パンチの独り言

(3月16日〜3月22日)
(無駄な輩、無理解、勝敗の行方、騒がず、狂気の沙汰、自覚症状、戦時)



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3月22日(日)−戦時

 要請の発表から、責任を強調し、その雰囲気に、強い違和感を、覚えたのは、もう二週間ほど前のこと、少し考えるうちに、違和感が、戦時の状況との類似、によるものと気付いた。国家総動員法、実態を知る人は、ずっと少なくなり、どんな状況かは、想像できない。
 だが、非常事態宣言が、各国で、発表されるに至り、戦時のよう、などという表現が、屡々、使われるようになった。とは言え、実際、同じか違うか、判断に苦しむ。自由が、強く束縛されることは、同じなのだろうが、その原因は、全く異なる所にある。ある目的を、達成する為、という点では、同じように、思えるのだろうが、敵味方に分かれ、人間同士が、戦うものと、得体の知れない、病原体との戦いでは、事情は、大きく異なるのだ。特に、目に見えぬ敵に、戦いを、挑むということに、皆の思いは、微妙なものだろう。ふと思うのは、あの大国が、小国の内戦に、加わる中で、長期戦が続き、何処に潜むか、分からぬ相手に、前線の人々の、精神が壊れた話だ。旗を立て、声を上げながら、戦いを行った、戦国時代の侍と違い、じっと潜み、物陰から狙う、見えぬ敵に、恐れ戦く心は、崩れ落ちたと伝えられる。では、この見えない敵との戦いは、あの不毛な戦いと、似たものなのか。否、と答えるしかない。敵は、目に見えずとも、襲われた途端に、死を迎える訳ではない。正しい治療を、施しさえすれば、多くは、助かるのだ。だからと言って、向こう見ずに、振舞って良い訳ではない。まず、自分なりの最善を、如何に、尽くすかが肝心であり、その上で、避けがたい事態に、陥った時には、次の段階で、最善を尽くして貰う。今、恐怖に負けては、大切なことを、失いかねない。冷静に構え、情報を分析し、判断を下す。普段から行ってきた、同じことを、繰り返すだけだ。日常を、大きく変える必要は、まだ無い。

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3月21日(土)−自覚症状

 ここ2ヶ月程、流行する感染症について、思う所を、書いてきた。専門家でもない人間が、書くことには、誤解もあるだろうし、無理解もあるだろう。しかし、基本的には、的を外していない、と思っている。世は、他人の意見を、批判するだけ、となっているが。
 誰かの意見を、批判することは、論理について、少し学べば、難しくはない。しかし、今、世に蔓延る批判の殆どは、論理の欠片もなく、ただ、感情に駆られた、無意味なものばかりで、百害あって一利なし、というものばかりだ。ところが、無知な人々は、感情に訴えられると、それを鵜呑みにする。衆愚政治の典型は、こんな中で、築き上げられる。だからこそ、下らない意見に、目を向けてしまい、それに、振り回されて、時間だけでなく、財産や、自分の命さえ、無駄にしかねない。我田引水でもなく、自画自賛でもなく、ただ、冷静に、実情を理解し、伝えられる情報の、矛盾を、突き止めたり、要人達の意見の、脆弱性を、追及する。そこに、意味がある、と信じるからこそ、毎日ではないが、かなりの頻度で、その時、その時の、状況把握と、問題となる点を、指摘し続けている。それでも、例えば、風邪程度のもの、という判断は、今では、間違いだった、と指摘されるかもしれない。だが、異常な程の、感染者の増加が、伝えられる国々では、死者の数も、増え続けているが、それでも、精々、一割にも満たない、致死率に過ぎない。大多数は、発症さえせず、ただ、検査により、発覚しただけのことだ。彼らの多くは、これまでにも、経験したことのある、軽い風邪程度の、症状を示し、時には、それさえ起こらず、自覚症状なしで、終わっている。要は、重症化した時の、対処法を、備えることが、肝心ということだ。怖がるだけでは、何にもならない。

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3月20日(金)−狂気の沙汰

 四半世紀が、経過したと伝えていた。事件が、起きた時の反応は、ある意味、不思議なものだった。はじめは、原因不明の騒ぎだったが、それが、多くの路線で起き、被害者の数が、徐々に明らかとなると、事故ではなく、事件として、注目が集まったのだ。
 テロという言葉は、知っていたとしても、爆破事件や、ハイジャック事件が、起きていた時代から、既に、四半世紀程が、経過していたから、多くの人々は、すぐには、理解できなかっただろう。一報が、伝えられた場所に、集まっていた人々は、偶々、青春時代が、重なっていたから、馴染みのある話題だが、それでも、四半世紀もあれば、殆ど、忘れかけていた。その後、犯罪組織が、明らかとなり、その活動場所、半世紀前の表現で言えば、アジトが、明らかとされ、捜索が始まると、狂気に満ちた施設に、驚いた人が、多かったろう。その上、組織が、ある信仰に基づく、宗教団体となれば、まさに、狂信的な集団が、歴史上、例を見ないと言われる、凶悪極まる事件を、起こしたこととなり、宗教に対して、無防備な民衆は、驚きを隠せなかった。人々は、何かしらの、不安や心配があり、それが、解決できないと、時に、縋るものを求め、それが、宗教へと繋がることがある。徐々に、明らかとされた、犯人達の事情は、まさに、そのものであり、その中で、君臨していた教祖の、まさに狂気としか、思えぬ言動も、信心によれば、受け入れるべきもの、と映ったとされる。しかし、狂気は、狂気でしかなく、自らの欲望を、満たす為だけの、ものだったことは、明らかだろう。その上で、教義は、狂気とは、異なるものとして、今でも、活動を続ける団体は、どんな存在意義を、持つのか。縋るものを、求める人間には、一本の藁と、見えているのだろうか。だが、その藁は、何に繋がっているのか。信仰の自由と、狂気の問題を、改めて、考えた方がいいのだろうか。

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3月19日(木)−騒がず

 はじめの頃、増え続ける数字を、垂れ流すだけで、無意味なことを、繰り返す姿勢を、厳しく批判したが、今もまた、同じ状況が、続いている。数字を、流していれば、情報伝達ができる、とでも信じているのか、それとも、数字から、見え隠れする事実を、見抜けないのか。
 何れにしても、無能なのだが、それが、世論を、左右させることは、誰の責任なのか。公共電波は、その使用に対して、認可が必要だから、それを、与える役所に、責任があるのか。また、新聞の流通には、優遇措置が、取られている、と言われるから、それを、与える役所に、責任があるのか。それとも、その役所を、監督する、この国の頂点に、君臨する人間に、責任があるのか。実は、こんなことは、瑣末に過ぎず、現状の問題を、解決する手立てには、なる筈も無い。にも拘わらず、世の人々は、さも重要なことのように、騒ぎ立てている。確かに、情報源の問題は、重要なのだが、今、進行中の問題も含め、その殆ど全ては、庶民が、作り出しているのだ。自らの無知を、覆い隠すように、他人の責任を、問い質しているが、彼ら自身が、落ち着いて、対処すれば、殆どの問題は、解決へと向かう。だが、冷静を失い、騒ぎ立てることこそが、群衆の心理であると、言われていることから、それを、如何に、鎮めるかが、重要であるとも言われる。だとしたら、結局、情報源の能力を、高めるしかない。しかし、数値の解析だけでなく、そこから導き出される、解釈の説明自体に、問題があるとしたら、事は、簡単ではないだろう。思惑や、目論見ばかりが、優先される中で、騒ぎ立てることが、目的となっている場合には、特に、難しくなる。だとしたら、他力本願には、期待できそうにない。まずは、自身の気持ちを、平静に保つことが、第一となる。騒いでも、所詮、何の役にも、立たないからだ。

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3月18日(水)−勝敗の行方

 ウイルスとの戦い、と各国の指導者達が、口にし始めた。だが、科学者によれば、人類は、その戦いに、勝利を収めたことは、無いと言う。期待を含め、そんな筈は、と思う人が、多いだろうが、現実には、感染そのものを、防ぐ手立ては、殆ど無いに等しいのだ。
 だが、人類は、滅亡しておらず、勝ち残ってきた、とも思うだろう。事実は、その通りなのだが、感染そのものを、防いだのではなく、単に、治療の結果として、回復したからなのだ。どこに、視点を置くかで、これ程に、解釈は、違ってくる。今回の危機も、冷静に眺めれば、そこに、様々な問題が、見えてくる。多人数が、集まる場所の危険性が、著しく強調されるが、その中で、感染の確認が、できた人の数は、おそらく、一割程度なのではないか。他の人々は、免疫により、体質により、体調により、それぞれ、違う事情で、感染を防げたのだろう。だが、型が変われば、免疫や体質は、無力と化すだろうし、体調は、山谷があり、誰もが、常に安全、とは言い切れない。これが、戦いに、勝ったことが無い、と言われる所以なのだ。これらが生じるのは、多様性によるもので、個人差が、あればこそのことだ。今、話題となっている、多様性は、所詮、机上の空論に、過ぎないことだが、こちらは、真の多様性の、お蔭なのだ。一方、ウイルスは寄生体であり、宿主が居なければ、自らも絶滅する。だからこそ、致死率が、100%となっては、不都合も生じる。また、そんな病原体では、感染力が高ければ、局地的な広がりで、終息を迎える。生き物の世界は、こんな形で、危ういながらも、均衡が保たれ、ヒトという種も、そんな中で、長い時代を、生き抜いてきた。そう考えれば、今の騒ぎは、度を越したものであり、不安心理の極み、と見るべきものだろう。まずは、平静を保ち、心穏やかに、過ごすことが、大切だ。

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3月17日(火)−無理解

 最後の切り札が、出された、と言われるが、その効果は、期待通りでは、なかったようだ。それも、大国とは言え、一つの国だけでなく、協調した政策転換が、発表されたにも拘わらず、なのだ。経済界は、大混乱を来し、打開策を、探し続ける。が、見つからない。
 これが、恐慌へと繋がる、と懸念する向きもあり、それが、世界的な混乱、つまり、多国間の争いに、繋がるのではないか、との懸念も、出てくると見る向きもある。だが、問題の本質を、見極めることなしに、軽率な判断を、下すのは、余りに愚かなことだ。バブルにしても、リーマンショックにしても、この所、顕在化してきた、経済危機は、経済の仕組みに、問題の根源があった。それに対し、今回の危機は、経済的な影響が、大きいとされるが、それより、人の命に関わることが、問題の根源にあり、その解決こそが、危機回避に向けて、最重要の課題となっている。これは、医療の問題であり、経済政策の問題では、あり得ないのだ。ただ、経済に関わる人間に、できることは、限られている。根源の問題を、自らの力で、解決できないのであれば、表面的な問題を、解決する手段を、講じていくしかない。現状は、まさに、その状況にある。一方、もう一つ、無理解が、蔓延っていると思えるのは、感染の広がり、に関してだろう。こちらも、医療行為と思い込む人が、多いようだが、実際には、封じ込めや、移動禁止など、社会的な制限を、かけることが、主体となっており、これもまた、政策によるものとなる。では、何が、医療なのか。感染者が、重症化しないようにする、結局は、死に至ることを、防ぐことこそが、医療の本質なのだ。だとしたら、現状で、感染者の拡大に、目を向けるより、重症化の率や、治療の効果にこそ、目を向けるべきだろう。特効薬への期待は、当然だが、今できることで、どんな治療が、可能なのかを、明らかにすべきだ。死者が急増している国には、何かしら、事情がありそうに思える。

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3月16日(月)−無駄な輩

 檻の中の猛獣に、肉の塊を、投げつけたように、歯を剥き出して、群がるような姿に、見る価値も、見せる価値も、無いだろう。にも拘わらず、懲りない連中は、挙って、的目掛けて、礫を投げつける。憶測が、憶測を呼び、勝手な結論を、導き出している。
 今、迫り来る危機から、目を逸らすように、別の肉塊へと、飛び付く姿には、何の価値も無い。だが、公共電波を、独占する輩は、ここぞとばかりに、一斉攻撃へと、飛び出している。本来、広告料を、頼りにするのに、その主達を、危機に追い込むような結論さえ、平気で口にするのは、裏切り行為以外の、何物でもない。感染症に関しても、専門的な知識の、欠片も持たずに、好き勝手なことを、言い散らしてきたが、今度は、得意とする、推測を、重ねているらしい。的となる人物は、責任ある立場にあるが、政治の世界で、君臨していた頃、嘘に塗れた、迫真の演技で、国民を、騙したとされる。だが、騙されたのは、今、騒ぎ立てている、あの世界の人々であり、裏も取らず、信じ込んだ末、まんまと操られただけのことだ。今度は、善悪の役割で、世論を、操ろうとする、と断じているようだが、だとしたら、当人を、責めれば済む。それをせずに、推測や、思惑で、世論を、操ろうとするのは、同じ穴の狢でしかなく、詐欺師という呼称を、使うのならば、何方にも、当てはまる話だ。ここでも、不安や心配を、連ねることで、主導権を、握ろうとするだけで、その目的は、定かではない。何の目的も持たず、ただ、注目を、浴び続けたい、と願うだけで、社会を、より良くしようとも、不正を、徹底的に暴こうとも、思っていないのだ。結果が、どうなろうとも、この騒ぎを、起こすことで、更なる混乱を、招くことは、決して、許されるものではない。唾棄すべき存在、に違いない。

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