パンチの独り言

(5月18日〜5月24日)
(情報操作、悪の根源、どう戻す、隗から、転落、大実験、地獄送り)



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5月24日(日)−地獄送り

 いくら、作為に満ちた、と雖も、深刻な顔付きで、心配や不安を、話す人々の姿に、何故、現実を直視できないのか、と呆れても、仕方ない。感染の恐怖、発症の恐怖、そして、重症化の恐怖に加え、死の恐怖と続く。誰が、作ったのか、これだけの人が、騙されるのだ。
 これを、良くできた台本、と呼んでしまったら、世も末となる。何しろ、杜撰な数値を、基にした、想像の産物を、これ程までに、流通させただけでなく、人々を、恐怖のどん底に、落としたのだ。確かに、座り心地の良い椅子で、読み耽る小説なら、こんな盛り上がりも、歓迎すべきだろうが、こちらは、日々の生活が、危ぶまれる程、窮地に追い込まれながら、別の、ありもしない恐怖に、心が痛めつけられている。騙され易い、と言っても、平和な国に育った、無垢な人々だけでなく、他人を出し抜くことに、精を出すことで、上昇を狙い続ける、一癖二癖ある人々まで、こんな檻に、押し込められた。命の危機、という理由でも、こんなに簡単に、騙される筈はない。だとすれば、何が、その端緒となったのか。簡単には、見抜けないだろう。でも、その元凶となった人々については、心当たりがある。この事態を招いた、直接的原因は、世界中で断行された、政策であり、ほんの一握りの国を除けば、大多数が、経済崩壊をも、引き起こしかねない、愚策を講じたことだ。それも、極端なもので、調整ができず、今のような事態を、招いたことも、ある意味、自明なのだ。では、何故、各国が、そんな愚策を講じたのか。それは、ある世界機関が、ある偏った見方に基づいて、非現実的な台本を、世界中に、届けたからだ。舞台で演じられる、芝居の話なら、恐怖を感じつつも、楽しめただろうが、これは、現実として、押し付けられたものだ。ここまでの成功を、収めるとは、本人達も、予想しなかったろう。だが、この結果に、責任を負うべきは、これらの人々なのだ。謝罪すらしない、あの機関の長は、地獄に堕ちるべき、と思う人も多いだろう。

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5月23日(土)−大実験

 感染症の研究が、爆発的に進歩する、という期待があるが、果たして、そうなるのか。断定的な指示が、出されているのに、何故だか、その言葉に、付け加えられたのは、可能性の話ばかり、それも、最悪の筋書き、とでも言われそうな、あり得ないものばかりだ。
 科学は、所詮、可能性を論じるだけで、断定的なことは、一つとして、言えないものだ。という話を、聞かされる度に、多くの人は、当たるか外れるか、解らないものではなく、こうなるという話、特に、自分は、どうなるのか、という話を、聞きたいと言い返す。だが、徐々に、状況が、明らかになるにつれ、最悪は、絵空事となり、空想となり始めた。となれば、皆が、怖さを忘れ、暴走に走る、とばかりに、恐怖は、終わっていない、そこに、まだあるのだ、と叫び始めた。冷静に考えれば、これで、何が変わるのだ、と思える。徐々に、危機は去りつつあり、恐るるに足らず、となる筈が、そうならなかった。何故か、どうしてか。確率でしか、物を言っていないのに、何故、恐怖は、こびり付いたまま、剥げ落ちなかったのか。実は、ここにこそ、研究の種が、芽生えている。集団心理とか、行動心理とか、そんな言葉で、表される、集団行動の原理は、昔から、多くの研究が、なされてきたが、調査ばかりで、多種多様な様式が、紹介されるだけで、何らかの結論が、導かれることは、殆ど無かった。それに対し、心理の変化を、数式で表す試みが、始められると、初期設定を、決めさえすれば、結論が導かれる、道筋が、見え始めてきた。そこに、今回の騒動だ。これまでに、編み出された、方程式の多くを、大量の数値で、検証することが、可能となりそうだ。人間行動を、実験することは、様々な制約があり、難しいと言われてきた。だが、今回の感染症は、まさに、真実に基づいた、行動を確かめ、そこへの、様々な影響要因を、国の違いを使い、検証できる。感染症そのものの研究が、これから先、様々な実験や検証を、必要とするのに比べ、こちらは、簡単そうに見える。誰が、飛びつくだろう。

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5月22日(金)−転落

 何事にも、頂点を極めたい、と思う人が居る。しかし、頂点に立てるのは、たった一人であり、そこに、登るのも、居続けるのも、難しいものだ。さっさと諦めるか、それとも、別の頂点を目指すか、そんな選択に、迫られることもある。競争の中で、どう抜け出すか。
 競い合いにも、様々な状況がある。速さや強さという、明確な違いを、競うものがあれば、能力と呼ばれる中でも、形に表し難い、指標での争いもある。それでも、頂点に立ちさえすれば、満足できる、という人も居るだろう。こういう競争の多くは、単なる勝ち負けであり、そこから、何かの責任が、生まれる訳ではない。だが、社会の中での競争では、頂点に立つことで、満足が生まれるだけでなく、その地位に就くことで、生じる責任がある。頂点を極め、その地位を守る、という問題だけでなく、その地位にあることで、責任を負わねばならないのだ。そう考えると、単純に、頂点に立てば良い、とは行かぬようだ。人の上に立つ、という意味での頂点には、ただ、立つだけでは、済まないことがある。その意欲を、見せる人の多くは、その意味を、理解しているが、一部には、そうでない人も、居るのではないか。そんな人間が、上に立ってしまった、組織は、飛んでもない憂き目に、遭うこともあるだろう。緊急事態が、発動される中で、一国一城の主達は、それぞれに、興味深い対応を、示している。ここぞとばかりに、活躍の場を得て、生き生きと振る舞うが、中身が伴わないのは、実力の表れだろうし、独自の路線を、歩むように見せかけるが、現実には、何の策も持たず、無能ぶりを、露呈する者も居る。何しろ、被害の大小も、地域毎に、大きく異なるから、対処法も、それぞれに、異なってくる。だが、猿真似しかできず、独自と称する、真似事だけを、続けていては、何の打開策も、講じられないのだ。首長としても、人間としても、落第となれば、頂点からは、転げ落ちていく。

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5月21日(木)−隗から

 一時金が、徐々にだが、手に渡り始め、庶民は、一息つけるのかも、しれない。これが、日々の生活費として、使われれば、目的を果たしたことに、なるのだが、果たして、どうだろうか。困窮している、との実情から、一部への支給が、検討されたが、全員となったからこそ。
 各国で、横並びの如く、実施された支給は、庶民の命を、繋ぐ為として、実施されたものだが、穿った見方からは、愚民政治の典型、とも映る。民の気を惹くことが、優先とされる中、これ程に、強い印象を与えるものは、珍しいだろう。だが、国の経済状況が、悪化の一途を辿り、打開策が、見つからぬ中、このままでは、世界中が、沈みゆく船に、なりかねない。一時的な手当てとして、効果が見込めるからこそ、挙って実施したが、それは、今後の展開を、明るくする為の、重要な一歩だが、施しを、当然のものと見る、愚かな民は、果たして、この後に来る苦境を、乗り越えられるのか。その為に、何をすべきか、立案者でさえ、答えが見つけられず、更には、別の恐怖に、晒される中で、究極の選択を、迫られる気分ではないか。だとしても、何かを、始めなければ、回復の糸口さえ、見つけられない。ただ、それが見つかり、始めたとしても、ここまで、脅され続けた人々が、すぐに、戻ってくるのか、これもまた、不確実な問題となる。ただ、どの国も、一時的だからと、予算を、切り崩すことで、対処しただけに、それを、再び、積み上げる必要がある。その為には、経済活動を、戻す必要がある。混乱期に、新たな生活様式、などという言葉が、飛び交っているが、実際には、確実なものを、一歩一歩、進めていくことこそが、必要なのだ。そのことを忘れ、一時金を、今早速に使い、次を、と求めているようでは、何も、戻ってこない。愚かさの現れは、こんな形で、続くのかもしれないが、さっさと忘れ、できることから、始めよう。同じことは、首長にも、当てはまるぞ。

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5月20日(水)−どう戻す

 こういうサイトで、独り言を、書き綴っているのだから、経済問題を、中心に取り扱うべき、と思うかもしれない。しかし、経済という学問を、正しく扱わず、私利私欲に走った上で、国の要職に、就いていた人物のように、誤った市場原理の解釈を、押し付けたくはない。
 彼の過ちは、まともな研究もせず、ただ単に、著名な学者達の説を、受け売りすることで、地位を得たことで、中身のない主張を、繰り返し、この国の経済状況を、悪化に向かわせたことだ。とはいえ、失策も、失敗も、組織自体が、努力することで、大きな傷は残ったが、破滅とは、ならずに済んだ。今回の感染騒動も、恐怖が優先され、大局的な判断が、排除されたことで、経済状況を、保つ努力が、為されないままに、異常な状況へと、世界が、陥ってしまった。個人の経済を、支えることだけは、保てた国も、あったようだが、一部は、それさえも、投げ出したまま、命を守るという、かけ声だけが鳴り響き、人々の生活が、破壊された国も、数多くある。重要なことは、全体の均衡を、如何に保つかなのに、恐怖が、それを妨げ、異常行動が、強いられることに、なったことだ。その結果、経済状況は、嘗て無い程に、悪化の一途を辿り、回復の兆しが、見えないとされる。市場原理などという、馬鹿げた考えに、取り憑かれた人々は、今回の変化を、どう捉えているのか。原理が、破壊され、微妙な均衡で、保たれてきたものが、脆くも崩れ去ることに、どんな感想を、抱くのだろうか。たとえ、回復の道を、歩み始めたとしても、今回の措置によって、損失を被った、国家予算を、どう立て直すかは、次に来る難問となる。更に、一部とは言え、施しを当然とし、労を惜しむ人々が、社会に溢れる事態に、どう対処するかの、手立ては、まだ、何も見つかっていない。経済対策も、一度失った均衡を、回復する為のものは、多種多様にあるだろうが、正しいものがどれか、誰にもわからないのだ。

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5月19日(火)−悪の根源

 世界各地で、経済指数が公表され、少し前の数値に、落胆の声が、上がり始めたが、直近のものが、更なる悪化と、予想されると、先行きへの不安は、膨らみ続けそうだ。ある意味、当然の結果だが、今後の成り行きには、様々な見方が、出され始めた。
 その際に、歴史に学ぶとばかり、以前の下落を、引き合いに出す。同時多発テロ、リーマンショック、様々な天変地異、等々、要因は様々で、その後の経過も、それぞれだった。人間同士の戦いや政策の誤りという、人為的な要因に対し、自然現象は、人智の及ばぬもの、と言われる。何れにしても、人間は、元通りの成長を、目指して努力してきた。それに対して、今回のものは、どうだろうか。おそらく、多くの人々は、自然現象の一つ、と考えるだろう。だが、それが、大きな間違いだとしたら、どうだろう。確かに、感染症の拡大は、新旧何れにしても、自然現象なのだが、今回の下落は、それ自体ではなく、その抑制策として講じられた、各国での政策が、発端となっている。天災の如く、扱われているが、実は、人為的なものなのだ。だとすれば、テロと似たもの、との解釈も、適用できる。その動きがあるが、実際には、それとも、大きな違いがある。それは、人間の間での諍いは、互いの猜疑心が、大きく影響するが、今回のものは、自分達が、自分達に押し付けた、政策の結果だからだ。猜疑心は、感染症に対して、抱かれているが、それは、成り行きとして、どんな結果が出るか、ということだけで、出てしまえば、疑いは晴れてくる。だとすると、今後の経過は、テロとも違う様相を、呈するのではないか。ただ、自ら招いた危機を、自ら取り除く必要を、各自が感じなければ、正常化への道は、発見できない。ここまで読むと、では、この全世界的な下落の原因は、何処にあるのか、見えてくるだろう。感染を防ぐには、と大々的に喧伝し、誤った政策を、強要した、例の世界機関にこそ、全責任がある。そんな総括を、自ら行うことは、全く期待できないが。

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5月18日(月)−情報操作

 誰もが発言できる、場が提供され、状況は、一変したと言われる。大きな組織が、客観性に基づき、情報の取捨選択を、行なってきた時代と違い、主観的で、細かく、些細なことまで、皆の目に、触れるようになった。発信側には、有難いと映る、状況なのだろう。
 だが、社会には、悪意に満ち、自己中心的な、人間は、数え切れぬ程居る。彼らにとっても、便利な道具が、与えられたようで、仕組みに流れる情報には、事実に基づかず、嘘が鏤められた、塵でしかないものが、溢れるようになった。そこに、善意の行為と呼ばれる、伝達の仕組みが加わり、嘘が、社会全体に、急速に広がるという、困った事態が、毎日のように、起こるようになった。偽情報の被害者には、悪意だろうが、善意だろうが、結果が全てであり、どんな思惑だろうが、害を加えたことに、変わりが無いのだ。その点に、焦点を当てた対策が、講じられても、情報を鵜呑みにし、親切心という武器で、被害を広げる行為は、無くならない。これは、別の見方をすれば、本物の情報を、まさに親切心から、拡散する善意の多くが、無くなるのでは、という懸念が、同時に、抱かれているからだろう。だが、問題の根源は、情報の真偽を、確かめることなく、拡散に、精を出す行為にあるのだ。検証と言うと、如何にも、大変な作業に見えるが、ほんの一手間で、防げることに、気付くべきだろう。多くの人は、それを惜しんで、加担しているのだ。一方で、先日取り上げた、公共放送の誤報には、別の見方が、あるようだ。作為的誤報とする見方は、まさに、世論を動かし、体制を動かそうとする、意図の現れ、というものだが、果たして、どうだろうか。ある特殊な公務員の、定年に関する法改正に、多くの囁きが、ある業界から出され、物議を醸した、と言われるものも、ある作為が、潜むのではないか、との指摘がある。小さな力に頼み、大事を成すことは、時に、意味のあるものと、言われることが多いが、最近の傾向は、何やら怪しげに思える。

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