パンチの独り言

(2月24日〜3月1日)
(諦めない、発言主、愚かさ、対処法、要請?、風邪の一種、困惑?)



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3月1日(日)−困惑?

 不安を煽るのは、「マスゴミ」の専売特許、だった筈だが、危機管理が、不可欠となる中、国を司る人間が、その中心へと歩みだした。要請という名の、強い圧力を、振り下ろした後で、言い訳を、連ねる姿には、心底に、情けなさだけが、伝わってくる。
 となれば、批判の矢が、浴びせられるのが、これまでの常だが、公共放送の代表は、忖度からか、それまで、盛んに、不安やら心配やらを、庶民に語らせていたのに、突然、「困惑」という言葉を、使い始めた。普通に、声を集めれば、相も変わらぬ、不安と心配の連呼、となる筈だが、そんな声を拾わず、ただ、「困惑」が広がると伝える。言葉の使い分けは、印象を操作する上で、重要な要素となる。ここでも、前日の発言を、撤回することなく、まるで、国民に訴えるように、助けを乞う姿には、やはり、情けなさだけが、残ってしまう。まず、宣言が必要、との判断から、発表したのだとする、会見の中身は、未だに練り上げられぬ、対応策の杜撰さだけが、目立っていた。まるで、要請を出してから、社会の反応を、拾い上げて、対応策を講じたような、悪い印象さえ残る。これまでにも、杜撰な策が、集中砲火を浴びたことは、何度もあったが、今回のように、無策で、丸腰で戦場に出向くような、情けなさは、尋常とは思えない。「私の責任」を、何度も強調するのは、まるで、このまま、敵前逃亡をしようとの、企てがあるのでは、と訝る人も居ただろう。まさに、前日の宣言は、その前兆のように、思えていたが、今回のものは、更に強く、感じさせるものとなった。危機管理において、決断は、確かに必要だが、ただ、避けることだけを、命令したとしても、何の解決にもならない。そこから始まる、数々の問題に、どう取り組むかを、同時に示してこそ、解決の糸口が、掴めるのだ。二つの隣国共々、退陣間近を、思わせる流れではないか。

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2月29日(土)−風邪の一種

 今後の展開は、読めないだろうし、読んでも無駄だろう。だが、勝手な思い込みから、不幸を掲げる人々は、そんなことは、御構い無しだ。兎に角、悪い話を、せっせと拾い上げ、最悪の筋書きを、作り上げようと、躍起になる。何の為なのか、理解不能でしかない。
 だが、悲観的に振る舞うことで、自身を、支えているのだろう。実害が、及ばなければ、勝手にしておけばいい。放置するのが、現時点では、一番楽な方法だ。ただ、偽情報を、流し続ける人々に、活躍の場を、与えてはいけない。早晩、実害が及び始め、面倒なことになる。マスクの転売しかり、トイレットペーパーや紙おむつの品不足しかり、馬鹿げた騒ぎに、巻き込まれては、害を被るかもしれない。こういう根も葉もない話は、徐々に広がり、終息を迎えるのが、常だったが、その速度が、昔と比べると、異常な程に増している。それが、実害を招く可能性は、どうしても高くなる。だから、無視が一番で、時には、罰も必要となる。これも、成り行きを、見守るしかない。では、肝心の感染症は、どうか。宰相の戯言も、早晩、結果が出されるだろうが、世界機関の責任者の発言は、そうもいかない。更なる責任が、伸し掛かっているからだ。にしても、迷走を続ける発言内容に、地位を失うのも、間も無くと思える。感染拡大は、おそらく、止められないだろう。特に、検査が、思うように進まぬ中では、潜在的な存在が、発覚した途端に、爆発的な増加を、迎えることが、予想される。逆に言えば、感染を、逃れる術は無い、と見做した上で、重症化をさせぬ手立てを、各自が、講じる必要がある。幸い、今回のものは、重症化せずに、回復する傾向が、強いとされる。だとしたら、そろそろ、感染拡大の大騒ぎを、止めたらどうか。それより、重症化させず、回復する為の心掛けを、流布することで、解決した方が、確実ではないか。

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2月28日(金)−要請?

 恐怖が、吹っ飛び、現実に、引き戻された。そんな反応が、大部分だったのでは、ないだろうか。ああでもない、こうでもないと、最悪の筋書きを、出してきた人々でさえ、こんなことになるとは、毛程にも、考えなかったろう。だが、始まれば、対処せねばならぬ。
 個人に関わる問題に、影響を与えることは、この国の制度では、出来ないとなっている。例え、緊急事態に、陥ったとしても、個人の自由は、常に保障されており、侵すことは、出来ないからだ。そこで、まさに、苦肉の策として、編み出したつもりだろう。学校を、閉鎖せよ、との指令、ではなく、要請が、出された。ここでも、強制力は、基本的には、全く無いとなる。しかし、学校は、監督官庁から、各自治体を通して、様々な制約が、課せられている組織であり、公的なものも、私的なものも、従わざるを得ない状況にある。それを承知の上で、この決定がなされたのは、ほぼ明らかだ。しかし、彼らの頭は、そこまでしか、考えられなかった。問題が生じれば、それに対応することを、約束したとしても、現実は、それ程に、単純ではないからだ。子供が、一人で居ないように、と普段から、預かる場所を、確保してきた親にとって、この事態は、複雑な問題を、生じてくる。集団となることを、防ぐ為の措置だとしたら、同様に、保育機関も、同じ問題があり、そこに移すだけでは、無意味となる。だが、日々の生活に、必要な資金を、稼ぐ為には、仕事に出かけねばならない。では、その間、誰が、子供の面倒を見るのか。もし、親が、それをするなら、休業の手当ては、宰相の言った、対応に含まれるのか。当然だが、そんなことを、する筈もない。何千万も居る、子供への対応として、日当を手配することは、この国の予算では、対応しきれぬものとなる。だとしたら、何をどう対応するのか。原稿を、ただ読むだけしか、芸の無い宰相には、そんな深慮は、期待できない。

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2月27日(木)−対処法

 恐怖を煽り、注目を集めようと、躍起になる。この国の、報道に携わる人々の、身勝手で、無責任な行動は、そろそろ、頂点に、達しようとしている。人々の恐怖が、ある限界を超えると、ついには、制御不能に陥り、自分達の立場まで、危うくなるのだ。
 そんな気配を、感じるのは、ついこの前まで、いかに危険かを、声高に訴えていたものが、平静を保たせようと、安全安心の為の手立てを、次々に、説明し始めたからだ。独裁政治下の、隣国のように、一部地域を、密閉状態に、陥らせることは、自由主義である、この国では、実行不可能な話だ。だから、要請として、催しなどの中止や延期を、訴えるのが、精々なのだが、この状況が、さらに、民衆の恐怖を、煽り兼ねない事態を、招いている。それまで、政府や役所を、批判することにも、精を出していた連中も、こうなってくると、抑制をかけるべき、との判断を、下したのだろうか。感染を防ぐ方法を、盛んに宣伝し、各個人の注意を、促そうと努め始めた。だが、感染が、ある広がりを超えると、感染予防よりも、感染後の対処を、講じるべき時が来る。その点から、今の状況を眺めると、如何に愚かな話を、喧伝しているかが、見えてくる。感染が疑わしい時には、家に留まれとか、熱が続いた場合には、相談窓口に連絡せよ、という話を、せっせと伝えているが、本人の体調を、どう保つべきかの話は、全く聞こえてこない。感染症の蔓延には、感染という事象そのものを、どう抑え込むかが、肝心なことの一つだが、たとえ、感染したとしても、重症化させない為の、投薬以外にも、自身でできそうなことを、紹介することも、肝心なのだ。体力を、保つことこそが、最重要なことであり、その為に、必要な事柄に、注意することこそ、自分を守る手立てとなる。日頃から、意識していれば、何の問題もなく、この程度の感染症なら、苦もなく乗り越えられる筈だ。

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2月26日(水)−愚かさ

 不安が募り、恐怖に駆られて、異常行動に、気付く気配さえ、見えてこない。以前なら、そんな人でも、周囲への迷惑程度で、事が済んでいたが、今は、それが、急速に拡大し、異常者の急増だけでなく、様々な悪影響を及ぼす。喧騒の中で、何故、誰も指摘しないのか。
 風邪を引き、病院へ出向くと、医者に向かって、注射を要求する。笑い話として、片付けられるだけだが、こんな話が、別の形で、広がり始めている。恐怖を煽り続ける、報道姿勢には、もう、諦めの境地だが、彼らの無責任発言に、惑わされる人も、居なくなることがない。そんな連中の、空騒ぎに対して、手立てを講じることは、殆ど、無駄に違いない。何故なら、恐怖や騒動は、彼ら自身の中から、出てくるものであり、それを、抑え込むことは、不可能なのだ。ただ、こんなことは、昔から、何度も起きている。特に、震災などの、自然災害の後の混乱は、そんな騒ぎにとって、格好の環境であり、一つの恐怖が、次の恐怖へと繋がる、連鎖と拡大が、起きてしまうのだ。ただ、それでも、人の口と耳を、介してものとなれば、手間と時間が、必要となる。それでも、1が2に、2が4に、という具合に、広がれば、ある時を境に、膨大な数となり、手の施しようが、無くなると言われる。では、今は、どうだろうか。SNSという、便利な道具が、登場して以来、拡大と拡散は、一瞬のうちに、起きてしまう、と言われる。今回の騒ぎも、風邪引きの注文と同じで、本質的な意味は、全くないものであり、検査を要求しても、何の解決も得られない。にも拘らず、それができないことを、必死で訴える。何の意味もない、と断ち切ってしまえば、それだけなのだが、あの仕組みには、それはできない。更に、その場での説得は、時に、火に油となり、総攻撃が始まりかねない。何とも、馬鹿げた世界になったものだ。

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2月25日(火)−発言主

 大人の、身勝手な発言が、相次いでおり、多くは、暴言とか妄言とか、そんな類のものだ。非常識極まりない内容に、相手をする必要はなく、唾棄すべきものだろう。これは、つまり、その発言者も、打ち棄てられるべきもの、という意味にもなる。ゴミなのだ。
 そんな連中のことは、気にかける必要はない。しかし、一方で、常識的で、優れた発言を、している人間に対する、一部の人々の反応は、常軌を逸しているように思う。誰が、発言したかで、内容を、区別するのが、一種の癖となる、そんな人々は、屡々、判断を誤る。内容を、吟味することなく、発言者の、地位や名声など、そんな装飾に、目を奪われて、内容の信頼度を、決める人は、よく騙されるのだ。そうしておいて、自分の不識を、恥じることなく、懲りずに、同じことを繰り返す。これでは、何かを、手に入れることは、叶わないだろう。その一方で、市井の人に、過ぎぬ立場に、含蓄のある発言も、無視されることが、数多くあった人物は、数え切れぬ程居る。彼らが、その扱いにより、害を被ることは、殆どないが、折角の言葉が、何一つ、届かないことに、落胆は、かなりのものだろう。だが、それとて、社会の中では、特に、問題となることはない。所詮、名も無き人の、発言などに、耳を傾ける必要は、ないからだ。ただ、最近は、その状況にも、変化が起きているらしい。発言の機会は、誰にもあり、どこかで、誰かの気を引けば、注目を浴びることも、可能となる。そんなことは、稀に違いないが、皆無だった時代とは、少し違っている。だが、著名な人物の発言は、やはり、力を持つようだ。先日も、ローマやギリシアの話を、記すことで、名を得た女性が、母校を訪ね、講演会で、話していた。投げやりな口ぶりを、除けば、内容は、ごく普通であり、どこかで聞いた話だった。でも、彼女が話せば、別の力をもたらす。

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2月24日(月)−諦めない

 素直、という言葉は、こんな時に、使うものではない、と思うのだが、それしか、思い浮かばない。世の流れに従い、良いことも、悪いことも、全て受け入れているように見える。これを、素直だと見れば、当然のように、思えてくるのだが、それにしても。
 30年程前に、始まったらしいが、それが、空白とも言われる時代と、重なり合って、長く続いた、と言われている。その間に、社会に出た人々は、その多くが、恵まれない境遇に、追い込まれた、とされるのだ。ある割合で、それが当てはまったのは、事実に、違いない。しかし、それを、そのままにして、今に至る人々が、突如として、光を浴びたのを、眺めていると、何故、今まで、満たされない境遇に、と首を傾げてしまう。諦めが、先に来る世代、とも紹介され、まるで、不幸の塊のように、扱う場合もあり、何をそこまで、と思うけれど、当人達は、大真面目に、そう主張する。そこがまさに、素直、なのだと思う。似た状況は、戦後の人口急増にも、当てはめられている。ここでもまた、不幸の原因を、そこに求める動きが、強い。だが、どの世代にも、良い時と、悪い時があり、その巡りにより、不幸だったり、幸福だったり、巡り巡ってくるのだ。ある世代は、大学に進学した年に、家族が、紙製品の売り場に、殺到していた。石油の輸入が、滞ると言われ、それが、何故か、紙の供給に、影響を及ぼすとの見解が、こんな喧噪へと結びついたが、単なる不況の、始まりに過ぎなかった。不況は、いつも通りに、暫くの間続き、その世代の卒業時には、就職口が、見つからなかった。彼らの多くは、先送りとばかり、大学院に進学し、2年間の猶予を、自身に与えた。これは、諦めではなく、別の可能性に、賭けただけのことだ。すると、修了時には、状況が一変し、多くの就職口が、開かれていた。それだけのことで、何もないようだが、結果的には、自分で解決しただけなのだ。素直とは、何とも面倒なものだ。

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