パンチの独り言

(5月4日〜5月10日)
(不確実、自然免疫、大外れ、食い違い、お飯事、暴挙、無知の無恥)



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5月10日(日)−無知の無恥

 ある地方で、初めての死者が出た、という報道に、驚いた人が、多かったのではないか。国中で、これ程までに、騒ぎを広げ、感染の広がりより、そちらの拡大の方が、遥かに大きくなっている。何しろ、身近で、誰も、感染していない、という人ばかりだからだ。
 それを、如実に表わす、報道だったが、その伝え方には、例の如くの思惑が、露骨に、現れていた。それは、「初めて」という言葉に、驚きも示さず、淡々と伝えること、だったのだろう。都合の悪いことは、触れることなく、次の話題へと、移ることで、何事も、無かったこととする。あんなものに、「良心」の欠片も、へったくれも、あったものではない。にも拘わらず、未だに、期待する人が、居るということは、逆に言えば、劣悪なものでも、それに頼るしか、他に方法がない、からなのだ。それを承知しながら、操作や、時に捏造さえ、平気で行う。実は、先程も、ある大学の話題で、嘘八百を、垂れ流した。「大英断」などと、褒めちぎる囁きが、駆け巡ること、約一時間、どこかからの指摘が、あったからだろう。元のデータが、消去されていた。感染に関しても、気になることがある。それは、肺炎の症状だけでなく、若年層の血栓や、子供の川崎病などの、症状が報告された、という報道だ。ここでも、騒ぎを大きくしたい、との思惑が、露骨に表れ、如何に、重篤な病気か、という点だけを、伝えている。だが、前者は、脳血栓や心臓疾患で、的確な治療法や処方薬が、使われているし、川崎病は、多くの免疫疾患と同様に、免疫グロブリンの大量投与が、功を奏したことが、知られている。それらを、伝えることなく、合併症として、深刻な状況である、と報道することは、特に、後者の発見者の国で、また、その治療法に、努力を尽くした人々に、何の礼をも、尽くしていないことを、表している。恥を、知るべきだろう。

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5月9日(土)−暴挙

 今、命を守る為に、活躍するのは、誰かと問われたら、多くが、医療関係者、と答えるだろう。確かに、日々伝えられるように、多くの人々が、重篤な状況に、陥った時、頼りになるのは、医療しかない。だが、その一方で、彼らから届く声には、強い違和感がある。
 日々の過剰業務で、人々が、悲鳴を上げるのは、ある意味、止むを得ない、と見えなくもないが、だからと言って、医療現場での、決断の難しさや、死と直面する、厳しい精神状態は、業務上のものに過ぎず、それを避けて、役割を果たすことは、不可能だ。そこに、目を向けずに、同情の声を、上げることは、彼らの仕事そのものを、冒涜することとなる。だが、心の問題を、最優先に置き、不安や心配を、取り除くことに、腐心する社会は、それとも知らずに、馬鹿げたことを、し続けている。それは、社会だけでなく、医療に携わる人々にも、見られており、共鳴し合う様子は、異様にさえ、見えてくる。中でも、注目を浴びるのは、著名な賞を受けた、研究者の一人だろう。医師でもある人物は、社会への訴求力を、発揮することでも、注目を浴びていたが、この騒動でも、責務を果たそうと、活発に動いている。だが、専門とは異なる、対象に対して、上げた声は、用を成さないどころか、害を広げるように、聞こえてくる。賞を受けたのだから、その分野では、確かな成果を上げたのだろうが、それは、専門的な部分に、限られる。この国は、受賞を、大層なこととして、急に、評価を上げ、見解を求め始めるが、本人の見識は、急に広がる訳も無い。ある部分で、賢人なのかもしれないが、とても、聖人とはならず、この動きも、狭い視野で、一部の見解に従ったものに過ぎない。これでは、まさに、害悪ではないか、と思う人も、居るのではないか。特に、偉大な人物、との評判が、伴うことで、社会全体に、誤解が広がることに、関与したという点で。

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5月8日(金)−お飯事

 女性政治家の評価が、高まっている、と伝えられる。彼女らの打ち出した、政策の成果が、上がっているとされ、それは、女性特有の能力、によるものと言うのだ。だが、本当だろうか。世界的な感染拡大は、何処でも、ほぼ二ヶ月で、落ち着き始めているのに。
 この国でも、ある女性首長の、評価が高まっている、と伝えられる。穿った見方からは、選挙前の活動機会を、得ることにより、露出度を、稼いだだけと見える。その上、強い拘りから、要請と称する、強請とも見える言動に、不安を抱く人も、多いだろう。見方次第だし、女性蔑視と、誤解され兼ねないが、まるで、お飯事の如く、玩具を並べ、一人遊びに興じる姿を、外から、写しているように、見えている。知事は、60年前を、思い出しているのか。幾ら何でも、そうではなく、ただ、打算的に、動いているだけだ。しかし、数値は、彼女達の気持ちを、受け止めることなく、事実を、伝えていく。油断大敵とか、気を緩めずにとか、そんな言葉を、繰り返すだろうが、これまでの数字の変遷は、彼女らの政策により、動かされたものでは、無いかもしれない。政治家の常として、勝てば官軍負ければ賊軍であり、成功は、自らの功績、失敗は、誰かの責任、となる。以前も、書いたことだが、収束を迎えれば、当然ながら、彼らは、政策の成果、と自画自賛するに違いない。また、事実が、明らかになるのは、細かな解析が、行われた後だから、早くとも、10年はかかりそうだ。だとすれば、今、君臨する政治家のうち、何人が、その批判を、受けねばならないか。ひょっとすると、一人も残っていないかも、と思う。ただ、ここ数週間のうちに、対応の是非が、問われることが、起きるかもしれない。変化を、拒むことしか、できない人間には、決断は、できる筈もない。それが、露呈した時、彼らの寿命は、終わるかも。

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5月7日(木)−食い違い

 騒ぎが続く中、胸を撫で下ろした人々には、不穏と映る数値が、連日、発表されている。今後の変化で、一喜一憂するのか、それとも、幕引きを、余儀なくされるのか。となれば、あの日の決定は、何だったのか。例の如く、この国では、忘却の彼方へと、投げ捨てられる。
 感染の広がりは、衰えを見せず、という図式が、想定されており、それに従う、対応策の準備が、進んでいたが、海外の状況と違い、大局を、見誤ったようだ。第二波への恐れ、とか、感染爆発の恐れ、とか、兎に角、大衆の動きを、極力抑えることを、目的とする喧伝は、勢いを、失いつつある。この状況判断の失敗は、何処から、出てきているのか。実は、皆が、この国の状況で、見事に、騙されていることに、原因がありそうだ。以前から、流行性感冒症の防止として、盛んに、伝えられたのは、嗽・手洗いであり、その上で、公共物に触れた手で、顔を触らぬこと、という点も、強調されていた。前者の励行が、この国の被害を、抑えたことに、繋がったとする向きもあるが、実際、そうなのか。また、後者に注意を払い、感染を防ぐことが、重要との話も、本当なのか。そんな疑いを、抱いたのは、自分の行動を、省みたことにも、理由があるが、それに加え、専門家による、感染の仕組みの説明に、矛盾を感じたからだ。手を洗う、顔を触らない、などと言う一方で、感染には、喉の奥にまで、相当量のウイルスが、入り込む必要がある、との説明は、矛盾だらけであり、信用を失うものだった。彼の中にも、矛盾を覚悟の上で、平明な説明を、心掛ける気持ちが、あったのだろうが、これには、無理があった。それまでの説明も、分かり易さを、優先する余り、論理が破れ、自己矛盾を、繰り返しており、やはり、と思わされた。発症に至る感染と、防御を果たした感染に、どんな違いがあるのか。何も、解っていない。

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5月6日(水)−大外れ

 世界中が、金科玉条の如く、挙って、遺伝子検査に、精を出す中、この国は、全く異なる戦略を、採用したとのことだった。感染者の数を、調べることより、発症者の中でも、重症を呈する人々の、治療に当たることを、優先する為の、手立ての一つ、との説明だった。
 ところが、ある晩、戦略本部は、その方針を、転換したと発表した。驚くべきは、その一員が、語っていた戦略に、一切触れることなく、検査数の不足は、体制の整備の遅れ、と説明し、今後は、対応力を、高めると明言したことだ。その驚きは、それまで、戦略に対して、不満を抱きつつも、成り行きを、見守っていた、本部に属さぬ、専門家達が、一斉に、声を上げたことから、十分に理解できた。一貫性の欠如は、信頼を裏切るものであり、信頼を、根底から、覆すものだ。特に、二ヶ月前に、遺伝子検査の不備を、指摘していた人々にとり、あの時の反論は、明白な嘘だった、と映っただろう。だが、その解釈は、如何なものか。遣り取りの詳細を、逐一、調べ上げた訳ではないが、例の如く、応答の際の、一部を切り取った結果、なのではないか。更に、既に、感染者の数が、この検査の徹底でも、分からないことが、明らかとなり、検査の意味は、あくまでも、発症者の把握にある、となった。それを、徹底する為、とすれば、今回の転換は、少しだけ理解できる。だが、それとて、転換の理由が、おそらく、未検査の死者に、発症者が居た、という事実への、対応だとしたら、無駄なこと、と断じるべきだろう。ほんの一握りの、事例を引っ張り出し、大事にする、愚かな報道により、全体の把握を、旨とする組織が、瑣末に引き摺られ、大局を見誤る、過ちを犯しつつある。そこにこそ、批判の矢は、向けられるべきであり、検査の不備を、認めたことを、騒ぎ立てるのは、これもまた、愚の骨頂に過ぎない。

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5月5日(火)−自然免疫

 暇潰しの、続きをしよう。免疫、という言葉を、初めて聞く人は、この国には、居ないだろう。誰もが、学校で、その歴史を学び、今や、進学率が、9割近くとなる学校では、皆が習う科目の中で、より詳しく、学んでいるからだ。必須の知識として、不可欠だから、と。
 半世紀程前に、私達が、学んだ頃には、全く知られていなかったことも、今は、その教科書の中に、数々、並んでいる。免疫についても、歴史を学ぶ中では、種痘が、その技術の一つであり、獲得させることこそが、免疫の基本、と習った。しかし、今では、獲得と並ぶ、自然という名の、ヒトが、生まれながらに、身につけている、免疫反応が、知られている。それも、専門知識としてではなく、中等教育で、身に付けるべきもの、とされる中でだ。昨日書いたように、今回の感染症においても、免疫反応が、重要な役割を、果たしている、と思われるが、その仕組みは、明らかではない。今、明らかになりつつあるのは、自覚症状のない、人々の間でも、このウイルスのたんぱく質に、反応する抗体を、有する事例が、数多くあった、ということだ。前から書いているように、これを、恐怖を煽る材料として、使いたければ、勝手にすればいい。だが、論理では、そんな愚論ではなく、緻密な解釈が、施せる。後生大事に、扱われてきた、遺伝子検査では、ウイルスが、体内に存在することしか、明らかにできず、過去の感染は、一切、明らかにできない。ところが、抗体検査は、それを明らかにしたのだ。それ自体は、驚きだが、これは、獲得免疫の結果でしかなく、もし、自然免疫が、感染を防いだとしたら、それは、見逃している。これを、確かめるには、全く別の解析が、必要となるだろう。これこそが、今後、長期間の解析が、必要だろう、とする理由だ。今の抗体検査も、不完全でしかなく、そこから、結論を、推測するしか、手立てはない。科学の不確実性とは、こんな所にある。確実なことは、ヒトという種が、生き延びたことだけだ。

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5月4日(月)−不確実

 暇だから、という訳でもないが、ここまで、何度も書き綴ってきたことの、中でも大切だ、と思えることについて、もう一度、纏めておきたい。恐怖のどん底から、迷惑の極みと、なりつつある、感染症の正体について、順を追って、考えてみて、纏めてみる。
 一つ目の疑問は、感染の仕組みだ。専門家達が、寄ってたかって、あれこれ説明するが、どうにも、理解に苦しむ。このウイルスは、接触した全ての人が、感染するのか。そこに、大きな別れ道がある。全てが感染するとしたら、今の感染者数は、何故、これ程に少ないのか。それも、この国に限らず、世界中でのことだ。ただ、検査方法に、問題があることを、指摘する専門家は、殆ど居ない。PCR法では、そこに、ウイルスが居ることしか、確かめられない。つまり、感染経験の有無は、確かめられないのだ。一方、抗体検査は、経験の有無を、確かめている。だが、そちらにも、大きな問題がある。精度と呼ばれる、確かさの問題だ。ただ、ここでも、誤解があるようだ。国内の大学が、開発したという、モノクローナル抗体は、確実性を高めるが、単一の抗原、つまりウイルスの一部にしか、反応しない。同様に、世界で使われている抗体も、海の向こうの機関の説明によれば、風邪の原因である、他のウイルスではなく、今回のものだけを、検出するものを、使っている。これでは、感染した人が、どんな仕組みで、ウイルスを排除したか、を確かめていない。つまり、似て非なるものだが、うまく対応できた、かもしれないのだ。ここまでで、感染の確率、発症の確率などに、不確実があることを、書いてきた。そこに、更に、重症化の確率が、加わることで、不確実は、高まってしまう。問題は、こんなに不確実な中で、仮想計算が、行われたことであり、出された結果に、世界中が、振り回されていることだ。恐怖を煽るのは、有無を言わさぬ為で、検証の機会を、与えぬ為だ。この検証には、多分、10年、20年かかるだろう。

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