パンチの独り言

(2月10日〜2月16日)
(異端、変幻自在、憂慮、頑張れ、一喜一憂、調査数、原点)



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2月16日(日)−原点

 人口が、急激に増えていた頃、国中が、対応に追われていた。学校は、その年代の子供が、増え続けるのに、設備が追いつかず、仮設の教室で、済ませた時代も、あったと聞く。校庭に立つ、小屋のようなものが、それだったが、運動の妨げに、なることさえあった。
 そんな時代に、育った人々は、窮屈な思いを、強いられただろう。その不満が爆発し、最高学府が、戦いの場となり、社会への不満を、ぶちまけていた。その下に属する世代は、それほどの窮屈には、押し込まれず、経済成長に従い、整備されていく環境に、ある意味、満足していた。ただ、競争社会は、依然として続き、多くの子供が、より高い教育を、受けるのが、当然であるとの風潮が、社会を満たしていた。まさか、それが、教育水準の低下に、繋がるとは、誰も予想しなかっただろう。誰もが、進学するのが、当然という時代に、初等中等だけでなく、高等教育の場も、雨後の筍の如く、急増していった。能力の高い人が、進む道だったものが、誰もが、進めるようになると、現場は、大混乱となった。一人でも多くの学生を、獲得しようとする動きは、教育とは無関係の、環境整備へと繋がり、幼稚園のような、遊び場の魅力を、優先する所さえ、登場していた。その多くは、既に、姿を消しただろうか。しかし、子供の数が、減り始めると、今度は、異なる問題が、降りかかり始める。定員を満たせず、廃校を余儀なくされる、そんな大学が、続出したのだ。その上、教育水準は、数の減少より、さらに急速に低下し、質の問題は、喫緊の課題とも言われている。と同時に、嘗て、増やすのが当たり前だった、初等中等の現場も、廃校や統合が、盛んに行われている。仕方ない、とも言われるが、どんな過程を踏むのか、確実な方法はないらしい。ここでも、高校は、ほぼ全員が、進むのが当然とさえ、教育とは何かが、現場で論じられているようだ。急場凌ぎが、何度も起こり、時代は変わってきた。だが、教育の本質は、今も昔も、変わらない筈では。

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2月15日(土)−調査数

 国勢調査、住民調査、世論調査、世の中は、調査ばかりで、終わったと思ったら、今度は、別のことが、という具合に、次々に、調べられている。世の中の動向を、様々な設問で、調べることだが、多くの人は、結果の数字を、どう受け取っているのか。信頼、不審?
 支持率とか、投票行動とか、そんなものも、調査によって、数値化される。だが、その信頼性は、どのようにして、保証されているのか。それを知る人は、少ないだろう。例えば、内閣や政府の支持率は、新聞などの報道で、示されているが、調査機関によって、微妙に異なる数字が、示されている。しかし、大まかな数字には、大した違いはなく、それなりの範囲に、収まっている。だとしたら、信頼に値する、と言えるのだろうか。と言っても、先日、脱退を決めた国の、国民投票の結果は、直前の調査とは、正反対のものとなり、その後の迷走が、多くの人々の、混乱を招いていた。何故、このような違いが、生じたのか、真相は明らかとならず、結局、闇の中のままだ。だが、これを、欠陥の一つと見れば、原因を明らかにすることが、必要だろう。一方、信頼度に関しては、学問の世界では、理論的に解析されている、と言われる。確かに、電話調査では、その多くが、千人を対象とし、その結果を示している。専門家からは、千人が、指標の一つ、と示されるが、その理由には、触れられることが、少ないようだ。そこで、少し調べてみると、誤差範囲を、どう定めるかで、対象人数が、変わることが分かる。誤差を、5%とすれば四百人が、3%とすれば千人が、1%とすれば一万人が、対象となる。つまり、千人を対象とした調査で、二つの選択肢の割合の違いが、3%以内となれば、その違いは、不確かなものとなる、という訳だ。これからは、そんなことを、考えながら、発表される数字を、眺めてみよう。

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2月14日(金)−一喜一憂

 数字の上下で、一喜一憂する。相場の動きに、そんな思いを、抱いていると、取引時間中は、気が気でない。だが、資産の増減は、日々の動きだけで、決まる訳ではない。現金化して、初めて、資産としての、本当の価値が、出てくる。皮算用は、所詮、妄想の一つだ。
 身近な話題とはいえ、この話は、将来への備え、と言われている。仮想空間で、上がったり、下がったり、喜んだり、憂えたり、そんなことは、精神的には、穏やかには、居られないのだろう。だが、人間の生活には、こんなことは、数え切れぬ程にある。海の向こうで、大騒ぎとなっている、感染症の話も、同じように、数字の上下で、一喜一憂が、繰り返されている。これが、経済活動と結び付けば、相場の動きにも、繋がってくる。そんな関係から、市場関係者も、心穏やかには、居られないのだろうが、それにしても、数字の源に、目を向けずに、ただ、その大小に、右往左往するのは、大きな間違いなのだ。減少し始めると、終息が近い、との期待が膨らんだが、その途端に、解析方法の変更があり、突如の急増が、伝えられる。たとえ、糠喜びとしても、そこでの上下で、得をする人も、損をする人も、出てくるのは、当然のことだ。だが、長い目で見れば、そんな日々の動きに、振り回されていては、心の病に、侵されかねない。感染症も、恐ろしいものだが、自分の中から出てくる、心の病は、自由にならず、重症化する可能性も、大きいと言われる。数字の本質を、見抜くことは、まるで、能力の一つのように、扱われているが、それ自体より、その姿勢を示すことで、心の平静を、保つことにこそ、意味があるのではないか。矢鱈に騒ぎ立て、殊更に、不安を訴えることで、同情を得て、心の平和を、手に入れられる、と思う人も居るだろうが、他人に依存し、自立できない状況を、自ら招いているのだ。人の心は、確かに脆いものだが、それを保つのは、自分しか居ないことに、気付くべきだろう。

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2月13日(木)−頑張れ

 人手不足が、深刻となっている、と伝えられるが、その一方で、働き口が、見つからずに、困っている、という人も居る、と伝えられる。一体、どんな事情があるのか、これらの報道で、説明されることは、殆ど無いのだが、どうも、認識の不一致が、あるらしい。
 つまり、人手が、不足すると訴える企業は、猫の手も借りたい、とはいえ、猫でも良い訳では、当然あり得ず、それなりの能力を、備えた「人間」を、求めている。それに対して、職を求める人々は、企業が求める能力が、何であるかを、判断する材料もなく、どこに出向けばいいのか、分からないままなのだ。それにも増して、重要な要素は、互いに困っていても、譲れない部分が、あるということだろう。これは、収入、給与の多寡であり、最低限の保障では、生活できないと訴える、求職者にとって、求人広告の中身は、魅力的とは、とても言えない状況なのだ。これは、産業界全体に、言えることであり、生活水準を、向上させる為には、昇給が不可欠、という考えは、成長が止まり、停滞から、下降は始まっても、依然として、多数を占めている、と伝えられる。改善の余地が、あるかどうかについて、様々な説明が、行われているが、釈然としない、との指摘も多く、解決の糸口は、見出だせないまま、となっている。本来、能力が求められ、それを基本として、人探しが、行われる筈だが、この障壁が、立ちはだかる形で、困難なままとなる。だが、無い袖は振れない、とは、企業の事情だけでなく、職を求める個人にも、適応できる話だろう。だとしたら、まずは、落ち着かずとも、職に就くことを、最優先として、次の計画への準備を、進めるべきではないか。それには、当然、能力も必要だが、それに加えて、熱意や意欲という、精神的なものが、必要となる。頑張れる、だろうか。

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2月12日(水)−憂慮

 人材育成の話を、続けよう。計算機の能力が、向上していると伝えられ、従来、人間にしかできなかったことが、機械にもできるように、なったとされる。確かに、身の回りでも、自動化が進み、多くのことが、実現したり、実現に近づいている、と言われている。
 その時代に、人材とは、どんなものなのか、見直す動きも、起き始めている。従来通りのことを、繰り返すだけの仕事なら、機械で、全てを行えるとなれば、人間は、どんなことを、行えると期待されるのか。考えること、とも言われるが、経験に基づき、答えを導き出すことも、人工知能が、人間の経験よりも、多くの事例から、行う方が、遥かに正しく導ける、となれば、隙はできそうにない。では、改めて、考えること、とは何だろうか。経験も、確かに重要だが、思いつき、という感覚は、それとは別の源を、持ちそうに思える。閃き、とも言われるが、根拠なく、何かしらのきっかけを、探し出す能力、とされる。この能力が、現状の教育では、育てるよりも、衰えさせる、あるいは、抑えつける、ということが、行われているようだ。何度も書くが、傾向と対策では、経験に基づく知識を、授けることが、重要となる。これが、教育の基本とされ、実践されるに従い、傾向から外れたことは、無駄と捨て去られ、そんなことを、「思い付く」子供は、面倒な存在として、無視されたり、教える為と称して、厳しく叱られることさえ、あるようだ。天才を、殺す為の手段、とも言われるようだが、これとて、天才でなくとも、普通の子供達が、自由に考えることを、妨げている訳で、教育の基本を、忘れているとしか思えない。こんな環境で、無難に育った人々が、社会にそのまま出ることは、人材育成において、効果が得られぬこととなる。だからこそ、最高学府では、それまでとは異なる、自由な考えを、促す動きが、嘗てあった。それが、今は、殆ど見えなくなっている。憂慮すべきこと、なのではないか。

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2月11日(火)−変幻自在

 この国の教育体制は、嘗て、賞賛されていた。だが、最近は、停滞から、下落へと移り、ついには、低迷とさえ、言われるようになった。嘗て、低迷に瀕していると、批判された国は、その時も、今も、先進国の先頭を走り、教育水準との乖離に、多くの疑問があった。
 実は、そこには、対象の違いという、根本的な問題が、隠されていた。こちら側の、高い教育は、義務教育期間のもので、与えられた課題を、如何に確実に、こなせるかという能力に、注目が集まっていた。それ自体に、何の変化もない、と思う人も居るが、実際には、限られた課題、という部分に、大きな変化が起きたことに、気付けないだけだ。確実性を、追求した結果、対象を狭めることで、達成率を、向上させてきた結果、想定外の問題に、対処できない人間が、増えたというのだ。一方、海の向こうの大国は、初等中等教育では、遅れをとるものの、高等教育において、実力を発揮する人間を、数多く輩出することで、教育水準だけでなく、産業育成においても、才能を発揮できる人材を、確保し続けてきた。この点に関しては、こちら側は、以前から評価が、芳しくなかったが、それでも、一部の人間が、牽引することで、成長を支えていた。それに加えて、最低限の教育を、施された人材が、多種多様な状況に、対応できたことが、基盤を築いていたのだろう。その層に、空洞化が起きたことが、今の問題を、招いているのではないか。その上、進学率が、向上することで、十分な能力を備えぬ人間に、高度な教育を、施すことが求められ、全体の仕組みに、大きな歪みが生じたのだ。本来、与えられた課題を、こなすことを、求められた年代が、更に、上を目指せば、それとは異なる、自在性を求められ、課題解決だけでなく、課題発見をも、求められるのが、当然なのだが、それさえ、覚束ない人間が、やってきたことで、異なる対応を、せざるを得なくなった。これでは、求められる人材は、育てられないのだ。どうする。

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2月10日(月)−異端

 経済停滞が、長く続いた結果、現場では、新たなことを始めるより、現状を、如何に維持するかが、肝心とする考え方が、広がったと言われる。保守と呼ばれる、ものの一つだが、経済自体は、停滞しているものの、技術革新が、続く中では、障壁となっている。
 折角、築いた技能も、技術革新により、独自性を、失うとなれば、導入に、消極的に、ならざるを得ない。しかし、それが、停滞を長引かせる、となると、打ち破る手立てが、必要とされるのだ。だが、現場には、職や収入を、失いたくない、という考えが満ちており、解消の手立てが、見つかりそうにない。となれば、外圧が必要だろうし、成功事例も、魅力的に映る。そんな例が、増えていくにつれ、人々の考えは、少しずつ変化し始めた、と言われる。その中で、期待されるのは、次代を担う力であり、保守的どころか、従来の考えに、染まっておらず、未熟さから、間違っていることが、多いものの、独自の考えを、導入するきっかけになる、と言われている。現場からの、それらの期待には、納得できる部分も、あるにはあるが、新たな人材に、対する考えには、少し違いがあるようだ。人材育成において、企業の関わりは、急速に衰え始め、教育現場への依存は、強まり続けている。その中で、選抜を繰り返す仕組みでは、それを、巧みに潜り抜ける能力が、優先されている。ところが、安定が続く中では、傾向と対策こそが、最強の武器と見做され、従来通りに、守り抜くことこそが、最善の策と思われている。これはまさに、保守の典型であり、今のまま、このままを、望む傾向を、強めることとなる。だとしたら、この競争に勝ち残った人間は、現場の期待とは、正反対の様相を、呈しているのではないか。おそらく、妥当な線を狙うより、少し外れた人間を、発掘した方が、いいのかもしれない。また、教育現場も、従来とは異なり、異端を勧誘することが、必要なのだろう。

(since 2002/4/3)