パンチの独り言

(2月3日〜2月9日)
(見掛けの数字、知識重視、将来性、泡銭、垂れ流し、算える、代替)



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2月9日(日)−代替

 人工知能とか、機器を通信網に繋ぐとか、そんな仕組みに、注目が集まっている。知らない、と答える人も、AIとか、IoTと聞けば、聞いたことがある、となるだろう。Artificial Intelligence, AIと、Internet of Things, IoTである。
 どちらも電子技術の進歩が、もたらした恩恵、と呼ばれるが、本当にそうなのか、疑いの目を向ける人も、居るらしい。確かに、それまでの機械では、成し得なかったことが、実現しつつある、という点では、様々な利益が、人々に、もたらされそうだ。それ自体に、何も悪いことはない、と思う一方で、ある人々は、強い懸念を、訴え続ける。機械の進歩は、これまでにも、人間にしかできないことを、代わりに実現する、という成果を産んできた。これもまた、何も悪いことはない、と映るのだが、その人々は、置き換わることに、懸念を抱くのだ。人間でなくとも、できるのならば、わざわざ、人を雇う必要がなくなる。不景気が続く中で、働き口が、少なくなる一方で、現場では、人材確保が、難しくなっている、と言われる中では、今は仕事ができていても、こんな事態が起これば、職を失うのではないか、という懸念が、頭を擡げてくるのだ。技術の進歩を、歓迎する声の陰で、こんな懸念を訴え、弱者保護の風潮に、乗せようとする。これが、技術の発展を、妨げるのではないか、という別の懸念が、加わることで、問題は、更に複雑になりつつある。だが、この手の議論で、欠けているのは、人間の能力とは何か、という根本問題ではないか。技術の進歩と共に、能力を高めてきたのは、歴史を振り返れば、簡単に理解できるが、それに限界は、あるのかということだ。折角の技能も、IoTにより、誰もが身に付けられ、特別なものでなくなると、自分の存在意義さえ、脅かされる。そんな考えに、囚われれば、当然、心配になる。AIが、経験の豊かさの価値を、無くしてしまうとなれば、心配になる。だったら、もっと上を、となるか否かが、今後の課題となる。どうだろうか。

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2月8日(土)−算える

 数字は、大小関係を、明確に表すものとして、よく使われる。数直線上に、乗せることで、単なる大小だけでなく、その程度も、表せるから、客観的な指標となるのだ。増えた、減ったと、一喜一憂したり、多い、少ないと、勝敗を決したり、様々に使える。
 今はどうか、知らないけれど、昔、学校に上がった時に、初めて習う算数では、まさに、数を算えることが、教え込まれた。りんごがいくつ、みかんがいくつ、どちらが多いと問われたり、合わせていくつになるかと問われた。算えることが、数との触れ合いにおいて、重要なものとの解釈が、この段階において、強く意識されていた。ところが、ある時から、りんごとみかんが、違うものだから、比べるのは間違い、との指摘が起こり、論争が盛んに行われていた。決着が、ついたものか、知る由も無いが、大人の世界の都合を、捩じ曲げる形で、適応する態度には、教え育むこととは、異なる何かを、感じてしまう。そんな始まりがあったとは言え、大人になれば、当然の如く、数字だけでなく、それが示す対象を、考えに入れて、分析することが、必要となってくる。でないと、騙されることが、多くあるからで、最近の詐欺事件でも、そんな事例が、数多出ている。比較できないものを、恰も、当然の如く、比較することで、儲け話を成立される。赤子の手をひねるより、などと言われるほど、金に目が眩んだ人々は、いとも容易く、騙される。事件とならぬまでも、同じように、数字に振り回されることは、日常にも、溢れている。感染症の話も、その一つだが、死者数一つ、取ってみても、総数ばかりが、示されるだけで、その内訳に、目が向くことは皆無だ。日々、増え続ける数値に、その暇がない、とでも言うのか、異常にさえ思える。嘗て、老人の死因が、肺炎ばかりだった時、真の原因を、示すべきとの話があったが、それ程に、老人の肺炎は、死に至るもの、と言われていた。だとすれば、体力の多少との兼ね合いにも、目を向けるべきで、合併症なども、重要な要素となり得るのだ。

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2月7日(金)−垂れ流し

 何事も、数字に置き換えることで、理解し易くなる。と言われるが、必ずしも、そうではない。今、話題となる、感染症の問題で、報道は、毎日のように変わる数字を、せっせと伝えているが、ただ、増え続けるものに、恐怖以外に、感じられるものは、無い。
 肝心の数字を、正確に、伝えているのに、何故、こんなことが、起きるのか。あの業界の人々は、そこにある大きな問題に、気付く気配さえ見せない。ただ、漫然と、上から降ってきた、数字を、そのままに、伝えていれば、役目を果たしている、とでも思うのか。以前から、犯罪の報道で、当局の発表を、鵜呑みにした内容に、厳しい批判が、浴びせられたことを、忘れた訳でもあるまい。それとも、喉元過ぎれば、とでも言いたいのか。右から左に、物を渡すだけなら、免許の価値もなく、特別待遇など、以ての外だろう。誰が見ても、感染の広がりは、明らかだが、その動向から、様々な推測が、施せる筈だ。だが、数字だけを、映し出すのでは、何の知恵もない。数字の推移だけでなく、その内容にも、目を向けてこそ、報道の意味が、出てくるのだ。専門家に、問いかける場面も、飽きる程の数、見せられているが、恐怖を煽るのに飽きると、次は、防衛策を披露し、過度な心配は、無用とさえ伝える。だが、客観的な判断に、必要となる筈の、肝心のデータは、最終集計の数字以外に、何があるのかさえ、不明なままで、届けられる。こんな事態でも、煽られ、踊らされる人々は、命綱の如く、情報源を掴もうと、躍起になる。所詮、役立たずの、無能な連中に、これ以上、関わりになる必要は、認められない。情報統制に、躍起になる隣国も、指導者の思惑に、見合う数字だけを、発表しているのでは、ないだろうか。そんなものを、ただ、流すことに、何の意味があるのか。

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2月6日(木)−泡銭

 一攫千金を夢見て、資金を投入する。それまで、地道に貯め込んだ財産を、将来の為と思い、勧誘された投資対象に、注ぎ込んでいく。だが、或る日突然、命の次に大切なものが、消え失せてしまう。突然の出来事に、呆然とする姿が、映し出されていた。
 詐欺の被害者に、注目が集まる。老後の為、という思いが、不安に苛まれる中で、魅力的な勧誘に、つい手を出した、と伝えられるが、それまでの堅実さが、何処に消えたのか、不思議で仕方がない。被害に遭った後で、冷静に考えてみれば、ありそうにない話に、何故、乗せられたのか、心理的な不安や、魅力的な話が、相俟ったとは言え、答えは、見つかりそうにない。投資ではなく、投機だとの説明に、納得できない部分も多く、市場を介するものでさえ、怪しげな動きが、頻繁に起こることを、考えてみると、気付かぬうちに、振り回されていることが、時に起きている。以前は、そんな銘柄に、目が向いたことも、時にあったのだが、今は、その手のものは、殆ど見かけない。市場の管理が、行き届いた結果、なのだろうが、流石に、二桁に落ち込んだ株価が、上下するのに合わせて、日銭を稼ぐのは、火傷覚悟のものだろう。一方、まともな株価を、維持するものでも、まるで、投機の対象のような、動きを見せることがある。海の向こうの市場だが、以前から、異常としか思えぬ動きを、度々見せている銘柄は、電気自動車の製造に、当たる企業のものだが、期待が膨らむだけで、実態が伴わぬもの、との解釈が、度々出されながら、何度も、急騰急落を続け、期待と落胆が、交互に訪れる中、生産状況は、低迷し続けていた。さて、何度目の急騰か、誰も覚えていないだろうが、また、その時期が、やってきたらしい。今度は、何故なのか、また、憶測が飛び交うが、結局、何も分からない。ただ、この動きで、荒稼ぎをした連中が、居たことだけは確かだろう。

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2月5日(水)−将来性

 誰でも、評価を下されることに、心穏やかでは、いられないだろう。しかし、選抜の過程では、止むを得ないことであり、結果により、当落の結果が、下される。時の運とも、言われることだが、定められた指標で、決められることには、常に、反発がある。
 しかし、ある指標で、評価を下すことは、客観的であり、平等なものに、違いない。それを、様々に批判する人は、穿った見方を主張し、偏った解釈を、押し付けてくる。制度が変わる度に、取り沙汰される話題も、その多くは、誤った判断に、基づくものばかりで、何故、多くの人々が、それらに振り回されるのか、全く理解できない。偶々、そういう指標が、採用されたからといって、その適用範囲であれば、誰もが、同じ負荷を、かけられていることに、何の違いもない。にも拘わらず、不平等とか、不公平とか、根拠のない主張を、声高に訴える人々は、自分達が、実は、公平性の欠片もない、勝手な意見を、述べていることに、気付かないだけだ。それどころか、当事者でもない人間が、そういう意見を、出すことには、他人への配慮が、含まれていると、考えることには、自己中心的な思いが、溢れていることにも、気付く気配さえない。中でも、気になるのは、その場での評価が、将来性とは結びつかない、という主張であり、まるで、そんな手立てが、あるかの如く、振る舞うことだ。この手の主張は、その多くが、無い物ねだりであり、出来もしないことを、さも、出来るかの如く、装うことに、大きな問題がある。同調する人も、多いようだが、となれば、その手立てを、模索する必要が出てくる。これ自体、悪いことではない、と思う人が、多いようだが、実際には、時間も人手も、無駄にするだけなのだ。より確実な方法を、見つける為に、努力するのは、当然だが、だからと言って、絶対的なものがある、と信じるのは、誤りなのだから。

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2月4日(火)−知識重視

 能力の高い人を、選び出す方法は、あるのだろうか。あると信じる人の方が、多分、多いのだろう。例えば、小学校の運動会で、行われた、徒競走を思えば、結果は、歴然としている。確かに、運動能力の多くは、優劣が明確に出るから、選び出せる、となる。
 だが、運動能力でも、複雑な組み合わせの結果、となると、事は難しくなる。球技の多くは、走力や筋力などの、単純な能力ではなく、それらの組み合わせの、結果となるからだ。それでも、規則を厳密に決め、その中で、競わせれば、優劣に決着がつく。だから、方法はある、と思うのかもしれないが、勝敗は時の運、などと言われるように、微妙な違いで、結果が異なることがある。要するに、何を基準とするかについても、どんな環境で競わせるかについても、多くの要素が、入り組んだ形で、結果は違ってくるのだ。では、学力については、どうだろうか。知識力とは、何を、どれだけ、覚えているか、を問うもので、人の能力の、ほんの一握りしか、見ていない、と言われる。という訳で、世間では、様々な指標を使い、能力を測る試みが、なされてきた。提案力を、測るものや、発表能力を、測るものまで、知識偏重ではなく、運用能力を、見極めようとする、と言われていたが、結果は、芳しくないようだ。確かに、一部の突出した能力を、選び出すことは、できたものの、平均すると、学力自体が劣ることが、すぐに明らかとなり、歩留まりが低い、と言われてきた。知識を身に付ける為に、必要な手立てを、持たないままに、一部の能力だけを、身に付けても、高が知れている、ということだ。一方で、選択肢など、答えだけを、求めるのではなく、その過程を、見極めるような方法が、適切ではないか、との意見も、屡々聞かれるが、これも、知識力が備わらねば、成立しないものだ。やはり、知識を問うことこそが、学力の基本なのだろう。

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2月3日(月)−見掛けの数字

 説明が長いと、飽きられてしまう。では、どうしたら、手短な説明が、できるのか。一つは、数字を使うこと、と言われる。言葉での説明では、数字を使っても、上手く伝わらないことが、多いけれど、提示すれば、一目で解る。この方法には、もう一つ効用がある。
 それは、言葉での説明のように、主観的な解釈で、誤解されることが、少なくなることだ。数字は、あくまでも、数の大小を、表すものであり、それによって、客観性が、保てると言われる。大小関係も、比較の表現だけでなく、その違いを、明確に示せるので、情報が増えるのだ。これを利用して、説明をすれば、単に、時間の短縮に、結び付くだけでなく、伝達の正確さも、高めることとなる。一見、万能に見える道具だが、数字も、使いようであることには、変わりがない。よく、一人歩きと表現される、数字の大小だけに、注目した説明には、その数字が、導き出された過程を、無視したものが多くある。数字の大小を、主張の根拠として、示しているが、それが出された経緯を、無視することで、、実際とは異なる解釈が、できるようになる。その便利さを、利用することで、データを悪用し、人を騙すのだ。使う人間の問題だが、それを受け取る側が、数字だけでなく、それが導かれた過程に、目を向ければ、恣意的な操作によって、騙されることが、少なくなる。一方、数字の大小ばかりを、追いかけることは、本質を、見誤ることに、繋がることも多い。総計や推移が、よく用いられるが、その内容を無視して、単純に足し合わせたり、一部の推移だけに、注目することは、同じように、解釈を誤ることが、多くある。これを利用して、報道内容を、操作することは、最近特に、目立つ傾向だろう。数字は正しく、改竄されていないが、一部だけを、示すことで、都合の悪い部分や、主張に合わない部分を、取り除くことが、できるという訳だ。これに気付くことも、騙されない為の、一法だろう。

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