パンチの独り言

(3月30日〜4月5日)
(集合論、情報源、救える命、示威行為、説得力、責任と信頼、務め)



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4月5日(日)−務め

 若者の無軌道な行動に、義務とか、責任とか、引き合いに出す人が居る。一方で、若者達の一部は、自由こそが、肝心とばかり、自らの行動を、束縛する動きに、反発する。そこでは、自由に対して、正反対なものとして、義務や責任が、課せられているようだ。
 行動制限が、世界中に、広がる中で、自由を謳歌してきた世代は、厳しい束縛に、反発する機会さえ、与えられていない。緊急事態なのだから、という点に、理解が及んだとしても、厳しい制限と共に、終わりが見えない中、人々の心には、鬱積が、起きているようだ。精神的な圧迫は、多くの人が、感じているようだが、戦いの最前線、と言われる現場では、極端な反応さえ、起きているらしい。不安や心配を、煽ることを、常としていた媒体は、ここでも、活躍の場を、見つけたが如く、現場の不安を、殊更に、取り上げているが、その内容に、画面の前の庶民は、心穏やかには居られず、更なる不安を、掻き立てられている、のではないか。だが、世界中で、盛んに取り上げられる、その内容には、根本的な欠陥が、あると感じられる。政治家の、責任回避としか、思えない決断に、呆れるばかり、と伝えてきたが、同じような状況が、医療現場にも、起きている。崩壊が、既に起きているとか、すぐそこまで、きているとか、そんなことが、伝えられると同時に、医師や看護師が、切迫する事態に、耐えきれないとの訴えを、画面の中から、伝えてくる。感情に、訴える手法は、あの媒体の、得意とする所だが、そこには、彼らが負うべき、責任への解釈の、大きな欠陥が、見えている。特に、医師は、人の命を、救うことが、その務めと思われているが、救急現場や、極限状況では、所謂、究極の選択を、迫られることとなる。それが、彼らの責任であり、義務でもある。にも拘わらず、画面には、選択の重責に、潰されかけた表情が、映し出され、悲惨な状況を、演出する。だが、冷酷かもしれないが、その責任を、果たすことが、彼ら、専門職の務めなのだ。同情を買うような、行為は、慎むべきことだ。

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4月4日(土)−責任と信頼

 責任追及が、強まる一方で、責任回避、責任転嫁、などの問題が、取り上げられる。有事の対応において、責任のあり方は、確かに、重要なことだが、今、問題とされることの多くは、着眼点の過ちを、指摘すべきもので、当事者の意識の問題、に過ぎないものだ。
 責任、という言葉が、出てくる度に、思えてくるのは、自らの役割を、認識していない、という現状だろう。役割において、果たすべき責任は、明確なものであり、それを意識すれば、その場その場で、何をすべきかは、自ずと明らかになる。しかし、それをせずに、責任、という言葉の重さだけを、意識して、役割への認識を、疎かにした結果、現場の混乱が、起きてしまった。そこに、責任追及が、起きるとしたら、問題は、何処にあるのか。一方で、役割を果たせず、無責任な状況に、陥っている場合、何が、問題となるのか。最も重要なことは、自らの責任を、十分に意識するだけでなく、自らの役割を、認識することなのだ。それを、行わないままに、責任の重さに、苛まれるだけでは、本来の業務という、重大な役割を、果たすことができなくなる。本末転倒とも、思えることだが、責任という言葉が、独り歩きするだけでなく、それに対する批判や、重圧への不安が、肝心なことを、投げ出すような、愚行へと結びつく。病院の役割は、医療が必要となる、患者の治療なのだが、有事では、優先順位や、治療方針が、平時とは、異なることは、当然であり、その判断は、現場に任される。肝心なことを忘れ、悲鳴を上げたり、訴えることが、重要と考えることや、それを、取り上げることで、正義と思い込む行為は、何の役にも立たず、害としかならないことを、認識すべきだろう。現場は、何をすべきかを、正しく判断せねばならず、それに対して、患者は、当然だが、社会も、信頼を託すべきなのだ。

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4月3日(金)−説得力

 増え続ける数字に、不安が募るばかり、という人は、実は、それ程多くない。自分には、関係ないこと、と思うだけで、数字の増加は、他人事となる。それだけで、安心できる訳ではないが、世間で、話題になる程に、不安で潰れることは、無いのだろう。
 これが、災厄の始まり、とばかりに、首長は、声高に訴えるが、危機の感覚は、広がる気配を見せない。自己中心の考え方、とよく言われる話だが、本当に、それだけで、説明ができるのだろうか。危機を、過剰に怖がる必要は、全く無いのだが、一方で、何も感じないのは、悪いことと言われる。特に、今、巷で話題となる、感染を広げる行為を、如何に、避けるかという点について、無関心や不感症は、妨げになるだけで、役に立たないものだからだ。だとしても、無関心や不感症が、無知から来るものならば、手の施しようは、無いに等しいだろう。今まで、面倒だから、とばかりに、関心を示さず、他人事としか思わない人間を、放置したり、排除してきたツケが、ここに来て、膨らんだように、感じる人も、多いのでは無いか。そういう人間が、沢山居ることが、自分にとって、有利に働く人々には、これまでは、我が天下、だったに違いない。しかし、この事態に、どんな対応が、可能なのだろうか。おそらく、今、盛んに用いられる、脅し文句の連呼は、ほぼ役立たずに終わりそうだ。論理が通じない人間に、詳しい説明は、無力には、違いないのだが、脅しよりは、ましな結果を、出せるのではないか。これまでに、何度も書いてきたことだが、何事も、論理的に扱うことで、正しいことも、間違ったことも、きちんと区別でき、理解が進むものだ。そういう事例を、示しながら、正しい論理と、論理の破綻を、掴ませることこそ、今、必要なのだ。その上で、食い止められねば、所詮、それだけのことと、諦めよう。

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4月2日(木)−示威行為

 子供の頃、伝言で、遊んだことがあるだろう。番組でも、そんな企画が、流行った時期があり、影も形もない、結果を見て、驚くばかりだった。しかし、噂も含め、伝言では、命を失う危険さえ、起きかねないのだ。伝聞の怖さにも、注意を払う必要がある。
 正確に伝えることの難しさ、という点が、この状況に関係するが、実は、それだけではない、という点にも、注意を払わねばならない。恣意的な情報伝達が、こういう場面で、屡々起きており、それが、人々を、危機に陥らせている、という場合がある。今回も、庶民達は、日々、恐怖に苛まれ、情報に、戸惑うばかりとなる。本来、信頼が置ける筈の、公共放送も、不安を煽る為に、情報の歪曲を、行うことがある。専門家は、感染の拡大を、食い止める手立てとして、「三つの密」を、引き合いに出した。言葉だけでは、伝わり難いとの判断で、数日前に紹介した、ベン図を、提示資料として、使ったのも、おそらく、直感的な理解を、促そうとの意図からだろう。しかし、この図の使い方に、歪曲を持ち込む、隙があったようだ。「三つの密」が重なることを、避けるのが、一番の手法として、ベン図の中心にある、重複部分を、大きめに表示して、強調したのが、会見の場でのことだが、最大の自治体の首長が、何度も、誤解を招く言い回しを、使った後には、多くの報道機関が、密の危険を、それぞれに、強調する姿勢を、示していた。その際、公共放送では、重複部分を、殊更に、小さくしたベン図を使い、その説明を、施していた。つまり、意図的な情報の歪曲が、いとも容易く、行われたのだ。しかし、おそらく、多くの批判が、浴びせられたのだろう。翌日の番組では、再び、大きな重複を、示す図を用い、重なりを避ける、という本来の提言を、伝えていた。愚かな行為に、呆れるだけでは、正しい理解は、手に入らない。本質を、理解することで、欺瞞に満ちた伝聞に、対抗しよう。

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4月1日(水)−救える命

 医は仁術、と言われる一方で、算術などと、揶揄されることも、多いようだ。この所、世間を騒がす出来事に関して、こんなことを、思い出させるような、話が伝わってきた。医療行為に関して、人それぞれに、思う所が異なるのは、当然のことだが、それにしても、と。
 一つ目は、今や、国民全体が、頼りとする、専門家会議に関するものだ。議論の対象が、感染症の問題だけに、当然ながら、医療従事者や、医学に関わる科学者が、その構成員となる。議論の行方が、国の行く末を、決めるとは、確かに、言い過ぎな部分が、あるだろうが、決定は、国の政を、行う政治家達が、下すとは言え、会議からの提言を、元にして策定する、と言われるだけに、最重要な役割を、果たすと考えても良さそうだ。だからこそ、責任のある発言や、行動が、求められるが、此の期に及んで、組織への寄与を、優先させたとしか、思えない。医師の代表組織が、意味不明とも思える、発表を行った時、それに属する、会議の構成員が、未公開の会議内容を、暴露していた。その目的は、組織の決定を、正当化する為であり、明らかな、守秘義務違反だが、その意識さえなく、社会の為と、強調していたようだ。正義を貫くと、解釈するのは、勝手にすればいいが、混乱を招く行為でしかない。所謂、算術が、あったとしか思えない。もう一つは、同じ根に属するが、医療現場の崩壊を、盛んに伝える報道に、登場する、爆発的な感染拡大が、深刻化する国で、従事する医者の発言だ。既に、崩壊が進む中、重症者達を前に、助けられぬことを、涙ながらに訴える。そんな姿は、おそらく、報道にとっては、格好の対象と映ったのだろう。だが、誰にも、必ず、死が訪れる。そんな自明に対し、如何に、抵抗するかが、医療の本質だとしても、多数を、目の当たりにして、誰を、救うべきかの決断が、必要となる。トリアージと呼ばれる仕組みが、救急医療に、導入されたのは、その為だった。ここでは、仁術と算術の組み合わせが、必要なのかもしれない。

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3月31日(火)−情報源

 仕事上、必要となったので、少し調べてみた。現在、問題となっている感染症に関して、公の見解を参考に、判断を下す必要が、出てきたからだ。専門家会議、今、巷で話題に上る組織で、多くの機関、組織が、信頼を置くもので、その記録を、探してみたのだ。
 現状では、最短の道筋と言われるのは、ネット検索だろう。いつも通り、検索単語を、複数入力し、探してみたが、出て来るのは、その話題を掲載した、新聞サイトばかり、肝心の情報源に、辿り着くことは、できなかった。数頁に渡り、眺めてみたが、出て来るのは、二次的な資料ばかり、時に、県の情報も、出て来るのだが、そこも、切り取ったものを、自分のサイトに貼っており、上流には進めない。諦めて、複数の単語ではなく、専門家会議とだけ入力し、やっと、役所の関係サイトに、行き着いた。だが、そこにも、肝心の会議の記録は、見当たらない。厚生労働省は、会議を所管する役所ではなく、別の所が、担っているのだ。だが、そこへのリンクは、見当たらない。仕方なく、色々と探すと、やっとのことで、官邸に辿り着いた。ここが、本丸だったのだ。会議の記録は、確かに、そこに格納されており、確かめることができた。しかし、昨日取り上げた、ベン図は、その中には無い。おそらく、文章表現では、不十分と考えた人が、別途、作ったのだろう。官邸のサイトには、参考図として、紹介されていた。情報社会と雖も、この不便では、無理だろう。使い勝手の悪さは、作り手の無理解から、来るものと思える。印刷物で、流通していた時代、こんな繋がりを、整備する必要は、全く無かった。しかし、今は、全てを繋げてこそ、情報の信頼が、保てるのだ。ネット上の情報は、勿論のこと、印刷物でさえ、二次元コードで、繋げることができる。その位は、当然、やるべきなのだ。

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3月30日(月)−集合論

 ベン図、という言葉を、聞いたことが、あるだろうか。ある機会に、初めて聞いたのだが、世代によっては、学校で習うらしい。ベン図、あるいは、ヴェン図、と表記されるが、それは、発案者の名前、Vennから来たものだ。集合の表し方の一つ、ということだ。
 そんな説明では、何も分からぬ、と思う人が多いだろう。集合の性質を、ある規則で分け、それぞれの属性により、分類した時に、それを一目でわかるように示す、というものなのだ。これでも、分かり難い、と思う人には、最近、何度も目に触れる、「三つの密」を示す、あの図のこと、と言えば、通じるだろうか。元々、集合を表すのに、あのような円を用いて、示す方法があったそうだが、著名な数学者のオイラーが、発案した方法では、二つの円で、示すだけで、三つ以上の分類には、適用できないものだったようだ。それを、改善したのが、ベン図であり、数が増えても、それらを全て、円で表し、その重なり具合で、各要素の属性を、一目で分かるように、示すことが可能となった。集合は、学校で習った数学の概念の中でも、理解し難いものであり、円で表したものを、記号で表すことで、混乱を来した経験を、持つ人が多いのだろう。記号は、卒業後に触れることがないが、ベン図の方は、時々、目に触れることがある。今回も、その事例の一つだろうが、ここでも、集合の概念が、理解されていないことが、明らかとなりつつある。「三つの密」は、感染に関わる環境の要素が、三つあることを示す為に、紹介されたものだが、もし、それが、今、誤解をもとに、皆が話題にしているように、三つの要素全てを、避ける必要がある、という説明であれば、それらを示す円は、それぞれ、別々に描けば済む。だが、今、示されているのは、まさに、ベン図であり、それを用いた真意は、三つの要素の重なりを、避けることが重要、ということなのだ。逆に言えば、三つのうちの一つを、避ければ、感染を防げる、という意味なのだ。

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