パンチの独り言

(2月17日〜2月23日)
(疎外感、思慮深く、穿った見方、探究意欲、俯瞰せよ、誰に仕える、負の遺産)



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2月23日(日)−負の遺産

 国の借金や、二酸化炭素濃度など、将来の世代に対する、責任を問う声が、大きくなっている。だが、それぞれの実態は、実は、不確かな部分が多く、声を上げる人々の、信仰にも似た、独自の論理が、蔓延っている。そこにまた、負の遺産が、姿を現した。
 暫く前に、取り上げたことだから、覚えている人も、居るのではないか。事故の後、様々な手立てを、講じる中で、どうしても、解決できない問題として、その増加は、取り上げられていた。核分裂をきっかけに、様々な放射性物質を、生じる仕組みに関しては、これまでの研究から、全てが明らかとなっている。それらの殆どについては、除去することで、解決の道筋が、付けられているが、ある一つの核種については、未だに、除去の手立てが、編み出せていない。ただ、この問題は、今回の事故に、限った話ではない。核分裂を端緒として、生じるものは、通常の原子力発電でも、同じことが、起きており、何の違いもない。では、通常は、どう処理されているのか。多くは、今、問題視されている、海洋放出により、全体として希釈する、という方式が、専ら、行われている。前回、取り上げた時に、論じたように、海洋による希釈の効果は、基本の考え方として、認められたものだ。それが、現場を二分する論争に、至っているとのことだが、これは、まさに、将来の世代への、遺産相続の一つ、ではないだろうか。風評という、相も変わらぬ、姿の見えぬ敵に、挑むことなく、ただ、漫然と、先送りをする。このまま、溜め込むという提案は、ただ、それだけのものに過ぎない。早晩、解決法が、などと戯言を、並べるだけで、何の努力もしない。一方、海洋放出は、確かに、多くの問題を、噴出するだろう。だが、それに立ち向かい、解決していけば、問題は、今の問題で、片付けられる。これは、はじめに取り上げた、信仰に似たものと違い、多くが、明白なものであり、正面から、立ち向かって、解決すべきことなのだ。

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2月22日(土)−誰に仕える

 公僕という言葉を、使うのが、憚られる、という話がある。本来の意味を、知っていれば、そんな気持ちは、微塵も起きない筈だが、何を、考えるのだろう。公僕とは、公に対して、奉仕する人間を指し、この国では、公務員が、それに該当する。ただ、それだけだ。
 そこに、差別的な意味は、全く含まれていないが、一部には、公務員を、侮蔑するような、言動を繰り返す人が居て、彼らの差別的な行為から、こんな風潮が、生まれたのかもしれない。改めて、公僕の字を眺めると、そこには、おおやけ、公に対する、しもべ、僕という文字がある。僕は、男性、特に男の子が、自分を指す時に、使う言葉だが、本来は、しもべ、つまり召使的な奉仕者を、指している。どうも、ここに、問題がありそうにも、思えるのだが、それにしても、勝手な解釈が、一部とはいえ、広がっているらしい。その一方で、最近の話題の中には、公務員達の、無能ぶりや横暴ぶりが、紹介されることが、多くある。特に、国の役人達に、その傾向が、著しいように思える。本来、保管すべき文書を、いつの間にか、廃棄したという話も、都合が悪くなった途端に、文書の改竄を行ったという話も、一般社会では、懲罰の対象となり得るものだ。それが、名も無き公僕として、特定されることなく、有耶無耶に、片付けられる。これでは、責任感も無くなり、義務も果たさなくなる。本来、誰か特定の人ではなく、公に、つまり、不特定多数に対して、奉仕する筈が、その気さえ、失せてしまっている。今回の感染症騒ぎも、強権乱用とも思える、強制的な措置が、必要な場面も、あっただろうが、それを行使する勇気もなく、行動規制についても、あやふやな通達で、済ませている。まあ、勇気の有無ではなく、単に、能力を活かし、責任を果たすだけだが、それさえも、危うい状況に見える。どうしたものか。

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2月21日(金)−俯瞰せよ

 実情を、調べることなく、記事を書く。最近の記者に、目立つ傾向だが、昨日の話も、その一つに見える。そんな意見を、突き付けたら、現状を、的確に捉えて、問題を提起したと、多分、こんな答えが、返ってくるだろう。その手法の問題に、気付いていないのだ。
 現状は、確かに、その通りだが、受賞者の数が、激減すると主張するなら、以前と比べて、どう変化したのか、に目を向ける必要がある。だが、歴史に学ぶことなく、目の前の問題に、目を奪われる人々は、昔の話に、興味を抱くことは、決してない。確かに、予算が削られ、折角築いた仕組みが、成り立たなくなり、頓挫している、という現状は、問題には違いない。だが、成果を得て、賞を授けられた人は、今、問題とされる仕組みとは、無関係な時代に、その世界に、足を踏み入れたのだ。それを、思い出した上で、現状の問題を、検討するのなら、まだしも、記事は、そんな昔に、思いをはせることなく、今の問題だけに、目を奪われている。本質的な問題を、論じる姿勢は、失われるばかりで、窮状を訴える人々に、手を差し伸べれば、それで満足なのだ。昔は、どうだったのか。研究者の手形と言われる、博士号を、手に入れたとしても、国内には、職が見つからない時代が、長く続いていた。ポスドクという、臨時雇いの研究者も、そんな仕組みは、殆ど見当たらず、予備校講師などの、臨時雇いで、糊口をしのぐ、OD、オーバードクターという立場が、存在していた。研究を続けたければ、意を決して、海外に出るしかなく、多くが、海の向こうの先進国に、出て行った。当時、海外流出などとは、言われることなく、興味さえ抱かれず、そんな状況が続いた。その後、博士を増やし、彼らを、雇い入れる仕組みが、作られたのが、今、問題視されていることだ。この世代には、まだ、資格者は、出てきていない。だとしたら、何を問題とすべきか、見方が変わりそうだ。

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2月20日(木)−探究意欲

 論文について、穿った見方を、紹介したが、そこに、新聞の報道が、届いた。この国の研究者の、最近の論文数が、以前から問題視されているより、遥かに深刻な状況にある、との指摘があった、というのだ。研究者を軽視する風潮が、その事態を、産んだとされた。
 記事を、詳しく読まないのは、また、空騒ぎの一つ、と思えたからだ。人々は、自分達が、できない原因を、外に求める傾向がある。自分は、頑張っているのに、目標が達成できないのは、誰か別の人の、あるいは、何かしら、環境からの、影響によるもの、という主張だ。典型と思えるのは、受験戦争の状況で、毎年、話題となるが、特に、注目が集まるのは、制度の変更が、行われる時だろう。まるで、その変更が、受験生への負担となり、圧迫となる、という主張だが、実際には、そこで、取り上げられるのは、個人的な影響なのだ。自分が、不利になることを、強く主張する受験生や、その親達を、殊更に、取り上げる姿勢は、そんな思惑からだろう。だが、変更は、全ての受験生に、及ぶ訳で、そこに、個人による差は、生じる筈がない。なのに、自分だけが、不利になるかの如く、振る舞う連中は、やはり、愚かとしか、言いようがない。それを、気付かせることこそが、重要なことなのに、同情や共感が、重視されるのは、社会自体が、腐っているということか。それと同じとは、思わないが、周囲から軽視されるから、業績が、上げられない、というのは、馬鹿げた論法だろう。確かに、大学への資金供給は、厳しい状況が続き、疲弊状態が、続いている。だが、その中で、地道な活動を、続けてこそ、真の成果が上がるのではないか。実際、世界的な賞を、授かった人々は、大部分が、悲惨な状況に、追い詰められた経験を、持っていた。それを、物ともせずに、興味を追い続けた結果、報われたのだ。それに、そんな栄誉を、受けるのは、ほんの一握りで、大部分は、自身の満足だけで、十分と感じていたのだろう。

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2月19日(水)−穿った見方

 流行が、拡大する中、数字の増加だけを、伝える報道に、何度も苦言を、呈してきた。数字の内容を、全く伝えず、ただ漫然と、増加を伝えることで、例の如く、不安を煽る姿勢を、示す輩に、呆れるばかりだったが、遂に、解析結果が、発表された、と伝えられた。
 感染数や死亡率など、気になる数字を、拾い上げて、伝える姿勢には、依然として、煽りの思惑が、露骨に表れているが、それより、気になることがあった。それは、発表された媒体であり、そこに、隣国の関係者の、全く別の思惑が、潜んでいるように、強く思ったのだ。報道によれば、これらの数値や解析結果は、論文として、発表されたとある。通常、政府に属する、保健機関が、こういう数値を、発表する筈だが、もしかすると、そういう組織が、行ったものでは、ないのかもしれない。世界でも、何度も報道に出てくる、WHO、世界保健機関が、発表するのであれば、機関の発表書類として、公にされる。おそらく、この国でも、政府機関が、発表しているものは、同じような形式で、流布されるだろう。それらのものは、誰の業績でもなく、単に、公式発表として、記録されるに過ぎず、たとえ、誰かが、それらを引用したとしても、公式文書の引用であり、誰かの、あるいは、国の、業績、あるいは、功績として、記録されることは、あり得ないだろう。ところが、あの国から、出てきた結果は、「論文」という形で、発表された。となれば、それを引用すれば、その著者達の業績として、記録され、彼らの属する国の、研究の業績として、認定されることになる。まさか、そんなことを、狙う筈はない、と軽々しく、扱うのはどうか。所詮、数字にしてしまえば、このような背景は、見えなくなる。今後、この論文の引用数を、誰かが追跡したら、面白い話が、出てくるかもしれない。それより、こんなものは、数に入れず、処理してはどうか。今から、そんな話をしておいた方が、いいように思う。

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2月18日(火)−思慮深く

 論客として、名を馳せている、女性の話が、新聞に掲載されていた。例の、有名大学の入学式で、新入生に、檄を飛ばした、ことでも話題となった。その真意は、明らかではないが、在職中から、議論を好み、喧嘩腰での物言いに、対話者は、腰が引けたようだ。
 だが、その一方で、老後の問題を、提起していたことは、あまり知られていない。母親の介護や、独り身での老後など、ここでも、数々の問題を、提起している。感情的な部分も、あるに違いないが、その多くは、激論へと結び付き、理路整然としたものに、反論は難しい、とも言われる。彼女が、名を上げつつあった時代、そこには、男女平等の方針が、掲げられていた。しかし、掛け声ばかりで、何の変化も及ぼさぬ、形だけの法律に、業を煮やしたのだろう。欠陥だらけの施策に、雨嵐とも思える、批判の矢を浴びせかけた。その中には、極論としか、思えぬものもあるが、真に目指すべき目標を、達成しようとするなら、その位の極端は、致し方ない、とも思えてくる。実は、ここでの問題は、形だけを整え、見栄えのいいものを、作り出そうとする、政治家や官僚達の、浅慮にこそあり、一時の流行や、人気取りに、終始した挙句の、失敗作の山積みと、なってしまったことだろう。そこを含め、彼女の批判は、次々に、浴びせかけられる。罰則を設けぬ法律は、単なる張りぼてで、達成を目指そうとする、気持ちが、微塵もない、と断じるのも、当然のことだろう。だが、何事にも罰を、という風潮に関して、もう一度、考えてみるべき、という解釈は、成り立たないだろうか。本人に、問い質さねば、真意は見えないが、そんな解釈を、していくことが、今の時代には、必要なのだと思う。罰を与えずとも、互いのことを、慮ることで、より良い答えを、導き出すことが、何事にも増して、優先されるべき、と思えてくる。その中で、目指すべき目標に、到達できれば、誰も傷つかず、損をせずに、済むのだ。当然、目標も、現実的なもので、なければならない。

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2月17日(月)−疎外感

 進学の目的が、勉学だったのは、いつ頃だろうか。それとも、そんなことは、嘗てなく、遊びと交友が、主目的で、あり続けたのか。今も、大学の春では、やっと遊べるとか、友達を作りたいとか、そんな意欲ばかりの、新入生達が、闊歩している、と言われる。
 しかし、現実は厳しく、毎日の講義は、学生の都合を、無視したまま、先に進むらしい。相互理解を、重視する方法が、採り入れられても、全ての理解を、得ようとしたら、終わらないとも言われる。一方、友達作りを、目的に上げる人々は、見ず知らずを相手に、話しかけても、すぐには打ち解けず、困難を感じるようだ。彼らの友達は、一緒に遊び、楽しめる相手であり、苦しいことを含め、深刻な事柄を、相談できる相手ではない。相手に、それを求めることが、あったとしても、自分が、その役を負うとは、微塵も感じていない。都合のいい考えだが、それが、未熟な人間の常、なのだろう。そんな雰囲気の中、やはり、孤独を感じ続ける人は、必ず居るものだ。勇気を持って、話しかければ、とも言われるが、彼らの多くは、誰かに話しかけて貰うのを、待ち続けた結果、誰とも話せない、となっている。経済番組で、離脱で混乱する国の、孤独問題が、取り上げられたが、所謂、孤独とは、違うのではないか。人という字は、支え合うことを、表している、とも言われるが、そんなことに、触れるのも、人がそれぞれ、一人で生きるもの、という認識があるからだろう。だから、孤独を感じることに、何も不思議はない、と言えないか。一方で、国を挙げて、課題とするのは、実は、孤独ではなく、疎外なのではないか。余所者と見られたり、存在を無視されたり、そんなことが、繰り返されることが、心理的な圧迫となる。ただ、これも、確かな圧力より、自分の中から、湧き出る気持ちの方が、大きいように思う。話しかける前に、無視されたら、と心配することは、新入生にも、老人にも、ありそうだ。

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