パンチの独り言

(1月6日〜1月12日)
(不思議、代替機、塵捨て、側近の罪、吉兆、見極める、団塊荷物)



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1月12日(日)−団塊荷物

 傍目から見ると、し放題、好き放題と見える世代は、欲望に走っているが、主体的に、何かをしている訳ではない。人口急増の被害者として、常に、社会に対する要求を、並べているのだ。整備が進まぬ制度の中で、冷遇されてきたことは、事実には違いないが。
 枠が決められる中で、過当競争を、強いられたから、権利が、守られない場合も、あったのだろう。そこから、強い権利意識が、芽生えたのかもしれない。彼らの成長と並行して、高度経済成長が、続いていた時代には、満たされないとはいえ、一部の要求が、受け入れられ、その恩恵に浴していた。しかし、成長の鈍化が始まり、衰退期へと入ると、社会制度も、従来のものを、続けるしか、方法がなくなってしまった。それでも、権利意識が、薄れる筈もなく、不平不満の蓄積から、被害者であることを、殊更に強調し、救いの手を、要求することが、増え続けている。だが、その世代が、社会に進出する頃とは、事情が、一変する中では、要求ばかりで、自分から、動こうともしない人々は、お荷物のように、見做されることとなった。これが、状況を、更に悪化させることとなり、解決できない課題が、山積みとなっている。数の論理で、様々な問題を、突きつけてきたが、上の世代の対応や、下の世代の支援を、頼りにするだけでは、何も起こらない。上は、姿を消し始め、下は、支えることに、疲れ果ててしまった。となれば、彼らとて、重い腰を、上げる必要が、出てくると思えるが、そうはいかないようだ。意識の高い人々は、それでも、意を決して、取り組みを始めるが、大多数は、相も変わらず、要求を並べるのみで、動こうともしない。現行制度への不平不満が、並べられても、それを、解決するのは、自分達ではない、とは、何とも身勝手な話だ。下の世代からは、無視すべき、との声も聞こえている。

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1月11日(土)−見極める

 入試制度の改革が、頓挫したが、本当の問題は、そこではないだろう。この改革が、喫緊の課題として、掲げられたのは、最近のことではなく、前の改革が、実施された頃から、話題となっていた。人の力を、測るための手段が、どうあるべきか、永遠の課題なのだ。
 走る力とか、飛ぶ力となれば、誰もが、同じ条件で、測る手立てがある。しかし、それらを含め、総合的な力となると、方法がないどころか、指標とすべきものが、見当たらないものも多い。それが、まるで存在するかの如く、話が進むことに、強い違和感を覚えるが、この夢物語を、掲げる人々は、教育の万能性を、訴える人々であり、基本とすべき根拠が、既に崩れていることから、改革の話自体の進め方を、考え直す必要がある。にも拘わらず、物事を、客観的かつ、正しく理解できない人々は、連中の世迷い言に、惑わされているのだろう。改めて、総合的な力とは、どんなものか、と考えてみると、細々とした事柄が、並ぶだけで、数多ある要素を、測る手立てが、見つからないことに、気付かされる。これは、決して、限られた選択から、正しい答えを、選び出すことと、正解を、正しく書き表すことの、違いではない。選ぶ行為も、表現する行為も、所詮、自らの知識から、正しいものへと、至る道筋を、見つける点では、何も違いがないからだ。それはまた、その時点での、知識を測るだけで、晴れて合格した後で、習うべき事柄への、適性を示したことには、ならないのだ。では、何を測るべきか。高度な知識や、複雑な関係を見極める力を、測ることよりも、もっと基本的な、考え方、そう、論理力を、見極める必要がある。その意味では、難問を解かせることは、必ずしも、妥当とは言えない。それより、もっと基本的なものを、測ることと同時に、積極性や対応力を、見極めることこそ、外れを少なくする、重要な手立てとなるのではないか。

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1月10日(金)−吉兆

 この所、懸念となっていた、個人的な事情に、一定の結論が出た。解決、と言うには、程遠い状況にあるが、それでも、前進できたことは、確かなのだ。しかし、その過程で、見えてきたのは、人々の身勝手さ、自己中心的な、考え方であり、呆れてしまった。
 自分の不見識を、棚に上げるだけでなく、それにより、招いた不都合を、責任転嫁する為に、手練手管を、弄するなどとは、恥を晒すことにしかならないが、守りに走る人間は、所詮、この程度のものなのだろう。周囲を巻き込み、自分の地位を守る為に、他人を、陥れるのは、唾棄すべき行為に、違いない。これまでにも、多くの国、多くの組織で、問題を拡大させたのは、こんな輩の暴挙であり、それを、排除できないままに、腐敗が進んだとしたら、それは、国や組織が、抱えている問題となる。この悪夢を、一掃する為に、必要なことは、一人一人の考え方を、改めることで、権力に与したり、利に走ったり、自己都合を、優先することを止め、組織の利益を、優先する必要がある。一見、他人の利益を、求める為に、自分の利益を、捨て去ることに、思えるようだが、組織の利益が、自分に戻ってくることに、考えが到れば、当然のことと、思えてくるに違いない。もっと重要なことは、利益ばかりを、追い求めていては、本当に大切なことを、見失いかねない、ということだろう。腐敗や不正を、正すことも、重要なことだが、それより、様々な事情により、衰退を続けている組織を、どう改革していくかが、もっと重要となる。特に、時代を含めた、環境要因により、課題や問題が、山積みとなっている組織は、世の中に、数多ある訳で、それらを、解決する為に、必要なことの多くは、時に、一部の人間にとり、不都合となることを、認めた上で、進めるべきなのだ。今回の懸念は、その一つを、解決する為の手立てを、講じることが、引き起こしたものだけに、限定的とはいえ、日の目を見たのは、兆しの一つとなる。

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1月9日(木)−側近の罪

 衰退期に入り、様々な不正が、暴かれているが、実は、今に始まったことでは、ないだろう。成長期にも、同じか、更に大きな不正が、行われていたが、その結果かどうかに関わらず、成長が続くことで、強い批判は、起きなかった。不正の主は、罰せられたとしても。
 こういう場面では、社会情勢が、大きく影響する。成長期では、上を見るだけで、足元を見る暇がない。一方、衰退期になると、後ろを振り返り、下ばかりを見つめるから、悪いことには、厳しい批判が、浴びせられる。更に、厳罰を求める声も、大きくなりがちだ。しかし、どちらの場合でも、不正は不正であり、結果がどうあれ、正当化は、できる筈もない。にも拘わらず、不正の主達は、成長が、まるで、自らの手柄のように、自慢げに話す。保釈中の、海外逃亡という、稀代の犯罪を、犯した人間も、嘗ての栄光を、殊更に自慢し、敵対勢力を、批判しているが、罪深い人間が、情けない姿を、晒すだけで、社会的な信頼は、地に堕ちたと言うべきで、ナチスの残党と、変わらないようにさえ、思えてくる。有り余る資産を、保有する人間が、自らの考えを法律として、持論を展開する姿は、差別社会を、問題視する時代には、巨悪としか、見えてこない。権力を有し、組織を動かす力を、持つ人間にとって、最も重要なことは、自分のことではなく、組織のことであり、それも、社会の中での存在として、どうあるべきか、という点にある。成長期だろうが、衰退期だろうが、いつの時代も、どんな情勢下でも、あるべき姿に、何ら違いがないことは、明白に違いない。だが、その中で、身勝手に振る舞い、好き勝手なことを、押し通す人間が、君臨するのは、何故なのか。そこには、巨悪だけでなく、取り巻きの問題が、あることに、皆が気付かねばならない。

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1月8日(水)−塵捨て

 大人の身勝手に、腹を立てているのは、若者だけではない。同じ大人達が、好き勝手に振る舞い、私利私欲に走る連中に、強い怒りを覚えている。特に、何もしない人間より、悪事を働きながら、それまでに手に入れた、地位や力を利用して、正当化する輩に。
 何時の時代にも、こんな連中が、組織の中枢で、大きな顔をしていた。地位さえ手に入れれば、横暴だろうが、横車だろうが、好き勝手に、行うことができるからだ。彼らの一部は、度が過ぎたせいもあり、追い落とされたようだが、大多数は、依然として、我が物顔で、振舞っている。人気を誇った宰相に、取り入ったと、何度も指摘された、ある新興企業の社長は、退任後も、先日の大企業の集まる新年会で、取材されていたし、同様に、気に入られていた、業績のない経済学者も、その後、大学を渡り歩き、各地で、高額を集める講演会で、話しているようだ。彼らの「悪事」は、あくまでも、印象に過ぎず、違法行為として、扱われていない。こんな悪者達が、まるで小物のように映る、年末の逃亡劇の主役も、持て囃された頃から、的外れの経営計画や、翳りの見え始めた企業から、搾取を繰り返す姿勢に、批判が集まっていた。こんな悪業は、枚挙に暇がないが、身近にも、そんな連中が、のさばっている。彼らも、役に立たないばかりか、百害あって一利なし、となっている。それでも、私利私欲だけは、人並み以上に持ち合わせ、それを確保しようと、躍起になっている。この状況を、更に悪化させるのは、上に書いた連中と同じで、自らを、正当化することに、躍起になり、責任転嫁を続け、他人を蹴落とそうと、策を弄することで、組織全体を、機能不全に、陥れるからだ。小物だろうが、大物だろうが、社会にとって、不要に過ぎず、塵として、捨てるしかない。

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1月7日(火)−代替機

 一つのことしかできない。機械を馬鹿にする、表現の一つだった。が、今は、どうか。人間に対して、この表現が、使われることが、増えているようだ。それが、更に、度を増すと、何もできない、などと批判される。弱い、無能な人間に、使ってはいけないのだが。
 一つのことを、確実にこなすのが、機械の特徴であり、特長だった。たった一つでも、間違いなく、確実に、達成できれば、機械としての役割を、果たしたことになった。その状況に、変化が現れたのは、制御の仕組みの改良だろう。それを実現したのは、単純に、計算を行うだけの装置が、並列化され、多数の作業を、同時に行う仕組みが、作られたからだ。単一の作業から、複数の作業へと、機能が向上することで、一つを確実に、というやり方から、複数を全て確実に、というやり方へと、大きな変化が起きた。それが、機械の制御装置に、導入されることで、複雑な作業を、円滑に、そして確実に、行うことが、可能となった。その頃から、機械にも劣る、と批判される人間が、目につくようになった。単純作業は、単純な頭でも、行えるとする考え方は、大きな間違いで、単純作業でも、毎回、同じことが、繰り返されるとは、限らないから、その時その時で、少しずつ、変化させる必要が、出てくる。考えていないようで、実は、状況を把握し、違いに応じて、作業を変化させているのだ。そこに、人間の対応力が、発揮されると言われたが、それさえ出来ない人間が、現場に登場すると、困惑が広がったものだ。それでも、単純作業を、そつなくこなす人間を、育成することが、教育の役割とされ、力が注がれてきた。だが、何度も書いているように、それさえ出来ず、社会のお荷物となる、人間が、現れてきた。機械は、と目を移すと、学習能力を備え、対応力を獲得する仕組みが、作られ始め、更に、能力の向上が、見られる。このままでは、単純作業も、簡単な対応も、人間の出る幕が、無くなりそうだ。でも、どんな能力が必要か、見えているのではないか。

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1月6日(月)−不思議

 世の中の流れを、何気なく、眺めていると、ふと気付くことがある。大切なことも、中には、あるけれども、多くは、たわいもない、小さなことだ。それでも、気になるのは、何故だろうか。小さなこととは言え、何か、大切なことが、含まれているのかも。
 力と力のぶつかり合い、競技であれば、それを眺めるのも、楽しみの一つとなる。だが、それが、国と国の間の、戦いとなると、物騒な話だし、長く続いた、平和で安定した時代には、不穏な動きとなる。同じ根をもつと言われる、宗教の間での、啀み合いは、長い歴史の中で、途絶えることなく、続いてきた。特に、西洋と東洋との違い、の如くに、文化の違いと相俟って、溝が深まるばかりで、妥協点など、見つかる筈もない。だからと言って、宗教間の啀み合いが、国の間の争いへと、結び付いてしまうと、それは、二国間では収まらず、多国間の戦い、つまり、世界戦争へと、繋がってしまう。その懸念が、漂い始める中で、軍人を殺害された国は、報復措置に走る、と触れを出して、周辺国も含め、攻撃を行った国も、警戒を厳しくしている。その騒ぎの中で、件の国の中では、喪に服すると共に、まるで、故人を神格化するかの如く、人々は、彼の写真を掲げて、何かを訴える姿が、全世界に伝えられている。ここで、不思議に映ったのは、あの宗教の教えの一つ、偶像崇拝の禁止と、どう折り合いをつけているのか、という点だ。この国でさえ、外国人の子供が、学校に通う中、図工の時間に、親や友達の、絵を描くことさえ、できないと訴えるのと、この写真には、大きな矛盾が、感じられる。宗教のことは、何一つ理解できないから、宗派の違いや、教義への帰依も、全く理解できない。がしかし、あれ程強調され、他国で、異教徒としてでも、押し切ろうという姿勢と、この状況は、矛盾なく説明できるのか。所詮、他人事に過ぎず、どうでもいいことなのだが、強硬な姿勢が示されると、更に、理解に苦しむ。

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