パンチの独り言

(3月9日〜3月15日)
(数字を読む、何が怖い、蘇る記憶、信頼失墜、慌てず、失策、忘れる)



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3月15日(日)−忘れる

 前の元号の時代、天変地異が、度々起きた。突然、襲ってくる、自然の脅威に対し、為す術も無く、立ち尽くす人が、その度に、出ていた。彼らの多くは、被災者と呼ばれ、その後の復旧において、様々な支援を、受けることになる。そのことが、傷痕を、残したとされる。
 大震災という括りでさえ、こう度々と起こるとは、誰も予想しなかった。だが、長い歴史では、偶然が、重なることがあり、こんなことは、珍しいとは、言えないだろう。特に、地震だけでなく、多くの天変地異では、それが、重なることも、あり得る訳で、弱り目に祟り目とか、泣き面に蜂とか、散々な状況を、表す言葉で、表現される。それはそれで、途方にくれるしかなく、災いが、去ることを、祈るしか、手立てが見つからない。そんな中、確かな支援を得ても、簡単には、日常が、取り戻せず、品物だけでなく、身内の命までも、失う中では、心の平穏を、取り戻すことは、難しくなる。それが、風化を恐れ、支援を頼る気持ちへと、繋がることもあり、心の蟠りを、消し去ることが、できない自分自身への、不満へと、繋がることもある。だが、次に起きた震災でも、被災者と呼ばれる人々が、出てくるわけで、彼らとの比較は、心の穏やかさを、失うことに、結び付くことさえある。その悩みに、沈む人に対して、かける言葉を、見つけられず、別の悩みを、抱える記者を、扱った番組があったが、何故、という思いしか、残らなかった。被災者という事実に、何の変わりもなく、別の震災でのこととは言え、それは、お互い様でしかない。先に起きたことだから、もう、そう呼ばれることは、心苦しいとの思いは、ある意味、当然のことかもしれないが、かといって、事実は、変わることはない。呼ばれるのが、嫌ならば、仕方ないが、だから、事実が消せる筈もない。忘れるのは、自分の問題であり、他人に任せるものではない。風化も、根が違うとはいえ、同じ部類の問題だろう。

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3月14日(土)−失策

 要請が、発表されてから、国民の気持ちは、塞ぐばかりと、なっているようだ。後付けで、様々な方策が、講じられても、不安が、解消されることなく、親の態度を、眺めるだけの、子供にとっては、訳も分からず、ただ、無理強いを、されているだけに、映るだろう。
 感染の広がりを、防ぐ為の方策として、要請を出したと、信じているようだが、今回の措置の多くは、当て外れに、なっているようだ。何しろ、学校に来るな、としたとしても、子供によっては、行き場を失い、他の場所に、行かざるを得なくなった。それは、時に、学童保育であり、その環境が、必ずしも、学校より良い、とは言えない状況にある。少し年齢が上がると、親と子の依存は、弱まるから、親も、子供を置いて、出かけるだけで、何の手当ても、必要とならない。だが、放置された子は、ある意味当然だが、これ幸いと、勝手に外に出て、仲間と遊び呆ける。これもまた、要請の思惑とは、違った方に向かい、この時ばかりと、普段は、満員で入れぬ場所に、出かける子供が居る。流石に、人気の遊園地は、批判を恐れて、休園を続けるが、食事の場所など、人が集まる所は、休む訳にもいかぬ、とばかりに、営業を、続けているから、どうにもならぬ。特に、狭い店内を、人が満たす場合、要請の対象となる、危険な場所が、出来上がることになる。わざわざ、学校を休ませ、より危険な状況に、追い込むのも、人それぞれの判断、なのだとしたら、一体全体、この措置は、何の為なのか。一個人の感染ではなく、感染の拡大を、減らすことこそが、目的だとすれば、逆効果でしかなく、無意味どころか、悪影響を、及ぼすことになる。それ位なら、通常通りに、学校に通わせ、普段より、注意させることで、感染を防ぐことの方が、遥かに、妥当なものとなる。後々、失敗事例として、隣国同様、並ぶことになるか。

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3月13日(金)−慌てず

 この一週間、静観する間に、下落を続けた相場は、ここに来て、更に、下げの勢いを、増しているように映る。このままでは、雲散霧消してしまう、と叫びたくなるかもしれない。だが、この所の上昇が、根拠もなく、続いていたことを、考えれば、不思議でもない。
 景気が、回復しているから、と言われてきたが、その実感のないままに、ゆっくりとだが、上昇を続けた、国内相場は、ここに来て、一気に、下落の勢いを、増している。一方、海の向こうは、実体経済が、上昇しているとの解釈が、後押しとなって、急激な上昇を、続けていたが、これを機会に、暴落とも思える、様相を呈してきた。政治家と、経済関係者は、市場の混乱を、正常化する為の、方策を講じるが、日替わりの、乱高下が続き、遂に、弾が尽きたかの如く、起きた暴落に、講じるべき策も、尽きてしまったようだ。各国で、同じ状況が、続く中、一巡りした相場は、さて、どんな様相を、示すのだろうか。と言っても、空売りを、手段とする人間以外には、総崩れの相場では、静観が、精々となる。全面安の声を、聞く中では、空売りが、唯一の、儲ける手段だが、それも、長くは続くまい。となれば、所謂塩漬け、保有する株が、どんな動きをしようが、持ち続けるしかない。相場全体での、暴落は、これまでにも、数々、起きていた現象で、その度に、資産を失った人が、多く出てきたが、とはいえ、その後の回復で、莫大な利益を、得た人々も、数え切れぬ程居る。今、保有する株が、元値に戻っても、何の利益にもならず、後者に、当てはまることは、決してないが、かといって、慌てて投げ売りすれば、損失が、戻ってくることはなく、前者の憂き目を、見ることになる。やはり、前回、書いたのと同様に、静観が、こんな相場の、生き延び方だろう。投資を、始めた頃に、比べてみれば、まだまだ、先は、長いと思える。

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3月12日(木)−信頼失墜

 遅きに失した、との反応が、直ぐ様起きた。だが、実際には、遅いも何も、信頼そのものが、失墜していたから、宣言自体が、無意味と言うべきで、これまでの、不可解としか、言えなかった、迷走ぶりが、やっと終わった、だけのことだ。存在価値が、無なのだ。
 当初から、各国の事情ばかりを、忖度する姿勢に、数々の批判が、浴びせられていた。救いの手だったのか、解釈にも、因るのだろうが、高額の寄付が、感染源の国から、なされるとの報道は、批判者の多くに、やはりと思わせた。はじめから、意味不明な発表ばかりで、それに、輪をかけていたのは、日々、変化するデータを、解釈するのさえ、覚束無い、無能ぶりに、存在自体が、無価値との批判まで、出てくる始末だった。これは、他の世界機関に対しても、当てはまることで、本来の目的から、大きく逸脱し、活動資金を、稼ごうとする、思惑ばかりが、目立ってきた、近年の状況には、潰してしまえ、との意見さえ、出てくるようになっていた。資本主義の世界で、何を、どのように、制御するかは、金銭的な感覚ではなく、思いが、優先されてこそ、達成できる目標となる。その意味で、この国から、参加した人々は、高い志を持ち、毅然として、業務に当たってきたから、概ね、高い評価を、受けてきた。しかし、今、件の組織を、司る人々は、人の命より、大切なものが、あるかの如く、忖度を繰り返し、思惑を、露骨に表している。既に、信頼は、無いのだから、宣言にも、耳を傾ける必要はなく、見限って良いのだ。報道も、その位の厳しさを、持って然るべきだが、自らの不明が、暴かられることを、恐れているのか、何の批判もなく、ただ、発表内容を、伝え続ける。次は、あの機関ではなく、ある国、疾病の予防管理に当たる組織が、収拾を目指すことに、期待するしかない。前にも書いたが、感染症自体の、危険度を、評価することと、感染後の対処を、定めることが、重要なのだ。特効薬に、期待するのではない。

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3月11日(水)−蘇る記憶

 ある業界では、映像で訴える効果は、絶大だと言われる。これは、煽りばかりで、役立たずの、あの業界ではなく、専門的な、実験結果を、伝えることで、研究成果を、広めている、所謂学会の一つだ。数値を、表やグラフにするより、変化を、動画とした方が、良いとされる。
 この効果は、特に、専門家の間ではなく、別の分野の人や、科学とは無縁の人々に、強く現れる、とも言われる。分析的な手法に、不慣れな人々でも、視覚に訴えれば、理解を、促すことができる、という訳だ。だが、これも、作為が、入り込むと、事実とは異なる、都合の良い結果のみを、知らせるという、結果の改竄が、行われることに、繋がってしまう。鋏の使いよう、とでも言うべきだろうか。何れにしても、映像の効果は、強いものだけに、使い方を誤ると、逆効果や副作用が、起きてしまう。衝撃的なものは、精神的な傷を生じ、深刻な後遺症を、起こさせるとも言われる。その配慮とは、少し違う判断からか、大地震の直後に、各地を襲った、津波の映像は、ある制限をかけられた、と言われている。同じ映像が、外国で流れた時、全く異なる場面が、展開されたことに、驚いた人が、多かったとも伝えられる。だが、事実を正確に、伝えることこそ、記憶の風化を、防ぐとのことか、多くの被災者から、精神的な配慮から、映像を編集することに、反対する意見が、あったとされた。だとしたら、正確な情報を、流すことこそが、第一となる、との解釈も、あるのだろうが、果たしてどうか。事実とは、時に、悲惨なものであり、過度な刺激となり得る。その懸念から、一部の映像が、編集後に流され、真の事実とは、異なるものを、伝えていた。だが、この意見を求める時、どんな映像を、被災者が思い描いたかには、全く触れられておらず、ある意図を持った、断定的な結論のみを、伝えたのではないか。記憶は、薄れるのが、当然のことで、その過程を経て、なお、残るものにこそ、意味があると思う。

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3月10日(火)−何が怖い

 数字には、感情が、入り込む余地は無い。一人ひとりの顔を、思い浮かべながら、思い出を語る人が居るが、名前が、特定できる場合に、限られる。それが、数字になってしまえば、誰かを、特定できず、その中の一人、にしかならない。今の数値は、まさにそれだ。
 時には、個々の問題を、取り上げることも、必要となるが、現状は、それより、全体を把握することの方が、遥かに重要となる。報道では、各地で、増え続ける感染者数や、死亡に至ってしまった人の数を、一つひとつ、取り上げることが、さも重要かの如く、扱っているが、判断を下す為には、そんなことは、瑣末でしかない。それより、全体の動向を、どう捉えるかが、不可欠となり、それを、どのように行うかが、施政者の課題となる。それでも、増え続ける数そのものに、目を奪われてしまい、全体把握を、怠ってしまうと、判断を誤ることとなる。今は、世界中で、その状況に陥り、抜け出せなくなっている。その原因は、病原体の危険性を、正しく分析し、それを、世界に、正しく伝えることを、できていない世界機関にある。感染症の恐怖は、二つの様相を、持っている。一つは、感染力の強さであり、どの位の速度で、蔓延するかが、その判断基準となる。だが、もう一つの様相こそが、決定的なものであり、そちらに、目を向けないままに、恐怖を煽るような、言動を繰り返したことが、あの組織の過ちだった。それは、感染により、どの位の割合が、死に至るか、という致死率である。感染の広がりだけを、指標にすれば、単なる風邪や、流行性感冒は、脅威と見るべきものとなる。しかし、通常のものでは、死に至ることは少なく、問題とされない。今回のものは、騒ぐばかりで、その解析を、怠っていることから、恐怖の拡散を、止めることが、できなくなっている。しかし、徐々に、明らかとなりつつある数字は、まさに、恐れるに当たらず、ということを、示しつつある。

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3月9日(月)−数字を読む

 未だ、騒ぎの最中にあり、結論を出すべき、時では無い。それだけは、確かなことで、日々、変化し続ける数字を、どう解釈するかは、今後の展開を、見通す為に、重要なことだが、確実なことは、何も言えないのだ。だとしたら、今、必要なことは、何なのか。
 ここで、繰り返し書いてきたように、頼りになるのは、経験でも、勘でもなく、日々、発表される数値を、どう扱うのか、ということだ。統計に基づき、それに、経験を重ねて、導き出した、状況把握は、これまでの変化を、正しく理解するだけでなく、今後の展開への、推測を可能とするだろう。それを済ませた上で、方策を練らなければ、対策を講じたとは、言えなくなる。だが、今、各国の政府や、世界機関で、行われているのは、如何にも杜撰で、場当たり的な、分析でしかない。このような混乱を、抑え込むことこそ、彼らに課された役割であり、それを、沈着冷静に、進めてこそ、選ばれし者達、と呼ばれるだろうし、歴史に、名を残すことも、できるに違いない。だが、このままでは、汚名だけが、後世に伝えられ、誤った判断の、事例として、歴史に名を刻むことになる。もし、それが、嫌だとしたら、二つしか、選択肢はない。一つは、正しい判断を、下す為の分析に、手を付けることであり、もう一つは、潔く、任から退くことだ。どちらが、簡単かは、明らかだろうが、それが出来る程に、彼らの危機感は、高まっていない。口先だけの危機感では、効果を上げることも、真の危機を回避することも、出来る筈はない。では、何処に、端緒が見つかるのか。数字を、正しく読むことこそ、その為の手立てを、見つける為の道なのだ。だが、正しいとは、何を、どうすることなのか。少し考えれば、簡単に解る筈だ。

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