て、首を傾げる上司も、多いようだ。これも、通学が、習慣化している筈、との思い込みの、当て外れの結果だろう。最低限の努力で、ある資格を、手に入れる為の、必要条件を、満たせるように、習慣化してきた結果、それらが、就労に見合わぬことに、なってしまったのだ。それでも、依然として、思い込みは、社会に蔓延しており、未だに、資格としての要求に、並んでいるのだ。そろそろ、本気で、選ぶ作業をしないと、面倒が増えるだけだが、どちらの面倒を、優先させているか、現状は、はっきりと、表している。

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