パンチの独り言

(4月13日〜4月19日)
(武装、見当違い、悲喜劇、無視する、解釈次第、政治家、計算結果)



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4月19日(日)−計算結果

 改めて、政府の専門家会議の戦略が、紹介されていた。それと同じ頃、感染症学会は、講演会を、ネット配信にして、公開することで、基礎と臨床の、二面から、今回の騒動の動向を、伝えていた。それを見て、庶民達は、何を考え、何を思ったのだろうか。
 SNSでは、相変わらずの、感情人間が、蠢いており、自らの正当性を、必死で訴えていた。論理の欠片も無く、支離滅裂な話を、書き続けるのは、依然として、平和な時が続いていることを、表しているようだ。それが、誰の御蔭で、何が原因なのか、考えることなく、どこかから拝借した、受け売り話を、繰り返す。新たな情報は、彼らにとっては、「嘘」や「言い訳」にしか映らず、自らの論理を、強化する為の、道具として使うこともできない。そんな塵に、人は、惑わされる。報道も加わり、情報操作や扇動により、心の平静を、失いつつある人は、沢山居るだろう。だが、こんな時こそ、冷静な判断や、多様な解析が、必要なのだ。無視したり、文句をつけたりする前に、何処に綻びがあり、何処が非論理的なのか、見極めよう。一方で、騒ぎを余所に、的確な意見を、書き続ける人も、実は、沢山居る。先日、紹介した文筆家も、その一人だが、そこにデータを、送ってみた。短文では、限りがあるので、全てを示せなかったが、ここに、表を示してみる。10日ほどの間に、幾つかの国で、起きた変化を、示したものだが、数字の変遷から、様々なことが言える。例えば、死者数の変化は、国毎に、違いを見せており、一時世界最大だった国は、少し勢いが、衰えているように見える。一方、対策を講じている、と伝えられる欧米の残り二つは、不気味な増加を、示している。この国は、この時点では、よくやっている、と言えそうだ。ところで、はじめに取り上げた番組で、専門家が説明した、検査数の抑制は、確かに、この国の陽性者数の、異常な低さを、裏付けていた。感染率ではなく、陽性率は、人口に対する死亡率を、感染者に対する死亡率で、割れば出てくる。この国は一万分の一、海の向こうは五百分の一だ。そんなことが、この表の数字から、導ける。でも、先日取り上げたように、このウイルスの、発症率は、かなり低いようだ。

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4月18日(土)−政治家

 露出度が、急上昇している。世界各地の、政治家達だ。海の向こうでは、東海岸で、災禍の広がりに、州民達は、恐怖のどん底に、落とされているが、連日、画面から状況を、報告し続け、新たな政策を、提示している知事は、評価も、急上昇している、と伝えられる。
 しかし、増え続ける、患者と死者の数は、厳しい現実を、突き付けている。その中で、奮闘する姿が、好印象を、高めている、と言われるのだが、どうにも、首を傾げたくなる。厳しくなるばかりの制限に、悲鳴を上げ続けながら、明るい未来を、待ち続ける人々に、勇気付ける言葉は、響いているのだろうが、あれほど、現実的な考えに、取り憑かれてきた人々が、窮地に追い込まれると、こうも急変するのか、と思えてしまう。この状況は、こちら側でも、同様らしい。ここでも、連日、画面から、対策を訴え続け、国に対して、決断を迫る姿勢を、緩めようとしない、ある首長は、人気急上昇らしく、彼女の真似か、ホテル滞在を、余儀なくされた人々に、手紙を送ったことが、美談の如く語られる、別の首長も、高評価を得ている、と伝えられる。確かに、医療の力が、及ばないとされ、特効薬もない状況で、唯一の策は、政策によるもの、と言われているが、それが事実かどうかは、今後の結果ではなく、終息を迎えた時から、始まる解析を、待たなければ、確かめられない。一方で、一度始めたら、制限の解除は、簡単には、行えないだろう。だとすると、その決断を、誰が下すのかに、注目が集まる。恐らく、海の向こうの大統領や、隣国の主席が、無謀を覚悟に、決断を下すと、予想する人が多いだろうが、果たして、そうだろうか。判断を誤れば、評判は、地に堕ちるだろう。特に、前者は、選挙を控える身だ。どうだろうか。もし、逡巡することがあれば、別の人物が、行うかもしれない。何事も、論理的に運ぶ、あの人物かも。

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4月17日(金)−解釈次第

 またか、と思われそうだが、平日の朝、出勤前の習慣、となっている人も、多いだろう。特に、このサイトを、覗こうとする人は、その業界の人が、多いので、余計にだ。ただ、最近は、とんと寂しくなったので、読者が増える気配は、殆ど無い。仕方ない、か。
 話が逸れたが、習慣とは、あるテレビ番組のこと、その中で、興味深い話題が、紹介されていた。今、大問題となっている、感染症の拡大には、100年ほど前の、類似現象がある。スペイン風邪、と表現される、世界的な感染の広がりで、数千万人の死者が出た、と言われる。この原因は、今では、A型インフルエンザウイルスによるもの、と言われているが、当時は、そんなことを知る術もなく、今話題となる、ワクチンや特効薬なども、存在しなかった。その中で、感染者達は、ほぼ自力で、回復するしかなく、栄養状態や、衛生状態の違いが、大きな要因ともなった、と伝えられる。それと、現在のものを、比較しようとする企画で、その中で、紹介された数値に、引き寄せられたのだ。ひょっとすると、視聴者の多くは、気にも留めなかった、かもしれないが、ある意味、重要な数字だったと思う。それは、スペイン風邪では、全世界人口の、約4分の1が、感染したとされるのに対し、今回の感染症では、大体、5000人に一人が、感染しているというものだ。皆が、恐怖に駆られ、多くの対策を、講じる中で、その数値が、達成されている、と考える人も、居るだろうが、別の見方は、無いだろうか。我田引水だが、ここで言う感染者とは、病気を発症した人であり、それぞれのウイルスと、接触した人とは、限らない。そう考えれば、この数は、発症率との関わりを、表している、と見ることができる。だとしたら、と考えたくなるのは、持論があるからだが、それも含めて、期待を持ってもいいのでは、と思いたくなる。

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4月16日(木)−無視する

 地域による違いは、あるものの、自宅に、留まることを、余儀なくされる人は、やはり、多く居るだろう。遠隔業務、という言葉も、出てくる程に、厳しい状況に、追い込まれ、不慣れな機器に、触れなければならない。また、時間の使い方にも、変化が出てきた。
 移動の時間が、必要なくなり、読書などに、精を出す人も、居るだろうが、精々、端末からの情報に、触れる機会が、増えただけ、という人が、多いのではないか。情報収集も、手近な所に、留まり、新聞購読を、始める人は、居る筈も無いだろうが、かと言って、悲劇を上映し続ける、テレビの報道番組は、観るに堪えないものだし、ネット情報も、相変わらず、玉石混交であり、殆どが石、と思った方がいい。唯一、集計結果を、伝え続ける所は、信頼できるもの、と見ることができるが、そことて、各国の発表という、情報源そのものが、疑わしくなっては、どうにもならない。本来、信頼という考えが、全ての基礎となる、こういう世界で、今のような状況は、最悪と見るべきだろう。論理の重要性を、何度も訴えてきたが、その力を、備えていても、連日連夜、作為に満ちた、悪意の数値を、垂れ流され、その方針に基づく、偏った情報を、実写資料として、突き付けられると、一々、反論するのにも、疲れてくるものだ。職場での、不手際に対して、苛立ちを覚えている所へ、自宅でも、こんな害悪を、押し付けられては、堪ったものではない。まして、自宅に、閉じ込められ、外の空気さえ、吸えないような、状況に追い込まれた人は、更なる、精神的な圧迫を、受けていることになる。医療の問題や、経済の問題は、確かに、重要には違いないが、個人にとっては、心の問題も、肝心なのだ。余裕があれば、不安や心配を、探し出すことも、できただろうが、それさえも、できない程に、追い詰められたら、抜け出すことは、難しい。情報選別が、唯一の手立て、なのかもしれない。

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4月15日(水)−悲喜劇

 悲劇の筋書き、悲観的な展開、そんなものを、好む業界がある。今、この時も、そんなものばかりを、垂れ流し続け、まるで、この世の終わりの如く、せっせと、そんな話を、掻き集め、自らの編集方針を、強化し続ける。嘘ではないので、放送倫理からも、お咎めは無い。
 不安や心配を、煽り続けても、その勢いは、衰えることなく、あの業界は、ある見方からすれば、まるで、社会のダニの如く、活動を続ける。あの大震災の時も、どう、恐怖を煽るかに、精を出し、安心を与える情報は、たとえ、論理的に正当でも、排除したり、無視したりを繰り返し、更には、感情的な反応を、打つけることで、糾弾し続けた。原子力発電所の危険性についても、科学的な根拠なく、ただ、感情的な事柄を、並べ連ねることで、危機を、煽り続けたが、さて、彼らの警告は、何処に行ってしまったのか、確証のない論説は、結局、心理的な支援を、失ってしまえば、賛同が得られなくなる。そんな輩が、今回の災厄でも、我が意を得たり、とばかりに、悲観的な解釈を、高く掲げており、またか、と思う人や、連日の訴えに、嫌気を催す人も、多く居るだろう。何処を見ても、そんな状態では、情報収集は、容易ではなく、偽物や、紛い物ばかりが、転がる中では、自らの判断を、優先するしか、方法は残っていない。そんな中、件の人々の中に、感染者が出て、笑止千万、と思った人も、居るのではないか。あれ程までに、画面で、注意や警告を、繰り返した人物が、自ら、その中に加わっては、お終いだ。だから、悲劇や悲観は、本物だ、と心を強くした、業界人も、不謹慎ながら、居るかもしれないが、それは、愚かな論理だろう。感染そのものは、悲劇でも、悲観でもない。感染、発症、死亡、それぞれの段階で、様々な展開が、あり得るのだから。

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4月14日(火)−見当違い

 待ち遠しかった、春の訪れを告げる、桜の開花だが、今年は、事情が異なっていた。感染禍により、各地で、自粛の連鎖が起き、見に出かけることが、できなくなったのだ。映像で、楽しむしかないが、花の香りや、春の爽やかな空気を、感じられないのが、残念だ。
 その中で、ある桜の木の話題が、取り上げられていた。三四半世紀、つまり、75年前に、戦争を終わらせる為、という理由で、落とされた新型爆弾により、壊滅的な被害を受けた、ある都市にある神社には、被爆桜の一つがあり、樹勢は衰えたとはいえ、今年も、花を咲かせていた。その紹介のはじめの部分、被爆地では、50年も、75年も、草木が育たないだろう、という見解を、当時の研究者が、述べていたことが、引き合いに出されていたが、その見解は、惨禍の翌年に、打ち消されていた。何度かの実験で、得られた情報を基に、専門的な見解が、導き出されたのだろうが、仮説は、ある意味、見事に否定された。生き物の能力は、人間の想像を、遥かに超えるもの、と言われるが、ここでも、実証されたのだろう。近年の話題でも、大震災後の景色には、そんな証しが、見えている。放射性物質の飛散により、高濃度の放射能が、検出された地域でも、自然の営みは、続けられたし、津波の襲来により、塩害を受けた、と言われる地域も、植生は変わったが、様々な植物が、生えてきた。今の災禍でも、多くの専門家が、悲観的な筋書きを、盛んに紹介するが、果たして、その中で、正解として、残るものがあるのか。耳目を集めようとすることは、人の性として、当たり前かもしれないが、日々続けられる、恐怖を煽るような情報の、雨嵐の中で、今この時だけでなく、将来にも、悲観しかない、とすることに、何の意味があるのか。理解に苦しむ。

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4月13日(月)−武装

 どうやって、生き延びてきたのか、その本当の理由は、実は、分からない。個別の事象で、異なるかもしれず、今更、過去の事例を、検証することも、できないからだ。だから、今回の騒ぎは、収まってから、10年、20年かかっても、きちんと、検証して欲しい。
 折角、楽しみにしていたのに、と思う人も、居るだろう。ここからは、現時点で、考えられることを、書いていく。三つの密の重なり、という重要事項は、いつの間にか、それぞれの密を、避けることの重要性に、すり替えられた。重なりが、強調されたのは、密集地での、公共交通機関による通勤で、感染が、広がらなかったのを、説明する為のもの、と思われる。確かに、それを避けることが、第一と見るべきだろう。だが、一方で、重なれば、感染するとしたら、何故、密閉空間に居た、全ての人が、感染しなかったのか、を説明できない。ライブハウスが、槍玉に上がり、ついには、廃業へと追い込まれた、と伝えられるが、そこで広がった感染で、検査でも、陽性と出なかったのは、何故か。大切なことは、「感染」を、この国では、間違って使っていることだ。感染とは、病原体が、体内に入ることであり、時には、定着し、発病するが、定着しても、発病しない人や、定着もさせない人が、居るのである。これら全てが、感染者だが、今、巷で言われる感染者は、実は、検査での陽性者だけなのだ。海の向こうの大学で、信頼できる情報源となるサイトでは、確認された人、という数字が、示されていた。厳密には、間違った用語が、流布しているのだ。ここで、大切なことは、検査で、陰性だった人も、症状が出ていない人も、実は、既に感染し、抵抗力を、身につけているかもしれない、ということだ。これが、生き延びてきた要因、だとしたら、何となく、腑に落ちるだろう。仕組みそのものが、不明でも、こんな力で、種の存続が、行われたのだろう。

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