パンチの独り言

(1月27日〜2月2日)
(隗より始めよ、後手後手、再登場、業務不履行、楽観に過ぎる、言葉遣い、要約力)



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2月2日(日)−要約力

 老人の話が長いと、老害などと揶揄されるが、話が長いのは、老人に限ったことではない。老いも若いも、ダラダラと続く話に、辟易とすることが、多いのだ。ただ、長い話が、悪いのではない。筋が見えず、終わりが見えない話には、ついていけないだけなのだ。
 こうなると、また、論理の話か、と思われるだろうが、それだけではない。話の筋を、組み立てることが、大切なのは、当然のことだが、それでも、長くなると、聞き続けることが、難しくなる。では、どうすればいいのか。長過ぎるのなら、短くすればいい。ただ、それだけのことだが、簡単なことではない。特に、挨拶程度のものなら、一言や二言で、事が済むのかもしれないが、内容を正しく伝えねばならず、その一方で、時間が限られる場合、ある能力が、必要となってくる。単純に、短くすればいいのではなく、話の内容を、掻い摘んで、正しく伝える必要があるのだ。学校に通った頃、時々、課題とされていた、要約を作ることが、重要となる。長い文章を、限られた文字数で、書き表す。それを、要約と呼ぶのだが、書き表す文章だけでなく、話す言葉においても、同じことが、必要となってくる。そこでは、単に、単語を並べるのではなく、論理性を保てるように、言葉を並べる必要がある。難しく思えるが、実は、そうでもない。文章要約でやっていたことと、ほぼ同じことを、やればいいのだ。だが、何故だか、文章なら、書きながら、削ればいいことが、そうはいかない。目の前に並べ、そこから削り取る作業は、問題なく行えるのに、話となると、全く違ってくる。当たり前のことで、口から出たものを、あとで消すことなど、できる筈もないからだ。そこでは、削る作業を、頭の中で、行う必要がある。実際は、逆の作業で、肝心な言葉を、思い浮かべつつ、それを、論理的かつ簡潔に、繋げていく作業となる。こんな力を、鍛えねばならない。

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2月1日(土)−言葉遣い

 言葉の大切さを感じるのは、どんな時だろう。相手に、話が通じない時、苛々が高じたり、焦ってみたり、窮することとなる。考えが、異なることも、多々あるのだが、時には、単純に、自分や相手の言葉の意味が、互いに異なり、誤解を産んでいることがある。
 何故、擦れ違うのか、と悩んだ末に、別の言葉で、試してみると、誤解が解け、先に進めることがある。何だ、そんなことか、と思うが、悩む中では、何処に問題があるのか、見えていない。そんなことから、言葉の大切さを、痛感するのだが、一部の人々は、そんな悩みも、抱かないらしい。通じなければ、相手にしなければいい。そんな考えでは、と思うことも、屡々あるが、彼らにとって、相手との意思の疎通は、重大事ではないのだろう。通じる相手だけが、仲間であり、それ以外は、外に置けばいい。そんな気持ちで、育ってきた人々は、時に、逆の扱いを受ける。話が通じないから、という理由で、排除されるのだ。先ほどまで、自分が、平気で行ってきたことを、相手から、突きつけられることに、強い反感を抱くが、これは、身勝手なものに過ぎない。自分の言葉の使い方に、何の責任も感じず、通じないのは、相手が悪いから、とするだけでは、人間的な成長を、自ら、妨げているだけなのだ。正しい使い方を知らず、誤った用法で、押し通した結果、誤解を招いたとしたら、その責任は、あくまでも、自分にある。それに気付かず、責任転嫁をして、その挙句に、相手から、拒絶されたとしたら、それこそ、自業自得に違いない。この傾向は、若者達に、特に強く現れるが、必ずしも、そうではないだろう。老若男女に関わらず、そんな人に出会うことが、時にあるが、共通しているのは、言葉を、その意味ではなく、心地良さのような、全く別の使い勝手により、選んでいることだ。言葉は、意思疎通の為にあり、それが成立してこそのものであり、自身の満足の為では、決してないのだから。

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1月31日(金)−楽観に過ぎる

 市場の動向は、将来を見通すもの、とも言われるが、その一方で、不思議な動きを、起こすこともある。今回も、感染症の拡大は、経済への悪影響が、強いものとして、多くの人が、考える反面、極端な動きを、起こさないことに、首を傾げる人が、多いようだ。
 確かに、将来を考えれば、このまま、感染拡大が続き、悲劇的な結末へと向かう、とは思いたくないし、これまでの経験から、楽観的な見方が、出てくるのも、当然と言える。しかし、今回の拡大も、関係者の慢心が、招いたものと見れば、油断大敵、と考えた方が、いいのではないか。その中で、国際機関が、重大な事態と、宣言したことに対し、市場の反応は、不思議な動きと、捉えられている。今後への備えを、怠ってはいけない、との宣言だった筈が、発せられた途端に、反発への動きを見せた、海の向こうの市場は、何を期待したのだろう。分析では、経済的な影響が、抑えられたことで、株式市場への影響も、小さくなるというだけでなく、世界第二の経済地域が、閉鎖という憂き目を、見なかったことが、好感されたとの解釈が、示されていた。所詮、後付けの解釈であり、真の理由が、明らかになることは、決してないのだが、それにしても、どんな思惑が、潜んでいるのだろうか。感染拡大は、甚大な被害を、及ぼすと考えられるが、それを抑え込む為の、手立てを持つとの自信が、こんな動向へと、繋がったのではないか。拡大そのものを、抑えるだけでなく、症状の悪化を、抑える方法にも、見通しがついたとの判断も、そこにはあるのだろう。だが、医療の発達が、どんなにあったとしても、可能か不可能かは、不確かなままだ。悲観的な空気の中で、楽観的な見方を、示すことにより、過剰反応を抑えることも、大切なことなのだが、一方で、冷静な見方を、続けることこそ、不可欠であることに、違いはない。

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1月30日(木)−業務不履行

 何を議論しているのか。誰も、不思議に思わないのか。そんなことを、感じた人は、どれ位居るものなのか。そんな疑問を抱くが、当事者達は、全く異なる考えを、持っているようだ。何より重要な事柄を、議論している、と信じて疑わず、熱弁を振るっている。
 だが、委員会の名称の頭には、予算とある。国家予算に関して、議論する為の場が、何故、過去に起きた不祥事の話で、終始しているのか。提案する政府が、信用ならぬことを、主張する為に、と質問する側は、言い出すかもしれないが、提出されているのは、補正予算案であり、桜でも、賭け事でも、一切無関係だ。にも拘わらず、一大事とばかり、攻撃の勢いを、増そうと努める。それを伝えつつ、一方で、採決が行われ、賛成多数で、成立するとの報道が、続く。提案とは、無関係な遣り取りを、繰り返した挙げ句の、採決とは、何ということか。理解不能な手続きであり、無駄としか、思えない。だが、一大事なのだから、という理由が、其処彼処で、聞かれる。だったら、政府の不正を質す為の、特別の委員会を、設置すればいい。それだけで、本来の業務を妨げず、正しい議論と判断が、できる筈なのだ。それを、本来の業務を、投げ出したまま、採決だけを行うのは、無責任極まりないことだ。何時から、こんな愚行が、続けられているのか、知る由も無いが、下らないことで、無意味なことは、明らかに違いない。そんなことさえ、気付けない程に、愚かで、無能な連中が、国の行く末を、左右する場で、闊歩しているとしたら、それこそ、金の無駄だろう。数を減らすべきとか、予算を削るべきとか、様々な批判が、浴びせられ続けているが、当事者が、自分達の処遇を決める、という仕組みでは、正しい結論が、導かれる筈もない。その上、こんな馬鹿げた遣り取りに、血道を上げるようでは、大事を任せるわけにはいかない。

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1月29日(水)−再登場

 昔、ここでも、取り上げたような気がするが、いつだったか、思い出せない。名前を書いた訳でもなく、検索で、見つかりそうにない。書いた理由は、ある会での彼女の発言だった。過激なだけでなく、無知な内容で、人の関心を買う為に、必死だったからだ。
 もう一つ、彼女の所属に、大きな問題があった。国立の研究所に属し、公の立場と、相手から解釈されるのに、無責任な発言を、繰り返していたことだ。案の定、暫くすると、退職したようだ。発言や著作との関連は、定かではないが、あのまま、あの立場を続けたら、組織にも、悪影響が及んでいただろう。特に、感染という、庶民の理解が及び難く、過激な内容に、飛び付く傾向が、高い分野だけに、組織として、見過ごす訳にも、行かなかったのではないか。その後、音沙汰が無かったが、今回の騒ぎで、突然、画面に登場した時には、はっきり言って、驚いた。それも、いつの間にか、大学教授という肩書きを手に入れ、有識者の代表として、意見を述べていたのだ。ただ、10数年前とは異なり、過激さは影を潜め、真っ当な意見を、冷静な顔付きで、述べていたようだ。成長したからなのか、それとも、別の考えの為か、知る由もないが、それ程の興味もない。一方で、件の大学は、以前から、話題性の高い教員を、雇うことで、よく知られていた。例えば、選挙の度に、独自の分析を、紹介した人物は、都内の大学から、そちらに移り、教授の座を、手に入れた。その後も、分析は続いたが、目新しさがなくなり、他の分析に、劣り始めると、画面からは姿を消した。おそらく、まだ、その席に就いているだろうが、大学の目論見には、適わぬものとなっただろう。他にも、よく似た境遇の人が、画面に登場するが、暫くすると、姿を消す。それでも、大学名は、広告よりも、浸透するだろうから、採用の意味は、大いにあるだろう。今回も、その一つで、騒ぎが続く限り、露出が続くだろうが、収束すれば、お役御免だろう。嘗ての過激さが、頭を擡げぬ限り、何とか続きそうだ。

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1月28日(火)−後手後手

 案の定、混乱は、世界中に広がりつつある。どこまで、深刻な状況になるかが、まだ、確定出来ない程、恐怖に駆られるが、だからと言って、画期的な手立ては、見つかりそうにない。感染症の恐ろしさを、煽る意見が、罷り通る程に、深刻な状態、なのかもしれない。
 情報統制が、どんな結果を招くか、今回の事例も、如実に示すものとなった。自信たっぷりに、国の状況を全て、制御できる、と思っていたに違いないが、結果は、惨憺たるものとなりつつあり、封じ込めには、国交断絶しか、ないのかもしれない、という思いさえ、漂う事態となっている。しかし、一旦、発症してしまえば、感染症の広がりは、食い止める方法が、無いとも言われている。初期段階では、症状の重さだけでなく、感染の広がり方も、大したものとは、見えなかったのだろう。新型のものとはいえ、ある系統に属すものなら、同じ手法が、適用できるとの見込みも、甘い見通しを、作り上げる要因となった。だが、結果は、予想外、想定外、どんな言葉を、並べてみても、失敗と断じるしか、方法はないように思える。今更、初期段階での判断を、悔やんでみても、何にもならない。そこが、感染症の恐ろしさなのだ。またも、同じことを、繰り返してしまった。何の学習もなされず、経験は、活かされなかった。と言っている間に、また、感染地域は広がり続け、死者の数は、増していく。感染の広がりは、輪を広げるかの如く、範囲が広がるにつれ、輪の中にある面積は、急速に増えていく。それと同じことが、今起きているのだが、これが進めば、対策が、追いつかなくなり、被害者の増加は、加速度的となる。まるで、倍々ゲームのように、とんでもない数に、達してしまう。水際作戦も、手遅れとなり、既に、世界中に広がってしまっては、通常の手法では、封じ込めはできないだろう。では、何をすればいいのか。まずは、症状を和らげる治療法を、実施するしかない。肺炎という症状に対し、これまで通りの処置を施し、様子を見る位しか、ないのだろうが。

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1月27日(月)−隗より始めよ

 受賞者の発言は、重く受け止められる。毎度繰り返されるが、どうも、懲りることなく、今回も、そうなりそうだ。だが、立場の違いから、様々な見方があり、それぞれに、どう活かすかが、肝心という話には、今回もまた、なりそうにない。何故なのだろう。
 経験を活かす、という意味では、それぞれに、異なる経験の上に、人生を歩んでいるのだから、他人は他人、自分は自分と考えれば、何事も問題にならない、と思うのだが、世間では、そうもいかないらしい。自身の生き方に関して、他人からの意見は、受け入れたくないが、成功者の話は、何かが参考になるのでは、と思うのも、人の性なのかもしれない。確かに、先人達の成功話を、参考にすることで、小さな成功を、手に入れた人も多く、それもまた、一つの方法に違いない。しかし、そればかりを、追いかけていては、自分なりの道を、開拓することは、できなくなる。では、どうすればいいのか。他人からの助言も、成功事例も、何もかも、参考にすればいいのだろう。それらをそのまま真似るのでは、自分独自の道は、築けないけれど、参考にして、様々な失敗を繰り返せば、その中から、他人とは異なる、新たな手法が、見つかるかもしれない。今回は、嘗て、国中を沸かせた、ある受賞者の話の中に、出てきたものだが、これからの人達に、期待する力は何か、という点についてだった。そこで、彼が語ったのは、人との意思の疎通が、重要との話で、ある意味、使い古された話題だった。発表力しかり、会話力しかり、論理力しかり、全てを備えて、社会に出ていければ、失敗は恐るに足らず、紆余曲折があったとしても、必ず、成功を手にすることができる、ということだろう。ある意味、当たり前のことで、今更とも思えるが、これが出てくることは、現状に、物足りなさがある為だろう。だとしたら、今一度、これらの力を養えるように、努力を積み重ねる必要がある。さて、何から始めたらいいのか。

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