不安や心配を、口にする人々に、安心させる言葉を、与えることが、近年の常のようだ。それも、最近ではなく、随分昔から、同じことが、行われている。違いがあるとすれば、叱責したり、厳しく批判することが、減り続けた結果、優しさばかりが、残ったことか。
その原因の一つは、平和な時代が、続いたことだろう。変動が起きれば、不安や心配は、当然のものであり、誰もが、その渦中にあるから、他人への気遣いなど、殆ど起きることがない。しかし、安定していれば、誰かが、悩みに沈めば、労りの言葉を、与える余裕もある。一見、穏やかな社会に、思えるようだが、おかしいと思うことの方が、遥かに多い。例えば、今一番の話題である、受験に関しても、報道の論調には、今も昔も、強い違和感を覚える。不幸な人間に、温かい言葉を、かけることで、満足を得ているのでは、と思えるような調子は、如何にも思慮に欠けるもので、特に、その時期の大変さを、殊更に強調する姿勢には、誠実さや冷静さが、全く感じられない。辛い時期を、訴えたくなる気持ちは、誰にもあるが、それを乗り越えねば、次の段階に、進めないとなれば、頑張るしかない。それを、労いや救いの言葉で、支えようとするのは、単純に、自立を妨げるだけで、文字通り、余計なお世話でしかない。大変なのは、今も昔も、同じままであり、時には、楽になっていても、それに気付かず、悲鳴を上げる人が居る。これは、実態を正しく伝えず、苦しみだけを、強調しようとする、人々の責任であり、彼らに乗せられ、現実を直視しようとしない、人間達の問題なのだ。一つ一つの課題を、解決していくことで、成長する筈が、それらを取り除き、甘やかすような風潮では、社会が衰退し続けるのも、当然のことだろう。激動という外圧が、必要なのではないか、という話も、そんな所から来る。だが、自身で解決せねば、駄目なのではないか。
受験生の苦労が、盛んに取り上げられ、問題が指摘されるが、彼らが進む道に関して、目を向けないのは、何故だろうか。現場での教育法を、取り上げても、肝心の器の老朽化が、深刻となっては、教え育むことが、続けられないのに。そんな指摘も、一蹴される。
大きな大学では、新しい建物が、盛んに建設されている。老朽化については、解決法が、施されている、と見えるが、現実には、じわじわと、厳しさが増している、と言われる。それは、それに向けるべき予算が、毎年、百分の一ずつ、減らされているからだ。大したことはない、との主張も聞こえるが、金融機関に預けた時の、利率を考えれば、恐ろしく大きな割合であることに、気付ける筈だ。にも拘わらず、それを、過小評価させるのは、国の予算を牛耳る、あの役所の深謀遠慮の為、なのだ。だが、金勘定しか考えられず、本当の謀を、進めたことのない連中の考えが、役に立つ筈もないことは、火を見るよりも明らか、ではないか。実は、この裏で、もう一つの、不思議が罷り通っていることは、殆ど意識されていない。それは、大学での教育にかかる経費、それも、学生が払うべき授業料、と呼ばれるものに関してである。ある時代、盛んに値上げが続き、ひと昔の年額が、ひと月分にしかならず、愕然としたという話は、今の人々には、戯言のようにしか、聞こえない。その後、現在の額に落ち着き、それは、かなり長い期間、据え置かれている。国立のものでさえ、法人という格を押し付けられ、一方で、独自経営の自由が、与えられたと伝えられたが、実際には、国の税収と同様に、見えない束縛がされ、独自の額の算定さえ、できない状況に縛られている。その中で、一度国庫に入ったものは、ある処理の後に、配分されており、それが減額され続ける。こんな馬鹿げた仕組みが、罷り通ることに、世論が高まる気配は、全く見えない。税と同様、今以上に荷物を負わされるのは、御免と思うからだ。しかし、このままでは、袋小路に、追い込まれる。どうする。
先行きへの不安は、様々な方面で、取り沙汰されている。心配性が、その背景にあるとは言え、不安が、現実になり始めると、楽観視していた人まで、引き込まれてしまう。だが、単なる心配ではなく、誤った方策によって、導かれたものには、犯人が居るのだ。
政策の過ちは、これまで、枚挙の暇が無い程、犯されてきたが、今も、多くの失敗が、続けられている。根本にあるのは、好ましいと思われたいという、人気取りの考えで、それにより、悪化の一途を辿る中、打開策を講じることなく、悪影響の及ぶ範囲が、広がる一方となっている。そんなことが、本当にあるのか、と思う人も居るが、国の借金生活に、懸念を抱く一方で、税収を増やす為の方策は、全く講じられていない。消費税こそ、その打開策の目玉、と思う人が、居るかもしれないが、景気の波に、振り回され、不安定な状況に、一喜一憂しなければならず、根本解決とは、ならない。一方で、所得そのものに、かけられる税については、景気の上下に、惑わされる心配は、少なくなる。しかし、毟り取るかのような、仕組みに対しては、強い拒絶の態度が、人気を左右することとなり、政権を譲らざるを得ない、事態に陥りかねない。となれば、優しい表情で、別の毟り取りを、実施するしかなく、それも、十分な税収を、確保できないまま、となっている。あらゆる方面で、しわ寄せは、深刻となっているが、例えば、科学立国という、この国の誇りでさえ、近年は、崩れ始めたと言われ、深刻な数値が、毎年のように発表される。だが、役人達は、研究費は、確保されている、と主張し、確かに、その数値は、ある水準が、保たれている。実は、その誤魔化しに、社会は騙されているのだ。研究費という括りでは、一見保たれているようだが、役人が定めたものは、ふた昔ほど前とは、異なっている。人材育成には、教育費であり、研究費とは別、とされるが、科学立国を支えるのは、人材であることを思えば、その過誤に、気付けるだろう。大学への交付金が、減らされ続けていることは、研究費とは無関係、という考えが、如何に愚かなものか、木っ端役人が、気付ける筈も無い。
博打という言葉は、使うことが、憚られる。賭け事に、どっぷりと浸かる姿は、嘗て流行った時代劇で、盛んに取り上げられていた。それらの主人公の多くは、男優も女優も、既に鬼籍に入り、たまに放映されるが、その後の活躍とは、全く違う役柄を、演じていた。
時代劇では、博徒と呼ばれていたが、近代劇では、ヤクザとなった。これは、今の社会で、反社会勢力の核をなす、暴力団とは、全く異なる存在、と言われる。地元に根付き、揉め事の解決を、役割の一つ、としていた人達と、外から入り、金を掠め取る連中とは、人種が違う、と言われるのだ。今では、博打も賭博も、違法行為とされ、厳しく禁じられているから、一攫千金を狙う行為も、カタカナで表され、公の管理しか、認められていない。それを、更に、アルファベットで表すことで、金に惑わされ、道を外すこととは、異なるものかの如く、装うやり方に、改めて、批判が集まり始めた。しかし、公営のものでも、その運営は、徐々に厳しくなりつつあり、特に、地方競馬と呼ばれるものでは、既に、多くの地方で、廃止されている。広大な土地を、必要とするものだけに、廃止後の、土地活用に関して、注目が集まった。首都圏の隅で、隣県同士、維持されてきた所も、同じ時期に、廃止が決定された。元々、有名な侠客が居て、創作でも、長い楊枝を咥えた姿で、一世を風靡した時代劇の、舞台となった土地柄では、三つの競馬場が、あったのだが、それらが全て、廃止となった。その後、一つには、病院が作られ、中心部で、狭隘問題が、深刻化していたが、移転で一気に、解決したと言われる。もう一つは、会議施設が建設中だが、利用率などの問題が、取り沙汰されている。最後は、運動施設となるらしいが、これも、活用法の問題が、あるようだ。三者三様の展開だが、公的なものだけに、失敗が許されないご時世なのだ。それは、IRと名付けられたものでも、同じことだが。
適応力や対応力の減退は、何も、若年層に限った、問題ではない。特に、著しいのは、中堅層で、これから、更なる上を目指す、という意味では、これらの力が、更に重要となると思われる。にも拘わらず、従来通りを望み、同じことを、繰り返そうとしている。
成長期には、それでも、問題は起きなかった。だから、自分達も、同じままで、と望む訳だが、今は、衰退期にあり、打開の為の方策を、講じる必要が、取り沙汰されている。だが、次代を担う若者達同様、次の指導者たる人々には、現状維持が優先となり、ある意味、保身に走る姿勢が、際立っている。ただ、これは、今に始まったことではなく、昔から、同じような状況が続いている。成長期には、傾向と対策に基づき、筋書き通りに、無難に事を為す人に、評価が集まったこともあり、衰退期に入っても、同じことが繰り返される。だが、状況は、悪化の一途を辿り、折角手に入れた地位も、以前程の輝きを、保っていない。その為か、出世欲もまた、かなりの勢いで、減退し続けている。地位が、人を作るとは、昔はよく言われたことだが、最近は、地位は、面倒なものとまで、言い出す人が居る。責任を負わされ、それに見合う利益が、上がらない為だが、相応の実績を、上げられなければ、当然のことだろう。この辺りの考え方も、被害者意識と似ており、負の連鎖とも思える、道筋を、滑り落ちているように見える。目の前の現実は、深刻なものに映るが、当人達に、その意識はない。力不足でも、自分は、確かに対応しており、新たな環境にも、適応できる筈だと、主張する。しかし、彼らの思いは、行き届かず、全てを曝け出すことで、潜在力への期待を、消失させてしまう。力不足も、深刻なのだが、それ以上に深刻なのは、状況判断の欠如なのだろう。これでは、地位に就かせても、何も起こらない。
被害者意識の広まりに、懸念を抱く人が居る反面、その勢いに合わせて、利益を得ようと、躍起になる人が居る。その表れの一つが、弱者保護の考え方であり、社会的に優位に立つ者が、全体を見渡して、その考えに至る、従来の方式ではなく、弱者同士のものだ。
つまり、社会的に冷遇される人間が、それぞれが抱える問題点を、互いに指摘することで、問題解決に、繋げようとするもので、社会への訴えを、高めるものと受け止められる。だが、この考え方には、大きな欠陥が、あるように思える。互いに、傷を舐め合う関係では、切磋琢磨は生まれず、現状維持の中で、救いを求めてしまう。これでは、解決する為の努力が、疎かとなるだけでなく、維持が精一杯で、衰退へと繋がり兼ねない。社会情勢が、衰退に入った頃から、この考え方が、台頭し始めたが、その問題点を指摘することは、弱者に鞭を振るうような、暴挙の如く受け取られ、折角の指摘が、逆効果となってきた。だが、それが、長く続いてくると、弱い者は、救われるべき、という考えが、当然のように扱われ、結果として、自らの努力は、無駄でしかない、という馬鹿げた考えさえ、当然と受け取られる。これでは、成長に戻るどころか、衰退の勢いを、増すだけとなる。これが、よく表れている、現場での問題は、適応力や対応力という、相手に応じて、こちらのやり方を、変える能力そのものが、失われていることで、若い世代における、これらの能力の欠如が、社会問題となっている。力を養う為の、鍛え方ばかりに、注目が集まるが、気持ちや姿勢の問題として、上に挙げたことが、あるとすれば、まずは、そこから変える必要が、あるのではないか。貧しくても、努力すれば、ということも、当然の成り行きだが、それより大きいのは、貧しさに合わせた、生活を送ることであり、分相応や身の丈に合わせる、という考えが、失われていることだ。
社会全体を、覆い尽くしている、被害者意識は、何故、広まったのか。ある世代が、長年に渡り、訴え続けたことが、原因の一つだと思う。だが、それを、支えるような動きを、彼らの上の世代が、主導していたことの方が、遥かに大きな影響を、及ぼしたのだ。
数の論理、と見做される動きは、実は、一部の人間達の、利益追求の結果、だったとしたら、どうだろう。あの世代が、最高学府に進んだ頃、歪みは、最高潮に達したと言われ、それが、大規模な紛争に、繋がったと言われるが、実は、その端緒となったのは、全く別の出来事であり、渦中の世代は、団塊世代の上の、戦中に生まれた世代、と言われている。彼らの中心となったのは、大戦が始まる前に、生まれた人々で、戦後の復興を、支えた世代の、跡を継ぐと目された人達だ。しかし、戦後復興では、核となる世代が、失われた後で、若い人々が、中心となって、活躍したのに対し、彼らが、地位を築き、成長を確かなものとした後では、次代を担う人々の、活躍の場は、残っていないと見えたようだ。そこで、一部の人間が、機会を得ようとして、下の世代を扇動した、と見る向きもある。あの混乱により、折角築いた仕組みを、壊されてしまった人や、長い停滞に陥った人も、居たらしい。本当なら、彼らこそが、被害者と呼ばれるべきだが、「体制」を糾弾する人々の、数の論理に、覆い隠され、更には、紛争を起こした人々こそが、被害者であるとの印象を、社会に植え付けてきた。その後も、同じ手法が、何度も使われ、その度に、団塊の人々が、被害者として、登場した。がしかし、その結果として、利益を得たのは、実は、その上に居た世代であり、油揚を攫っていったのだ。今も、若い人々が、被害者意識を、強く持つようだが、ただ、踊らされているに過ぎず、陰で、利を得る人々が、居ることに、気付くべきだろう。自分達にとって、必要なことを、見つけ出す為にも。