パンチの独り言

(4月27日〜5月3日)
(元通り、卑しさ、妄言、目眩し、悪魔の囁き、究極の選択、権力)



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5月3日(日)−権力

 半世紀程前なら、ごく当たり前に、使われた言葉に、「権力」がある。法の下の平等で、様々な権利が、保障されるのは、戦後の常識とも、言われるが、あの時代、多くの若者が、強い閉塞感を抱き、その元凶が、「権力」であると、主張していたのだ。
 当時の若者は、既に、一線を退き、悠々自適の生活を、送っている。などと書いたら、反論が届くだろう。閉塞感は、相変わらずであり、整備の遅れが、露呈し続けている、と。今や、高齢者となり、介護の必要さえ、出てきている。その中で、不平不満も、相変わらずで、それが、「権力」から、産み出されたものであり、自分達は、いつも、虐げられた弱者なのだ、と感じている。彼らが、主体となった活動は、下火となり、集会の時に、見かけるぐらいのものだ。だが、「権力」の横暴は、今も、一部で盛んに叫ばれる。今回の騒動でも、はじめから、数々の隠蔽が、取り沙汰されており、情報操作や、果ては検査結果や死亡調査結果にまで、改竄が、繰り返されている、と糾弾する。だが、根拠のない追及は、半世紀前と同様、掛け声ばかりで、何も届いてこない。それでも、いとも容易く騙される、民衆は、日頃の鬱憤を、晴らさんとばかりに、根も葉もない落書きを、盛んに、リツイートする。これにより、意見の数は、急増したように、見えてくるが、実際には、同じものが、再登場するだけで、元の数は、変わることなく、根拠が、強化されることは、決して無い。この仕組みの、無駄と有害性が、露呈しているだけで、それに与する人々は、殆どが、愉快犯に過ぎない。彼らは、話題となる死因が、どの位の割合か、確かめることも無いままに、「権力」の隠蔽を、鵜呑みにする。毎年、12万もの人が、肺炎で亡くなるのに、今、あの特定された原因で、死んだ人は、500を超えたばかり。これを、どう見るのか。隠蔽しているから、少ないのだ、とでも言うのだろうか。国では、40万、世界では、4000万と見込んだ話は、もう、忘れ去られたろう。それほどに増えたら、統計に現れるが、さて。

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5月2日(土)−究極の選択

 命を守る、という言葉に、抗うことは、難しい。誰もが、互いの命を、大切に思わねば、社会は、崩壊するからだ。だが、今、この言葉に、反旗を翻す、動きが起こり始めている。そんな筈は無い、と思うだろうが、実は、同じ「命を守る」という言葉が、それだ。
 家族を守るとか、周囲に広げないとか、そんな言葉が、自粛という制限の、理由として、掲げられた。その中で、一部には、自分の命を守る、という言葉を、声高に訴える若者が、出てくることに、強い違和感を、覚えてきた。まるで、自らを、生け贄にされたが如く、振る舞う言動に、嫌悪を覚えた人も、多いのではないか。ただ、最近の風潮は、弱者優位だから、こんな妄言でさえ、大切なもの、と扱われる。一方、命を守る為に、世界中で、人々が強いられた制限は、明らかな副作用を、示し始めている。一つは、精神的な抑圧で、これは、個人的なもの、と片付けられそうだが、恐怖を煽る内容を伝えつつ、字幕で、心の相談室の情報を、流し続けるのは、何らかの思惑が、あるようにしか見えない。もう一つは、生活の維持だろう。商売が成り立たず、収入の糧を断たれ、将来の不安どころか、今日の食べ物さえ、手に入れられない人が、出ているとも伝わる。命を守る、という掛け声の下、制限を続けることは、ある目標を、達成する為に、必要不可欠なもの、とされるが、その一方で、じわじわと迫る、死への恐怖に、苛まれる人が、出ているとしたら、これは、本当に、命を守る、ことになるのだろうか、と。徐々に、蝕まれ始めた、心の均衡が、社会の均衡を、失わせさせ、混乱を起こし始めている。言葉という武器しか、持たない国民には、大したことは、できないだろうが、海の向こうは、様々な殺傷武器を、各自が保有する。一触即発、という状況に、陥らぬ為には、何が必要か。まさに、命を守る為の手段が、せめぎ合う場面が、生まれつつある。

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5月1日(金)−悪魔の囁き

 どさくさ、だからだろうか。明らかな失言で、非常識なだけでなく、本来なら、立場さえ失いかねない、極端な言動に、その場は、まさに、凍りついたと言われる。だが、翌日に、その過ちを、指摘されると、例の如く、とんでもない発言が、飛び出していた。
 誰の話か、わからないかもしれない。連日のように、暴言を繰り返すだけでなく、手にした玩具から、好き勝手な発言を、投げつけている人物だ。海の向こうの国、大統領という立場でなければ、戯言として、片付けられ、無視されるだけに、終わるのだが、何の因果か、馬鹿げた期待により、選ばれてしまえば、その始末は、誰がつけるのだろうか。更に、恐ろしいと思えるのは、そんな暴言も、脅迫じみた言動も、信頼としか映らず、依然として、支持を続ける人々が、山のように居る、というあの国の状況だ。しかし、彼の恐ろしさは、非常識と、片付けられない所にある。ウイルスが、紫外線や消毒薬に、弱いのだから、患者に、消毒薬を注射すれば、と語ったと伝えられるが、耳を疑う程度では、片付けられぬ程、悪意に満ちた、まるで、悪魔の言葉のよう、ではないか。翌日の言い訳は、就学前の悪餓鬼の、言葉のごとくであったが、ここでも、呆れた人々は、次の矢を放つ気さえ、失ったようだ。実は、それこそが、彼の特徴であり、得意技なのだ。前言撤回は、気配も見せず、責任転嫁を、徹底する。それによって、失言の証拠を、消し去ることが、できるとでも、思っているのか。だが、会見での発言は、録音であり、時には、忘れ去られることも、あるだろうが、得意気に打ち込んだ、暴言の囁きは、文字となって、世界を駆け巡る。こちらを、消すことは、不可能であると、子供達に、SNSでの書き込みに、気をつけよ、と教える中で、この悪餓鬼の暴言は、止まる気配を見せないのだ。

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4月30日(木)−目眩し

 予想通りの展開、と言っても、政策の効果、の話ではない。どんな変化が、起きたとしても、次の決断ができず、そのまま、先送りとする、という予想に関することだ。世界中で、強い制限が加えられ、その効果が、目に見える形で、現れ始めたが、さて、次は。
 世界機関が、どんなに権威を、誇示しても、あれ程に、失策を繰り返しては、耳を傾けは、しないだろう。特に、世界中で、事務局長の辞任を、求める声が、上がった時には、支援の声を、上げた国々も、今回の助言には、そろそろ、見切りをつけるべき、時が来たと思ったようだ。一方、そんな段階にも、至っていないこの国は、全く異なる問題を、抱えている。誰のおかげで、死者数が、抑えられているのか、精々、最前線の現場が、よくやっているから、という点しか、思い当たらぬ中で、政に携わる人々は、活躍の場を見つけ、欣喜雀躍として、画面に登場し続けるが、このまま、引っ込みがつかなくなれば、どう処すべきか、早晩、迫られることとなる。そこで、政治家の常として、民の目を逸らさせる、陽動作戦を、動かし始めたようだ。ある首長が、ほんの思い付きで、発した言葉に、その他大勢が、加わることとなったのは、今のままでは、子供達の将来の、可能性を断ち切ることに、なり兼ねないとする、指摘が出始めたからで、その声が、大きくなれば、自らの進退をも、決しかねない問題と、なるからだ。そこに、思いつきを繰り返してきた、国政までもが加わり、更に、無責任な言動で、加わる世捨て人までが、加わってくると、騒ぎだけが、大きくなる。その意味で、目眩しの作戦は、成功したのかもしれない。だが、実際には、何の戦略もない、ただの思い付きでは、すぐに、お里が知れてしまう。世界基準に、などという言葉が、飛び出すこと自体、井の中の蛙の根性が、現れているだけなのだ。

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4月29日(水)−妄言

 恐怖に駆られると、人間は、正常な判断ができない。だが、庶民達が、正気を失ったかの如く、異常行動を、繰り返すのは、仕方ないこととはいえ、要職にある人間や、専門家と呼ばれる人間が、非論理的な話を、繰り返したり、誤った判断を、下すのは、深刻な問題だ。
 抑え込みには、政策だけが、唯一の手立て、と信じる政治家は、真綿で、首を絞めるような、やり方で、住民に、自粛を要請する。彼らの愚かさは、追々明らかとなるだろうが、規制を解く時期の、見極めに現れるだろう。そんな状況で、南半球の小さな島国の、首相の発言には、耳を疑った。彼女は、感染者が、0になるまで、規制を続ける、と表明したのだ。0は、哲学的な観点から、編み出された概念、と言われるが、この世の中に、全く何も無い、という状態は、あり得ないとも言われる。彼女の先祖も、数学に寄与した偉人を、生み出した国から、移ってきたのだろうが、嘗て、その概念がなく、存在するものだけで、物事を考えた時代も、あったと聞く。それはさておき、居なくなるまで、と約束するのは、不可能を、口にしていることと、同じであることに、気付けないのは、科学に無知な人間の、暴言に違いない。一方、専門家として、世界機関に君臨する人間が、こちらが、言葉を失う程の、発言をした、と伝わってきた。それも、この国の報道機関が、一部を取り上げたからではなく、元々の発言自体が、そうだったので、驚くしかない。病原体への反応から、ヒトは抗体を獲得する場合が、あるのだが、それは、次の感染を、防ぐためと習う。だが、彼は、それが起こらない場合が、あるとして、注意を発した、というのだ。確率的な問題として、科学的には、何の間違いもないのだが、この時期に、相手を定めて、発したことには、明らかな政治的意図が、現れている。支援を続ける国には、勝手なことを、許す一方で、こんな発言をすることに、呆れてしまうと同時に、では、自分達は、終息の判断を、どう行うのか、まさか、人類が滅亡したら、終息なのだ、とは言うまいが。

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4月28日(火)−卑しさ

 緊急事態だからか、世界中で、様々なことが、次々に、起きている。起きる度に、何かしらの情報が、もたらされるが、一つ一つを、検証する暇も無く、目や耳を、移さざるを得ない。だが、そんな中でも、印象に残るものは、あるものだ。異様さが、際立つだけに。
 世界中で、経済状況の悪化は、嘗て無い程の、規模に拡大している。国毎に、対応の仕方が、異なることから、隣の芝生を、見る気分で、羨ましそうに、眺める人も居るが、この国でも、思い切った策が、講じられつつある。と言っても、何かの機会に、似たような政策が、講じられたとの意見も、あるにはある。だが、印象付ける、という意味では、それなりの効果を、上げているのではないか。ただ、こんな時にも、理解不能な反応を、示す人が居るようだ。貰える、となったら、すぐに、皮算用を始めるのは、貧乏か金持ちかに関わらず、人の性、とでも言うものだろうが、中に、そんな馬鹿な、と思えるものも、散見される。ある自治体の長は、職員に配られたものを、市に寄付したら、との持論を、語ったと、伝えられたが、批判を受け、翌日には、撤回したとも伝わった。だが、その批判の矢は、こちらとは、全く違う的に、向けられたようだ。個人の自由を、束縛するような行為、との批判が、殺到したそうだが、何故、職を失うことも、減給されることも、無かった職員が、支給を受ける、と考えたのか、そこに、問題がある。権利は、誰にでも、なのだから、と思うかもしれないが、そこで、誰が困り、誰が施しを、受けるべきかを、考えることこそが、公僕たる人間の、思考回路となる。同じように、今回の支給では、そんな約束は、無用となっているが、国民たる者、窮地を脱したら、納税の義務を果たし、経済の回復に、手を貸すのが当然、という考えは、何処にも無い。さもしい心が、露呈するのも、緊急事態だからか。

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4月27日(月)−元通り

 はじめから、予想されていたこととは言え、余りの情け無さに、がっかりした人も、多かったろう。一度、発してしまえば、それを、引っ込めることは、発した時より、難しい判断を、強いられるのだ。たとえ、優秀であっても、世論を、説得するのが、難しいのに、だ。
 元々、この国では、政治家には期待せず、との態度を、決め込む人が、大多数だった。だが、何やら、毎日の如く、次々に繰り出される、自粛という前置きでの、新たな規制に、嫌気を催しながらも、従わざるを得ない状況に、まるで、それが、素晴らしい手立てのようだ、と信じる人まで、現れてくる。無能ぶりには、何の変化もなく、何とかの一つ覚えで、同じことを、ただ強めているだけで、終わりの見えない中、対応策を、講じているように、見せている。だが、この恐怖の筋書きが、どこで、結末を迎えるか、渦中の首長でさえ、知らないし、知る術を持ち合わせてもいない。また、何が、指標となるかさえ、見えていないとなれば、引っ込みは、つかなくなるものだ。その中、本来ならば、強い懸念が出されても、いい筈のものがある。それは、子供達の教育なのだ。ついこの間まで、その重要性を、声高に訴えていた人々が、今は、子供だけでなく、家族の命の問題を、強調している。しかし、今の状況が続けば、教育は、取り戻すことが、不可能な程に、荒廃してしまう。別の手立てを、と模索する動きは、無い訳ではないが、環境整備の遅れが、壁となっていることは、明らかなのだ。その中で、ある高校生が、命が大切なので、無理矢理登校させないで欲しい、と訴え、この期間に、自分で勉強する喜びを、知ったとさえ、付け加えた、との報道があった。今の動きから、大歓迎との反応が、示されたが、こんな美談紛いに、惑わされてはいけない。個人の問題と、その他大勢の問題は、全く別であり、従来の方法しか、適用できない中では、早急に、元通りに戻さねば、取り返しのつかないこととなる。将来への期待を、潰さぬ為に。

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