パンチの独り言

(3月23日〜3月29日)
(自力分析、生存権、愚者愚者、締め付け、経済馬鹿、騙し方、決め付け)



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3月29日(日)−決め付け

 大震災の後、発電所の事故が、人々の恐怖を、招いた。当時、多くの専門家と呼ばれる、科学者達が、状況説明に、駆り出されたが、あやふやな言葉に、罵声が浴びせられた。様々な経験を有し、あらゆることに、対応できる能力を、発揮できる筈が、何故、そうなったのか。
 最大の要因は、科学的な見地を、説明する為の言葉の、難解さにある。難しい科学の話を、分かり易い言葉で、という試みは、それまでにも、街中で、お茶を飲みながら、という形で、行われており、簡単なことのように、受け取られていた。しかし、現実には、説明できる話を、説明していただけで、難しい話を、分かり易くしていた訳ではない。事が起こり、いざ、知らない話を、科学者なりの易しい言葉で、説明されても、不安や心配が募る頭には、何も入ってこなかった。その上、何が起きるかの説明で、異なる結末を、様々に紹介され、それが起きる確率は、等と、言われてしまうと、今起きるのは、とか、自分はどちらになるのか、戸惑う頭に、更なる混乱が、引き起こされた。それが、結局、科学嫌いを、増やすきっかけ、となったのだろう。科学技術の発達が、今の危機を、産み出したとさえ、罵られる始末に、誠実な説明を、行う人間達は、その場から去るしか、手立てを見つけられなかった。さて、ここまでの話は、今回の騒動にも、当てはまるのではないか。感染症の広がりと、それにより生じる、命の危険性について、医学に携わる人々が、様々に、説明を施してきた。しかし、その見解の多くは、状況の変化に従い、変更を余儀なくされ、信頼が、失われつつある。一方で、経済的な危機から、政治家達は、恐慌に陥り、極端な判断を、下し始めている。本来なら、科学的な判断が、必要となるが、通じそうにないからか、あるいは、自身が理解できないからか、断定的な話で、済まそうとしている。それは、結局、脅迫じみたものであり、被害者が、最強と呼ばれる時代には、敵視されることになる。さて、どんな展開が、待っているのか。

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3月28日(土)−騙し方

 脅迫されている、と感じた人が、多いだろう。不安や心配を、煽ることを、常とする媒体に、突然現れた首長は、まるで、SFの筋書きのような話を、大真面目で、語っていた。だが、口にする言葉は、相変わらず、重みが感じられず、脅されている、と思えただけだ。
 何故、こんな受け止め方を、されてしまうのか。それは、常日頃の、態度から来るもの、なのだろう。政治家の典型として、嘘も方便を、地で行く人間が、突然、真面目な話を、することで、窮状を伝えようとしても、空振りに終わることは、明らかなのだ。その上、根拠となる数字が、何を意味するのか、当人さえ、理解できていない、ように見える。こんな状況では、深刻さなど、伝わる筈も無い。では、何が、足らないのか。最大の要因は、ここ数日の変動から、爆発が起きる前兆、との分析を、披瀝したとしても、その根拠が、何処にも示されなかった、ことにある。数字の変動が、爆発的な感染の広がりを、示した地域と、同じ傾向にある、ことを示す推測結果を、示すことは、科学的な解釈の常識、と言われている。しかし、彼女が、話すのは、ただ、ある数値を超えたことと、それが、前兆であるとの推測、という名の、ただの話なのだ。SFでさえ、こんな展開を進めれば、データが意味する所を、示すことで、現実味を帯びさせ、如何にも、本当の話のように、飾り立てるものだ。一方、現実の話を、伝えている筈の人間は、部下から聞いた数字を、そのまま読み上げ、それが、深刻な状況を示す、と訴える。誰に、話しているのか、本当に、説得しているのか、全く見えてこない。で、結局、その日を迎え、おそらく、普段と変わらず、好き勝手に振る舞う住民が、動き回るのだろう。もし、何も起きなかったら、私の会見の効果、と自慢するかもしれないが、そんなことを、信じる人は居ない。不謹慎な話をすれば、こんな時こそ、世間で話題となる詐欺師共の、口車を、教えて貰ってはどうか。騙したければ、そこまでしないと。

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3月27日(金)−経済馬鹿

 平日の朝、出勤前に、情報を得ようと、新聞と共に、眺めるのが、習慣となっている人も、多いだろう。経済情報は、それ程に重視され、日々の変化に、乗り遅れぬよう、努めるのが、できる大人の常識、とも言われている。だが、今、その綻びが、見えている。
 政治家の振る舞いに、不安が収まることはなく、状況は、悪化の一途を、辿っている、とまで言われるが、独裁政治だろうが、合議制だろうが、どちらにしても、決定に関わるのは、幅広い知識を持ち、大局的な見地から、決断を下せる、経験豊かな人間ではなく、人気取りに走り、他人の意見に、振り回される、判断力の欠如が著しい、欠陥人間ばかりなのだ。一方で、経済の動きに関わる人々は、無知な政治家を、冷ややかな目で見つめ、批判をしながら、冷静に、投資判断を、下せることを、誇りとしてきた。そんな人々が、出演する番組に、頼りになる情報を、期待する人が、多いのは、当然のことだろう。だが、彼らとて、万能ではない。また、番組自体も、こんな事態が起きると、経済への偏りが、目立ってくる。問題の本質を、捉える為には、感染症の本体と、増大する感染者の動向を、知ることこそが、不可欠なのに、はじめから一貫して、その専門家の意見を、伺うことなく、その気配さえ、見せていない。視聴者から、そんな意見を、受けている筈だが、方針を転換せず、強い姿勢を、貫いているようだ。それが、非常識に思えたのは、ある特集が、流れた瞬間だった。毎週流される、順位付けの企画は、人気があるのだろうが、このご時世に、如何なものか、と思えた。全国の市場の順位は、週末の企画として、休日に出かける場所を、紹介するものだろうが、首都周辺で、外出自粛を、求められる最中に、不適切としか思えない。お蔵入りさせてでも、違う話題を、取り上げるべき、だった。

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3月26日(木)−締め付け

 無知な輩、という意味では、政治家の多くは、その類のものだろう。今回の騒ぎで、露呈した、彼らの無知に、呆れるばかりだが、その原因は、おそらく、政治家の資質への、大きな誤解だろう。経済や法律に、通じていることは、政には、確かに、必要なのだが。
 こんな混乱が、起きた時には、実は、経済や法律の心配より、目の前の問題、感染症への対策を、如何にするか、という点に、注目が集まる。その中で、被害が広がる、各国の首脳達の、処し方の中には、まるで、芝居がかった言動で、窮地をすり抜けようとする、情けないものが多く、知識不足や無理解が、大きな障害となっていることが、明らかとなった。確かに、万能な人間など、居る筈もないが、だからこそ、重要な立場にある人間は、不足分を補う人材を、雇っているのだ。その助言をも、無視しての暴走は、論外だが、国を率いる責任を、誤解したかの如く、妄言を発するのは、混乱を高めることにしか、結び付かない。ふと思ったのは、以前なら、国の要職に携わる、医師や科学者が、散見されたし、専門職でなくとも、理系の学問を、修めた人々も、多く見られた。ところが、国の繁栄は、経済や法律を、重視することで、達成されるとの誤解が、こんな状況を招いたようだ。経済を優先させ、医療体制を、崩した所への、今回の騒ぎは、まさに、惨禍を招いたとも言える。自治体の首長の発言も、支離滅裂なものがあり、呆然とするが、国内最大の自治体でも、重大局面との判断で、会見を開いていた。そこでも、誤解を招く発言、とも思えるものがあり、騒ぐことが好きなだけの、無知蒙昧ぶりを、発揮していた。三つの重なり、との専門的な指摘に対し、三つの密と、紹介する発言には、一つではなく、全てを避けるべき、との意図が、垣間見えていた。強い制限を、好む権力者には、有り勝ちなものなのだろう。

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3月25日(水)−愚者愚者

 非常事態に近い状態では、物分かりの悪さを、実感させることが、度々起きる。枚挙に暇がない、とまでは、行かないが、次々に出てくるから、きりがないと思える。だが、原因は、無理解と、それを助長する仕組みの、組み合わせなのだ。無知な輩によるものだ。
 危機回避の為に、様々な方策が、講じられるが、それを理解せずに、勝手な解釈を、押し付けてくる。本来なら、愚かな行為、とでも片付け、無視すれば、いいだけのことだが、こんな時に限って、さも重要なことの如く、取り扱われる。愚かな人々を、愚かな人々が、取り上げるのだ。前者は、善良なる市民、と呼ばれる人々であり、後者は、報道に携わる、連中のことだ。今回も、その典型事例が、取り沙汰されていた。恐怖の対象となるのは、感染症の病原体であり、見えぬ相手に、恐れ戦くのは、ある意味、止むを得ないと思える。だからこそ、何が重要なのか、専門家達が、わかり易く、説明をしていた。重要なことは、三つの要素が、重なることを、如何に避けるか、であるとの説明は、理解力が不足する、一般市民にも、届くと思われたが、混乱に戸惑う人々には、上手く届かなかったようだ。自己中心的な考えに、取り憑かれた人々は、重なりこそが、避けるべきこと、という説明には、耳を貸さず、三つの要素それぞれが、重要と受け取り、一つずつ、騒ぎ立てることが、大切と思い込んだのだろう。学校再開で、狭い教室に、詰め込まれる児童生徒が、感染の危険に、晒されると騒ぐのを、不安な人々を、殊更に取り上げる報道は、ここぞとばかりに、前面に押し出す。しかし、狭い教室も、窓を開ければ、一つの要素を、取り除くことができる。これで、専門家の指摘した、回避法を、満足させられるのだ。だったら、何も騒がずとも、安心できる筈ではないか。報道の務めは、それを、現場で伝えることであり、間違った解釈を、正す内容を、流すことだ。

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3月24日(火)−生存権

 愚策と断じられた、要請は、本来の休みに入り、沙汰止みとなった。だが、本質的な解決は、先送りされただけで、その中、肝心の監督官庁は、末端に、判断を丸投げした、と伝えられる。となれば、あの時とは、全く異なる反応が、起きて当たり前なのだ。
 その通り、突然の休校要請に対し、悲鳴にも似た、窮状の訴えを、掲げた人々と、同一ではないだろうが、よく似た言動を、示す人々が、再開の報道に対し、正反対の理由で、叫び声を、上げ始めた。人それぞれの、事情の違いは、当然のことであり、公教育において、何度も、問題となったことだ。今回も、休校による、甚大な悪影響を、被った人々にとって、再開は、光が差した、とも思えることだったが、何事も、根拠なしに、心配する人々には、別の悪影響が、持ち上がったと映る。それも、生活の問題ではなく、命の問題だけに、どちらが、重大と思えるかは、明らかなのだろう。方針変更を、何としてでも、阻止しようとする動きが、急となっている。どちらの事情も、重要であり、唯一の答えは、見つかりそうもない。だとしたら、何が、大切なのか。一つには、監督官庁の、担当部局が、同じとは言え、義務教育と、その制限のない教育で、扱いを変える必要がある。義務だからこそ、どうすべきかの選択に、自由はない。だが、子供の命に関わることに、本当に、選択肢がないのか。そんな筈はなく、単純に、役所が、例外措置を、図ればいいだけだろう。だが、それは、末端ではなく、監督官庁の責任だ。だとしたら、再開後に、個人の事情で、通学を拒否する場合、それを許す措置を、準備してやればいい。強制力に、頼るばかりで、丸投げを、繰り返す悪弊は、そろそろ、止めた方がいい。上から下まで、国の政に関わる人間が、嘗て無い程に、劣悪化しているだけに、役人だけは、まともで居て欲しい。

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3月23日(月)−自力分析

 毎日発表される、国毎の感染者数に、首を傾げた人は、多かったに違いない。爆発的な増加を、示す国がある一方で、県毎の発表とはいえ、数えられる範囲に、留まる国に、様々な憶測が、飛び交っていた。その状況を、変えたと思えるのは、死者数の推移だろう。
 国毎の違いは、幾つかの異なる様相を、示している。つまり、感染者数の増加と共に、死者数も増加した場合、感染者数が増加しても、死者が増えなかった例、そして、感染者数も死者数も、顕著な増加を、示さなかったもの、という具合だ。国毎の事情が、異なっていたからか、それとも、全く別の要因に、よるものなのか、対応に追われ、解析が進まぬ中では、全く判らない。しかし、そこに、重要な情報が、含まれているとしたら、現場の対応に、忙殺されても、解析を進めることにも、力を注がねばならない。感染源となった国の、状況分析は、徐々に、進み始めたが、発表の仕方に、不自然さが見え、信頼できるかどうか、そちらの分析を、待つ必要が、出始めている。一方で、二つ目の事例に属する国は、落ち着きを、取り戻しつつあるようだが、国民性の問題として、状況把握に、偏向が施され、客観的な立場からの、解析を待たねばならない。では、この国の状況は、三番目の事例として、使えるのだろうか。ここでも、国民性の問題から、権力への疑いが、色濃く残り、客観的な解析さえ、そうと信じない土壌が、ある意味、障壁となっている。どれもこれも、役立たずに、思えてくるが、渦中にある状況では、やはり、客観的な解析は、容易には、進まないだろう。一方で、自分達の立場から言えば、真偽入り交じる、情報の錯綜の中では、客観性と共に、冷静な判断が、必要となる。確かな数値を、手に入れなくても、論理性のみで、ある程度の判断が、可能となるのだ。不安に、苛まれては、冷静さが、失われる。普段通りが、重要なのは、勿論だ。

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