パンチの独り言

(1月20日〜1月26日)
(選択肢、バレた、無知蒙昧、拡散防止、説明責任、ながら禁止、便利?)



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1月26日(日)−便利?

 便利を売りにし、それを名称にした業態が、登場した時、何を感じただろう。それらが、設置された、都会に住む人は兎も角、田舎の人々は、何が特別なのか、と首を傾げたのではないか。店の数が少ない、田舎では、何でも売る店は、萬屋として、当たり前だったから。
 だが、その後の展開は、田舎にとっても、都会にとっても、意外なものだった。次々に開店する、新業態の店は、何でも揃うだけでなく、便利さの為に、当初の、朝から晩まで、ではなく、四六時中、開くようになったからだ。田舎では、過疎化が急速に進み、萬屋を継ぐ人が現れず、客の数も、激減していった。ところが、その段階を過ぎると、突然、何も無い国道沿いに、夜中も、煌々と明かりが灯る、新しい店が、登場した。どれもこれも、便利さの追求が、大元にあったのだろうが、それを当然とする世代が、主体となるに連れ、過剰な数の店舗も、便利の為との一言で、要求されていたようだ。だが、その波が、急激な変化を起こしたのは、客ではなく、経営者の考えの、変化からだった。誰も来ない時間に、煌々と灯りをつけ、店番を続けることも、その為に、人を雇うことも、無駄と思えてきたからだ。一方で、客の要求は、止まる所を知らず、それに応えることを、至上命令として、指令を送るだけの本部に、嫌気を催したのは、経営者だけでなく、社会全体の空気も、大きく変わった。便利の意味を、真剣に考えるべき、という風潮は、今後、どう変化するのか、見ていく必要がある。だが、そんな存在を、殆ど使わない人間には、ある意味、どうでもいいことだ。偶に訪れると、驚かされるのは、常識が通じないことだろうか。先日も、尿意を催す中で、便所を利用しようと、訪れた店で、ガムを買ったら、購買済みの印として、包み紙にテープを貼られた。それも、包装を解く為に、設けられた、テープの上に、だった。中年の女性が、行ったことだけに、その非常識に、呆れたものだ。こんな社会で、便利の要求は、極端になる。

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1月25日(土)−ながら禁止

 ながら、の禁止が、話題になっている。重大な事故の、原因となる事例が、数多く紹介されるが、常識を疑う行為に、驚きどころか、呆れるしかない。免許を得て、特別な資格の下、運転行為を行うという、自覚は微塵もなく、死亡事故を招いた原因は、遊びだった。
 車の運転は、免許の取得で、教習所に、通い始めた頃を、思い出してみれば、複雑で難しいと、理解できる筈だ。だが、そんな記憶は、あっという間に、抹消されるようで、本来なら、集中せねばならない場面も、片手間どころか、他事に、目を奪われ、重大事故へと、繋がってしまった。こんな事故が、日常的となり、防止手段が講じられると、ながら行為は、全面禁止となり、罰則の強化が行われた。となれば、少なくなるかと言えば、そうでもないらしい。すれ違う車の中では、目の前に掲げた危機を、見つめ続ける運転者の姿は、相変わらず度々見かける。その一方で、別の弊害が、出始めたのでは、と思えることも、屡々経験する。信号待ちで、前方の信号が青に変わっても、一向に、進まぬ前の車の運転者は、下や横を向いておらず、前方を見つめているように、頭の位置はあるが、どうも、別のものを、見ているようだ。すれ違う信号待ちの車でも、同じことが起きており、やはり、手元の機器を見つめている。これは、交通法では、違法行為とは書かれておらず、停車中の行為は、問題なしとの説明がある。だが、交通の妨げとなり、事故を、誘発しかねないと考えれば、これもまた、問題行為と見做すべきだろう。だったら、それも、と思う人が居るだろうが、この調子で、禁止行為を列挙して、大丈夫かとも思える。行儀で、片付けるべきことも、指摘されないと、理解できない時代に、果たして、どう対処すべきか。難しい問題とせず、自分達で解決しないと、面倒なことになりそうだ。

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1月24日(金)−説明責任

 一年に満たない間に、二度、身内の死に、接することとなった。高齢だったから、ある意味、静かに死を迎えることに、なったのだが、それぞれに、残された人々には、思いがあっただろう。特に、近年、話題となっている、医療行為に関して、首を傾げることがある。
 尊厳死、という言葉が、屡々使われ、生き長らえることに関して、様々な意見が、出されている。医療行為が、命を永らえさせることだけに、注目される中、ある時期から、異なる見方が、紹介されている。医療機械に繋がれ、多くの管を、体に差し込まれ、その中で、患者の意思は、確かめられることなく、命は、確かに続いている。だが、本人の意思を、尊重すべきという考えが、大きく取り上げられるに従い、これらの行為は、個人の尊厳を、踏みにじることに、繋がるのではないか、という指摘が、度々なされてきた。そこで、意思確認を、健康な内に行い、場合によっては、家族の同意も得て、延命措置を行うかを、決めようとする動きが、起こってきた。今では、多くの医療関係者が、その手続きを行い、意思確認の上で、治療方針を決める、というやり方が、行われている、と言われている。しかし、現場では、患者の家族と、医療関係者の間で、意思の疎通が、十分になされていない、という事例が、数多く出ているようだ。元々、病名宣告をはじめとして、医師からの説明が、十分でないことが、度々、指摘されてきた。その中で、命を左右する決断が、十分な説明のないままに、行われている、というのだ。今回の件でも、それに近いと思えることが、起きていた。延命措置に関して、決断を迫るだけで、その中にある、選択肢に関して、十分に説明せず、その上、不十分な確認の中で、全ての措置の中止が、決められたという。このような状況で、措置の中止を、議論することは、現場を無視したり、現場の理解が、及ばないことへと、繋がるのではないか。それが、命を左右することだけに、気掛かりが残る。

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1月23日(木)−拡散防止

 情報統制に、躍起になっているが、果たして、巧くいっているのか。外国制作の番組でさえ、画面全体が、暗黒となり、不都合な情報を、遮断する程だが、抜け道は、幾らでもある、とも言われている。だが、独裁化が進むにつれ、その状況は、悪化しているようだ。
 そこでも、経験に学ぶべきことは、数々あるが、懲りない態度で、失敗を繰り返す。個人のことなら、ただ、それだけのことで、済んでしまうが、国の行く末を、左右しかねない、となれば、安閑としては、いられないのだろう。あれこれと、新たな手立てを講じるが、何とも、情けない状態が、続いているようだ。一つの国、という拘りは、それまでの歴史さえ、無視するように、極端な対応で、押し切ろうとするが、巧くいきそうにない。となれば、更なる統制に、期待を込めるしか、望みはなさそうに、思えているようだ。そんな中で、情報の拡散どころか、命の危険さえ、及ぼしかねない、感染症の拡散に、過去の経験は、ここでも、活かされなかったらしい。情報同様、目に見えない病原体を、封じ込めることは、簡単ではない。特に、交通網が整備され、以前とは比べられぬほど、人の行き来が、盛んになると、街どころか、国の単位でさえ、封じ込めることは、達成できず、感染拡大は、隠し切れないどころか、各所で発覚するに至り、前回の不手際と、同じ経過を辿りつつある。ここまで来ると、封じ込めは、意味を成さず、病状の悪化を、食い止める手立てを、講じる必要が、出てきている。となれば、前回のような悲劇を、避ける手立ては、人間の力の及ばぬ範囲に、至ってしまう。それは、結局、病原体の威力が、これ以上、強まらないことを、願うのみとなる。流石に、国や世界をあげて、神に祈る訳にもいかず、状況を眺めるのみだが、さて、どんな展開となるのか。

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1月22日(水)−無知蒙昧

 二極化の時代だろうか。極端な政策を、断行する指導者が、君臨する中で、国民は、両極端の反応を示す。確かに、一部の人々は、それにより、利益を得るが、その他は、蚊帳の外となる。それに、一貫性のない極端さは、ある日の利益が、翌日には損失、となる。
 それでも、分かり易さに走れば、結果的に、極論に飛び付く。それが、濡れ手に粟となれば、思い通りに、事が運ぶだろうが、裏目に出れば、悲惨な結末に、陥りかねない。だが、大元にあるのは、理解するための努力を、惜しんだり、人気に振り回されたり、まさに、自己責任の問題なのだ。ところが、結果が悪くなると、突然、責任転嫁が始まる。所詮、身勝手なものだが、これが、社会情勢の行方を、決めているとしたら、どうだろうか。但し、この話は、指導者に関するものとは限らず、世論の中で、取り上げられるものにも、及んでいる。最近も、世界の政治家や指導者を、徹底的に批判することで、強い支持を得ている活動家に、注目が集まっている。若い女性、というより、本当なら、ほんの子供に過ぎない、と片付けられそうな人物だが、何やら、凄まじい程の支援を、得ていると伝えられる。更に、この状況を、強めているのは、報道関係が、絶賛していることだろう。話の一部しか伝わらず、何が真意なのか、殆ど見えていないが、大人の身勝手を、厳しく批判する姿に、強い共感を抱いているらしい。だが、冷静に眺めるに、同じことを、繰り返し話すだけで、中身のないことに、変化が起きないように思える。特に、絶賛が続けば続く程、自らの権利主張が、強まり続け、そこには、彼女の批判の対象となる、大人達の身勝手と、酷似するものが並ぶ。異常さは、誰も、それを指摘せず、依然として、賛美の言葉を、並べることで、社会全体に、無知が蔓延してしまった、と思えてくる。

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1月21日(火)−バレた

 発覚しなければ、問題ない。有り体に言えば、バレなければ、不正も問題ない、ということだ。こんな風潮が、社会に溢れていることに、憂慮を表す人が、居る一方で、時には、正しい結果を導けば、不正も致し方なし、とする人が居る。必要悪、ということらしい。
 だが、どんな言い訳を考えても、間違いは間違いであり、罰を受ける必要がある。国外脱出という、暴挙を犯した人間は、どんな言い訳を、並べたとしても、所詮、犯した罪が、無くなる訳ではない。それを、国による違いと結び付けても、利益を得た場所で、罪を犯したと認定されれば、それ以外の答えは、あり得ないのだ。ただ、最近の風潮の中で、愚の骨頂としか見えない、身勝手な論理を、展開する人々は、こんな時にも、訳知り顔で、擁護の言葉を並べ、人権なるものを、押し付けてくる。その愚かさには、呆れるばかりだが、こんな主張でも、発言権が得られ、大袈裟に取り上げられるのが、情報化社会の難点なのだ。入試においても、不正行為に対し、厳しい罰則が、設けられている。その中で、どうせバレないだろう、という思いで、不正を行った人間に、当然ながら、罰が与えられた。それに対して、愚かな意見を、発信した人が、案の定、現れた。曰く、不正を未然に防ぐ手立てを、講じていれば、この悲劇は、避けられた、ということだ。不正を行わせたのは、社会が悪いから、という論理は、以前から、一部の狂った人々が、好んで使うものだが、彼らの多くは、自分が受けた被害に対し、激烈な調子で、訴え続ける。これもまた、狂った被害者意識の一つであり、その仲間を、見つけたことによる、暴言の一つなのだ。罰を与えずに、人を矯正することが、社会の役割という意見は、人権派が、屡々持ち出すものだが、所詮、身勝手なものに過ぎない。この発言者は、次々に意見を並べていたが、殆ど全てが、無知に基づき、恥を晒すもので、無価値でしかない。こんなものが、並んでしまうのが、情報化社会なのだ。

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1月20日(月)−選択肢

 やれ問題解決能力だ、とか、やれ問題発見能力だ、とか、人材には、どの能力が必要なのか、盛んに議論されてきた。だが、言葉では、表現できても、それぞれが、どのような能力なのか、見えていないようだ。それとも、見えていても、測ることができないのか。
 何れにしても、傾向と対策の時代には、何を、身に付ければいいのか、絞り込んで、それを鍛えることが、成功へと結び付く、となる。だが、現場では、ただ漫然と、教科書に載る事実を、丸暗記させることが、続いている。その理由は、対策であり、試験で出される設問が、選択肢によるもの、だからと言われる。考えることなく、差し出された選択肢から、最適なものを、選び出せばよい、となる。その影響が、人材育成にまで及び、問題を解決する能力も、発見する能力も、不足している、と言われている。本当に、そうなのだろうか。確かに、選択肢が5つあれば、出鱈目に選んでも、20%の確率で、正解となる。だから、正しい評価とは、ならないとする、考え方には、大きな欠陥がある。この試験制度では、少なくとも50%より高い得点が、要求され、無作為選択では、通用しないからだ。かと言って、丸暗記こそが、全てとなる訳ではない。たとえ、覚えていなくとも、限られた選択肢の中から、最適を推測できる、場合があるからだ。実は、問題解決にせよ、問題発見にせよ、何も無い状態から、行う訳ではなく、そこに並ぶ、前例や類似例から、解決の道や問題そのものを、見つける能力が、必要となる。試験の方式が、丸暗記に有利に働くとはいえ、完璧な場合を除き、大部分は、そういう能力の結果となる。長年続いた方式は、当初の、丸暗記有利の状況から、思考力や推察力でも、対応できるものへと、変貌を続けてきた。今、改善と称して、進められている変更は、確かに、目的を持ったものだが、本質を理解せずに、方式だけを変えても、実をとることは、できそうにない。

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