パンチの独り言

(4月6日〜4月12日)
(善悪か、無資格者、戦い方、揺らぎ、無は無、責任感、手持ちの武器)



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4月12日(日)−手持ちの武器

 感染症の広がりに、世界各地で、悲鳴が、響いている。命の危険に、晒されている、という実感から、恐怖に苛まれ、それが、大きな悲鳴となっている。それを横目に、初めから、また、感染症の騒ぎの度に、不思議に思うことが、ある。何故、皆に感染しないのか。
 今、巷では、感染の広がりを、押さえ込もうとする、動きが、勢いを、増している。世界各地で、様々な制限が、かけられており、一説には、それにより、感染が、押さえ込める、と言われる。だが、その一方で、一時の平穏が、迎えられても、根絶されなければ、第二波に、襲われる、とも言われる。これでは、この戦いは、終わることがない。ならば、どうしたらいいのか。制限をかける、政府を始めとする、地域の役所は、定めたやり方で、押し切ろうとするが、以前、書いたように、人類は、歴史上、感染症との戦いに、勝利を収めたことはなく、常に、新たな脅威に、晒され続けている。確かに、新たな敵でも、それに対抗する、抗体という武器を、手に入れれば、生き残ることは、できると言われる。だが、それを、人工的に作るには、時間が必要であり、特に、嘗て、医療技術が、整わなかった時代には、そんな対抗措置は、存在せず、もし、この手立てしか、生き抜く術が、無いのだとしたら、とっくの昔に、人類絶滅が、起きていたに違いない。だが、そんな時代でさえ、大量の死と、直面しながらも、生き延びてきたのは、何か、別の手立てを、ヒトという種が、持ち続けてきたからだろう。今、話題本として、引き合いに出される、ペストしかり、前回の大量死を、もたらした、スペイン風邪しかり、当時は、神に祈るしか、方法は無かった。でも、生き抜くことが、できたのは、何か、別の武器を、種全体としてみれば、備えていたからなのだ。今は、それが何かを、見極めることは、できないが。続きの話は、明日、書いてみたい。

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4月11日(土)−責任感

 普段なら、気付かないようなことが、起きている。有事に、頼りとなるのは、専門家であり、責任者と呼ばれる人々である。しかし、日々流れてくる情報の多くは、異常な言動を、繰り返す専門家や、判断を誤る、責任者の話題だ。情報操作が、加えられ、酷い状態で。
 だが、異常を感じるのは、受け手の問題であり、送り手は、それをさも重要な情報、として送り続ける。偽情報や、扇情的な訴えなど、情報操作に、役立つものであれば、自らの立場を、優位にする為と、垂れ流し続ける。そこにも、大きな問題が、あるには違いないが、今、気にすべきは、そんな流れに乗っかり、勝手な振る舞いを、続ける人だろう。専門家と言っても、責任の重さは、それぞれに異なり、自覚の問題も加わって、異常言動へと、結び付く人が、頻出し続ける。その中でも、悪質なのは、ある程度の専門知識を持ち、それを使って、持論を展開する人々で、現実には、論理に基づかない、自らの妄想を、知識の裏付けがあるかの如く、振る舞うことで、注目を浴びている。しかし、その意見には、確証が無く、状況証拠を、積み上げただけに、過ぎないものが多く、単に、扇情的な面で、耳目を集めるに過ぎない。結果として、正しいものとなることもあるが、目的が、煽ることとなれば、実は、殆ど全てが、間違いだった、と結論づけられる。できれば、無視した方が良いものだ。一方、責任者の問題は、更に深刻だ。組織では、危機管理の重要性が、高まっており、有事には、特に、それにより、危機を未然に防ぎ、組織を守ることが、できると言われる。だが、現実に、多くの組織で、行われる危機管理は、正面から取り組むというより、回避でしかないものであり、それも、組織ではなく、責任者にとっての危機を、避ける為となっている。つまりは、責任回避、となるだけで、危機など、どうでもいいのだ。ここでも、困った人々が、うろついている。

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4月10日(金)−無は無

 緊急事態に、おそらく、様々な問題が、噴出し始めているのだろう。確かに、これまでも、ぎりぎりの均衡の上に、立っていたものは、これを機会に、崩れ落ちるだろうし、それが、連鎖反応を、引き起こせば、感染症と同様に、一気に、被害が、拡大しかねない。
 それを、食い止めることも、必要なのだが、余りに多くのものが、崩壊し始めたら、手の施しようが、無くなってしまうだろう。緊急なのだから、非常事態なのだから、仕方のないこと、となる場合が、増えるに違いない。金銭的な問題ばかりに、注目が集まるが、実際には、それより、明日の命にさえ、影響を及ぼすものも、あるのだろうが、中々、見つけられない。後々、そんなものが、掘り出されて、問題点の整理が、なされるのだろうが、緊急時に、全てを、確実に、こなすことは、やはり難しい。患者の選別と同様に、諦めて欲しい、と言うべきなのかもしれない。辛いことだが、緊急とか非常とかは、文字通り、そういうことなのだ。一方、非常時にも関わらず、身勝手なことを、押し通そうとする人が、居ることに関しては、余り、目が向けられていない。批判も、大きな組織に対するものが、集中しており、末端には、目が向いていないからだろう。各組織では、様々な制限が掛けられ、従来とは異なる、業務体制が、整えられたり、業務の仕方そのものに、変更を、余儀なくされている。その中で、不慣れな作業に、抵抗を示す人々が、あらゆる組織で、見つかる筈だが、どう扱うべきか、戸惑う所もあるだろう。「できない!」、と叫ぶのも、権利の一つであり、それにより、弱者を演じるのも、本人の自由だが、もし、要請に応えられなければ、やはり、組織から、落ちこぼれることとなる。余裕が無くなり、少数派への配慮も、失われつつある。その中で、できることを、行うという姿勢を、示すことが、重要なのだ。元々、同じ仕事でも、効率も、成果も、異なるのが、当たり前だった。だが、無は、無でしかない。

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4月9日(木)−揺らぎ

 過剰な反応を、戒めたり、誤った情報伝達を、正したり、意図的な情報操作を、厳しく批判したり、そんなことを、繰り返していると、傍目には、精神が鈍いのか、鈍感なのか、はたまた、不感症なのか、と見えているだろう。だが、そんなことは、微塵も無い。
 今回の騒動も、避け難い部分が、あるのだが、あの大震災の後の、原発事故の際も、同じ要素が、降りかかってきた。人々は、恐怖に駆られ、逃げ惑って、公に流される情報に、疑いを抱いていた。それも、データそのものの、改竄への疑いだけでなく、データから導かれる、解釈にさえ、専門的な知識もないままに、端から疑う、姿勢を見せていた。ある程度の知識を持ち、データの検証も、行った上で、どんな判断を、下すべきかを考えれば、直後の流出に関しても、人体への影響は、殆ど無いとの結論に、到達できたが、それでも、雨が降り始めた時に、不安が過ぎったのは、事実なのだ。ただ、冷静に考えれば、やはり、同じ結論に到達できる。論理の重要性は、ここにこそある。同じ論理で、同じ道筋を辿れば、何度でも、同じ結論に、到達できるのだ。では、今回の感染症に関しては、どうだろうか。ウイルスの場合、それが、ある程度広がれば、感染を防止することは、難しくなる。確かに、様々な対策を、講じることで、防ぐことに、励むのは重要であり、それ自体を、否定するつもりはない。だからこそ、専門家会議の、三つの密の重なり、を避ける心掛けを、常に持っている。しかし、それでも、感染の防止は、確実とはならない。だとしたら、自身の免疫機能を、高く保つことこそ、重要となる。これが、食事と睡眠を、強調する理由であり、普段通り、よく食べ、よく眠ることを、続けている。だが、それでも、日々、これ程までに、真偽入り交じる情報が、流れており、会議の実施など、馬鹿げた行為が、続いてくると、心穏やかには、いられない。ただ、ここでも、論理で片付けるしか、穏やかさを、取り戻す手立てはない。

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4月8日(水)−戦い方

 善意と見る向きもあるが、実際には、悪意に満ちたものが、大部分であり、情報伝達において、無駄なものでしかない、と見る向きもある。誰にでも、機会が分け与えられ、他人に遠慮することなく、好きなことを、書き連ねられる。魅力でもあり、欠陥ともなる。
 そんな塵溜めだが、時には、役立つ情報が、流れることもある。こんな時代に、大切なことは、やはり、判断力となる。それも、受け手のものが、最も大切なのだが、一方で、送り手が、正しい判断を、下せないとしたら、たとえ、受け手が、判断力を有していても、流れてくる情報は、全て、偽物でしかなく、歪曲されていては、見る価値も無くなる。自身が、その任を果たそうと、努力を続ける人も居るが、多くは、悪意の批判に晒され、潰されたり、抹消されたりする。炎上と呼ばれる現象は、その多くが、発信者の無知や思慮の無さを、原因とするが、一部には、発言の真意を、捻じ曲げたり、歪曲することで、攻撃対象となり、集中砲火を、浴びることとなる。悪意が、悪意を呼び、誤った正義を、振りかざされたり、持て余す暇を、潰す為の標的となる。一旦、その状況に陥ると、殆どの人は、脱出の手立てが、見つからず、場の閉鎖などに、追い込まれるのだ。そんな時の処し方で、何か、巧い方法は、無いのだろうか。以前、放射線関係の講演会で、講演者が、不躾な質問に、巧みに対処していたが、それは、相手の明らかな誤りを、断ずることなく、正しい考えに導くやり方だった。一刀両断されると、強い反発を示す、活動家の多くは、反論の機会を奪われ、引き込んだ。同じ手法を、ネット上の遣り取りに、持ち込むことは、できるのだが、その場では、発言の長さに、制限を掛けられるから、前置きは、無用となる。そこで、ある場所では、相手の発言の正誤を、抜きにして、こちらの主張を、繰り返す手法が、取られていた。文筆家のようだが、核心を、突くことにより、相手の過ちを、蹴散らしているようだ。

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4月7日(火)−無資格者

 医師は、憧れの職業の一つ、と言われてきたが、この騒動と、医療現場の悲惨さから、希望者が、激減するかもしれない。しかし、それより、重要なことは、憧れの対象が、単に、高収入とか、高い地位とか、本来の業務とは、無関係な所に、あることだ。
 嘗ては、高学歴の典型と言われ、成績優秀者の、行き先とも、言われてきたが、これは、適材適所の考えからは、間違いを生じる原因、となっていた。勉強ができても、人を人と見ないまま、治療に当たる人間に、傷つけられた経験を、持つ人も多いし、机上の空論に、振り回される人間には、臨機応変が、必要となる治療は、不可能となる場合も、指摘されてきた。それが、ここにきて、現場が、厳しい状況に陥り、沈着冷静な判断が、要求されると、途端に、破綻を来たし、悲鳴をあげる、ある意味では、無資格者とも思える、人間達が、次々に、登場してくると、更に、深刻な状況が、露呈し始めた。一方で、一人前になるための、修行期間とも言われる、研修に当たる者達に、感染が広がったとの報道に、呆れるより、罵りたくなった人も、居ただろう。件の大学は、以前から、傍若無人ぶりで、評判をとっていた所だが、ここまで来ると、弁解の余地も、無いだろう。人間失格と、烙印を押すのは、簡単なことだが、あの業界の、驕りの表れ、と見るべきではないか。一方で、緊急医療の切迫を訴える、学会の長の態度にも、何処か、無責任を窺わせるものがある。発言そのものではないが、同じ文脈で、伝えられる内容には、論理の欠片も無く、意味不明なことが多く、信頼の対象とは、とてもなり得ない。一体全体、あの業界は、どうなってしまったのか。医は仁術は、流石に無理としても、職業意識を、しっかり見せて欲しいものだ。

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4月6日(月)−善悪か

 善意の投稿によって、人々が、翻弄されている、と一面の見出しが、訴える。情報の拡散の、仕掛けの発達が、人々の判断力を、失わせている、とも言われるが、実際は、そちらの方が、判断の過ちを、犯している。善意だろうが、悪意だろうが、正しく判断すべきだ。
 技術の革新が、まるで、諸悪の根源のように、扱うことには、責任転嫁の意図しか、見えてこない。実際には、誰もが扱える、情報発信の道具が、普及する以前にも、多くの偽情報が、意図的に、流されていた。その中心となったのが、新聞や放送という、所謂、マスメディアなのだ。それが、普及する前に、活躍していたのは、所謂、伝聞であり、井戸端会議だったり、噂の伝搬だったりした。今との違いは、意図的なものは、悪意に満ちており、最新の話題は、善意からのもの、という点だ、とする論点には、明らかな誤謬がある。本人が、その拡散に手を貸すのは、例えば、拡散希望の言葉を、目にしたから、との話があるが、これは、噂を、矢鱈に伝えるのと、変わりがない。そこでも、多くの人が、何事も疑わず、善かれと思って、行っていたとされるが、どちらも、情報の真意を、確かめなかったのだ。煽り運転の関係者を、炙り出したとして、偽情報を、提供した輩も、善意と称して、不確かな情報を、垂れ流した。それを、拡散した、善意にも、厳しい措置が、求められている。一方、旧来の仕組みも、依然として、意図丸出しの、情報操作に、血道を上げている。ここでも、正誤の判断や、情報の精査は、受け取る側に、任されている。ただ、興味深いのは、思惑や意図が、思わぬ所で、露呈する場合で、先日も、公共放送が、地上波で、海外の報道を、取り上げる内容と、衛星放送で、そのまま流したもので、主旨が、大きく異なる、と感じられた。選別は、確かに、方針次第だろうが、露骨な操作は、感心しない。

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