パンチの独り言

(6月1日〜6月7日)
(惑わぬ、理由は何、鬱積、生き残り、生殺与奪、洗脳、世捨て人)



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6月7日(日)−世捨て人

 洗脳、という言葉に触れ、驚いた人も、居るのではないか。これまで、洗脳と言えば、誰かが、自分に有利になるように、他人を操る為に、行うことと思われてきた。権力にせよ、利益にせよ、何かが、手に入ることと、結び付く筈なのだ。では、今回のものは、何か。
 敢えて、掘り返そうとすれば、ここでも、権力という考えは、適用できそうだ。世界機関の、あの人物も、自らの地位を、守る為に、ありもしない展開を、捏造し続け、垂れ流している。世界の権力者達も、自らの力を、誇示する為に、脅威を誇張し、人民を、支配しようとしている。この考えに、同調する人は、恐らく、居ないだろう。彼らだって、必死に、解決策を、講じている、と信じているからだ。だが、そんな思惑は、流石に無いにしても、今のやり方は、明らかに、人民を洗脳し、ある方向に、進ませようとしている。目的は、不明確でも、手法は、洗脳なのだ。民度という、不思議な言葉で、表現された、独自の仕組みが、施されたこの国でも、解除後の街中に、出てきた人々から、不安の声が、上がっていると言われる。だったら、出てこなければ、と指摘しても、身勝手な連中に、届く筈も無いが、その連中でさえ、決まり文句のように、感染症の恐怖を、語っている。それ程に、強烈な効果を、見せているのだ。更に強い制限を、押し付けられた国では、もっと深刻な状況が、起きていると言われる。ここでも、情報の偏りに、警戒すべきだが、多くが、警戒を怠らず、他人との交流を、控えているそうだ。だが、ヒトという種は、社会性の動物と言われ、集団での行動が、基本となるものだ。いかに、恐怖が巨大だとしても、こんな様式が、続けられる筈が無い。人間らしさを、失ってしまえば、その存在さえ、危うくなるのではないか。それとも、それこそが、新人類の生き方、とでも言うのか。小説の世界ならまだしも、こんな夢物語に、付き合う気は、起きてこない。

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6月6日(土)−洗脳

 恐怖は、去っていない。報道の中心は、未だに、死への恐怖であり、感染症の流行が、過ぎ去っていない、と伝える。だが、誰も、恐怖の正体を、見た者は居らず、ただ、口々に、再来を訴え、緩みを、戒めている。では、何が、恐怖の正体か。それは、心の中にある。
 普段なら、高を括って、注意や忠告を、無視するだけなのに、何故、姿の見えぬものに、これ程の、恐怖を抱き続けるのか。後々、心理的な効果や、相互の影響など、様々な要素を、採り入れる形で、分析が進むだろう。だが、これという、単一の要因に、行き着くことは、無いのではないか。日々、大々的に、発表される死者数に、多くの人は、衝撃を受け続けた。一時的な発生なら、噂と同様、1週間もかからず、忘れ去られたろうが、記憶の定着法と同様に、日々の反復は、効果を上げたに違いない。だが、それにしても、何故、それらの数字だけに、目を奪われたのか。そこには、大衆の理解力が、大きく関係したようだ。つまり、大きな数字を、見せつけられれば、誰でも、大事と、受け取ることができる。それが、全体の、どれ位の割合を、占めるのかを、示したとしても、それを理解することは、難しい。だからこそ、多数の論理で、押し切られ、誤った解釈さえ、鵜呑みにしてしまう。その背景にある、複雑な仕組みに、疑問を抱くことなく、専門家の偏った解釈を、盲信してしまった。この現象の恐ろしさは、専門家さえ、何が正しいかを考えず、鵜呑みにしたまま、走り続けたことと、それが、全世界に広がり、大衆が、その考えに染まったことだ。これは、ある集団を、一つの考えに、縛り付けること、つまり、洗脳の一種が、行われたことを、表している。宗教への帰依が、時に、危険な思想への、暴走へと繋がるとして、洗脳を、厳格に取り締まるべき、としてきた組織や国が、何処も彼処も、挙って、その行為を行い、影響を広げた。この危険な状態を、脱するには、洗脳を解くしか、手立てがないようだ。

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6月5日(金)−生殺与奪

 新技術に、飛び付くのは、いつの時代も、若者達と思われている。確かに、新しいものに、すぐ慣れるのは、柔軟性が、高いと言われる世代だが、生き残りを、かけるには、実は、若者だけでは、不十分と言われる。少子化もあり、割合として、大したことがないからだ。
 とは言え、革新技術への、若者の期待は、大きいと言われる。これも、常のことだが、先頭を走れば、他人を出し抜くことが、可能となるから、新参者にとって、有利なものとなる。だからと言って、若者が、常に、変化を求めているか、怪しいと思う。職場でも、最近は、特に、そのことが、問題視されている。彼らの言い分は、折角苦労して、ここまで来たのだから、このままが良い、ということらしいが、期待外れも含め、次代を担う人々への、現場の落胆ぶりは、かなりのものだ。同じことは、教育現場でも、起きているようだ。社会への出口、と見做される大学では、特に、その傾向が、著しいと言われる。受験戦争を、勝ち抜き、やっとのことで、辿り着いた場所で、今のまま、と思うらしいが、未熟者が、何を、と厳しく言われている。だが、社会は、こんな人間に、優しくすることを、当然と見るようで、甘やかす言葉が、飛び交っている。今回の混乱も、教育の権利が、脅かされたとして、授業料の返還を、求める声が出たらしいが、愚かとしか言えぬ。それに対し、擦り寄る意見を、出す輩は、若者への理解が、あるとされるが、ただの無知だろう。この混乱で、確かに、従来の方法は、実施できなかった。だが、教育の水準を、保つ努力は、教える側で、確かに行われ、実行されている。それより重要なことは、大学は、教えて貰う場ではなく、学ぶ場なのだ。自分で動くことを、しないままに、権利を主張し、金をせびるのは、本末転倒どころか、その場に、居るべき人間でないことを、表している。努力の機会は、以前同様にあり、それを生かすも殺すも、本人次第。違う仕組みだからこそ、新たな道具を、身に付けられる。絶好の機会を、逃すのは、変化を望まぬ、無能者でしかない。

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6月4日(木)−生き残り

 緊急事態となり、自粛という名の下に、強く圧力が、かけられて来たが、何も、悪いことばかりじゃない、と言われると、何となく、その気になるのだろうか。多くは、そんな言葉に、騙されないぞ、と思うだろう。欲の皮が、突っ張る人々は、特に、もっと寄越せ、と。
 後先考えず、今、貰えるものは、何か。そんなことばかり、思う人々には、良いことが、などと言っても、何が貰える、としか思わず、それ以外のことには、全く、興味が湧かない。そんな中で、家の中に、閉じ込められ、生活に、大きな変化が、起きた人々は、例えば、仕事に出かける習慣は、無用に思え、買い物も、出かけずに済ませ、観光さえも、映像などの仮想的なもので、済ませてしまう。これで良い、と思うのなら、そのままで、良いのだろうが、経験とは何か、を考えてみると、かなりの危うさが、見え隠れする。推奨する人々は、恰も、実体験に勝るもの、という扱いを見せるが、早晩、化けの皮が、剥がれてしまうだろう。これまでにも、技術革新を糧に、様々な仮想技術が、現実化されて来たが、その度に、一瞬の注目の後、見事に、忘れ去られて来た。今度は、違う、との声も聞こえるが、実際には、強制された中での経験で、他の選択肢が無く、比較対象が無い中では、騒ぎが、収まった時に、どうなるかを見なければ、何も言えそうにない。既に、規制が外れ、自由が、手に入り始めた途端に、各地に、出かける人の数は、一気に、増したと伝えられる。ネット検索で、現地の情報を手に入れ、そこに、映像が現れても、結局、出かけてくる人には、仮想体験は、所詮、幻に過ぎないのだ。それしか、手に入らない、となれば、我慢もするが、そうでなければ、すぐに、出かけるのだ。他人の目は、依然として、気になる所だが、少しずつ、慣れてきたし、外出の喜びは、変え難いものがある、とも言われる。この中で、新技術は、生き残れるのか。

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6月3日(水)−鬱積

 医療への期待は、何だろうか。庶民にとって、病は、あらゆる意味で、恐怖の対象であり、命を奪われることは、勿論のこと、日常生活に、支障が出れば、経済的な面を含めて、影響は大きい。だからこそ、医療によって、普通の生活を、送れれば、それだけで満足だ。
 ところが、今の状況は、全く異なるものとなっている。医療への期待は、相変わらず、あるものの、同じ医療従事者からは、悲鳴が届けられ、それらを束ねる、国内の機関や、国際的な機関さえ、混乱が続いている。それに加え、本来なら、安心を与えてくれる、人々からは、恐怖を煽る情報ばかりが、届けられる。民衆は、恐怖の対象の実体を、知ることができず、届けられる情報から、その恐ろしさを、知るしかない。その中で、こうすれば大丈夫、という保証ではなく、あれもこれも駄目、という脅しだけが、届けられている現状は、とても、心穏やかに、保てるような環境にない。これが長く続けば、人々の心は、徐々に、蝕まれていくだろう。人から人へと、感染する病気も、確かに、心配すべきものだが、ウイルス同様、目に見えぬ形で、社会全体に伝染する、心の病も、同様に、心配すべきものだ。これもまた、専門性の違いがあるが、同じ機関が、司るものであり、それに従事する人々は、全く異なる悩みを、抱えているだろう。隣にいる専門家から、発せられる警告が、その元凶と、分かっていても、止めることはできない。社会全体が、病んでしまったら、どうにもならない、との思いを抱いても、明らかに過剰と見える、警告を、止めることができぬまま、放置して良いものか。良い筈は無い。乱射事件が、日常的に起きる、海の向こうでは、規制が、徐々にとはいえ、外されることで、連続的な事件は、起きずに済んだが、全く別の要因が、大暴動へと結び付き、別の緊急事態が、起き始めている。これもまた、副作用の一つ、ではないのか。鬱積は、こんな現れ方を、するものだから。

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6月2日(火)−理由は何

 不確かな情報の下、苦心惨憺の、方策が講じられた。世界の他の国とは、大きく異なる数値に、注目が集まるが、その理由を、方策によるもの、とするのは、如何にも、時期尚早と思える。それは、次の波が、来るかもしれぬから、という月並みなことではない。
 彼らの見方そのものが、当初から、外れていたという見解が、そろそろ、出て来ても良さそうに思う、からだ。感染症の広がりを、仮想計算に頼り、防御策が、講じられたが、想定したのとは、大きく異なる展開が、起きた。これは、頼りにした想定が、誤っていたと見るのが、最も妥当に思える。だとしたら、好結果を産んだのは、講じた策ではなく、自然の成り行きの、結果と見るのが、正しいことを、表している。にも拘らず、結果の違いを、方策の違いによる、と見てしまうと、この先の、成り行きもまた、取り違えることになる。これは、最悪の事態が、起きるという、悲劇的な台本ではなく、全く異なる、生き物の不思議に、触れることを、表しているのではないか。つまり、この感染症もまた、生き物としての能力で、対応できたことを、示しているのだ。確かに、死者数は、膨大となり、現場の混乱も、極めていた。だが、一時に集中したことが、その理由であり、その場での対応の、巧拙が、数の違いとして、残っただけのようだ。これは、何も、現場への批判として、示すものではなく、単純に、対応法を、検討するきっかけに、すべきこと、という意味に過ぎない。その部分で、この国は、一つの利点を、活かしたのだろうが、それについては、他国も、真似すれば良い。それでも、やはり、数を、ゼロに抑えることは、不可能だ。これは、同じ死因で、多くの人々が、毎年、世界中で、亡くなっていることから、わかる筈だ。その視点から、今回の災禍を、検証する必要は、必ず出て来る。それなしでは、また、的外れを、繰り返すだけで終わる。

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6月1日(月)−惑わぬ

 正しく恐れる、災害の度に、取り沙汰される話で、何度も聞かされ、そろそろ、聞き飽きた、との声が聞こえる。過剰反応が、時に、誤った判断へと繋がり、それが二次災害へと、結び付くからこそ、しつこいくらいに、喧伝されるが、何処に、問題があるのか。
 元々は、状況判断における、材料の選び出しや、基準の設け方に、問題がある、と指摘されて来た。目の前のことだけに、目を奪われて、大局を見誤る、と言われたり、恐怖が先に立ち、基準を、極端に下げることで、更なる恐怖を、催すという連鎖も、指摘されたり、という具合に、恐怖感だけが、極度に拡大し、それによって、冷静さが失われ、過ちを繰り返す、と言われる。だが、この態度を、是正するとして、何を、どうすれば、いいのかは、示されることが無い。冷静さを、取り戻す為の手立てには、どんなことがあるのか。一つには、感情的にならず、客観的な指標を、見つけることがある、と言われる。何が、客観なのかは、人それぞれだが、共通するもので、ある意味、万能と思われるのは、数字や数値、ある基準に立ち、大小関係を、数字で表したものだろう。これにより、事の重大さも、数字で表現し、以前の経験と、比べることも、可能となる。だが、これで安心、とはいかない。何故なら、手に入れられる数字が、操作されたものでは、思惑に満ちたものとなり、それに、左右されてしまうからだ。今回の感染症では、生の数字が、発表される中で、様々な人々が、自らの意図に、結び付くものを、選び出したり、強調することで、持論を、押し付けて来た。これでは、受け手は、無力化されてしまう。操作を読み取り、それを、取り除いたものを、見つけ出すことで、正しい判断へと、到達できる。更に、分析を進めれば、思惑に左右されず、自らの判断の基準となる、数値を導くことも、可能となる。鵜呑みにせず、見極めることこそが、大切なのだ。

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