パンチの独り言

(6月15日〜6月21日)
(経験を糧に、ゴミ情報、犠牲、楽苦、騙されてる、失権と復権、迫る恐怖)



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6月21日(日)−迫る恐怖

 根も葉もない噂、ではないのだ。確かに、そこにある恐怖、が迫ってきているように、誰の目にも、映っている。だが、その実情を、目を凝らして見ると、恐怖が、異常に膨張した、まるでお化けのような、姿をしたものであることに、気付く。何が、違うのだろうか。
 原点に、立ち返って、考えてみれば、その答えは、すぐに見つかる。だが、恐怖に苛まれ、感染防止にと、自粛を迫られた結果、そんな考えは、微塵に砕かれてしまう。死は、貧富にも、人種にも、何の差別もなく、必ず訪れる。死への恐怖は、誰もが抱き、時に、苛まれるものだが、古今東西、その運命から、逃れられた者は、一人として、存在しない。では、その訪れは、何が決め、どういう経緯を、辿るのか。それは、人それぞれであり、じわじわと、襲ってくるものだったり、突然、降って湧いたように、訪れることもある。誰もが、備えたいと願いつつ、その手立てを、見つけることが、できずに居るのだ。だとしたら、運命と諦め、日々の生活を、黙々と続けることこそが、賢明なのではないか。そんなことを、大きな声で、訴えると、一斉に、罵声が浴びせられる。自分達の権利を、まるで奪うが如くの、意見に対して、強い反発を、感じるからだ。だが、他の手立てが、あると言うのか。あれもこれも、できる限りのことを、したいと願うのは、自由なことだが、避けられる運命と、そうでないものの、区別をしたらどうか。避ける為の手立てが、あると信じて、行動するのも、自由であり、そうしないのも、自由ではないか。社会から、強い圧力を受け、それに、苛まれる人も、数多く居る。恐怖のはけ口として、彼らへの攻撃を、行う人々には、どんな考えがあるのか、全く見えていない。こんな状況で、新しい生活様式とか、次の波への備えとか、好き勝手な意見が、世間に、ばら撒かれている。役立たずで、無理筋の論理には、何の意味も無いが、恐怖が、それを、押し通させる。冷静さこそが、それを、押し返せるのだ。

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6月20日(土)−失権と復権

 半世紀程前、科学への信頼が、失墜したことを、覚えているだろうか。若い世代には、何のことやら、想像もつかないだろうが、そんなことが、起きていたのだ。科学技術の進歩に、皆が、利益を得ていた中、次々に広がる、被害の波に、元凶とまで、呼ばれていた時代だ。
 海の向こうでは、環境問題として、汚染の広がりが、ある女性研究者により、指摘され、それを著した「沈黙の春」は、話題となった。こちら側では、それに遅れること暫くして、公害問題として、国内各地で、被害者が、続出することとなった。どちらも、企業の立場に、問題の核心があり、その影に、科学の功罪が、見え隠れしていた。技術の進歩は、確かに、全ての庶民に、利益をもたらしたが、副作用として、環境破壊や、ヒトをはじめとする生き物に、悪影響を及ぼす結果となり、命に関わるとなれば、利益のみを、追求することは、悪と見做され、更に、それが、一企業の利益と結び付けられ、科学は、悪の権化の如く、扱われていた。しかし、その後、害を取り除きつつ、利益を追求する方法が、科学によって、編み出されると、人々の印象は、再び、元の方に向かい始めた。その後も、害が広がる度に、科学の功罪が、取り沙汰され、悪者呼ばわりが、何度も起きてきたが、基本的には、科学技術の進歩は、著しいものとされ、限りない利益が、産み出されるもの、と見られてきた。それが、更なる信頼を招き、この間までは、高い信頼を、得ているものと見えていたが、今回の騒動は、再び、失墜への筋書きへの、序章となっている。死への恐怖を、殊更に、強調することで、世界的な混乱が、一気に拡大することで、経済的な低迷だけでなく、心理的な抑圧が、人々の上に、降りかかっている。だが、混乱の極みを越え、徐々に、規制が解除される中、騒動の発端となった考えが、不確かなものでしかなく、更に、今も、不確実な意見が、流布され続けることに対し、専門家と呼ばれる人々だけでなく、科学そのものへの信頼が、大きく失われつつある。復権は、科学自身が、行わねばならない。

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6月19日(金)−騙されている

 世間が、どれ程に、悲観に走ろうとも、こちらの超楽観は、変わらない。落ち着き始め、鈍重な動きが、起こり始めても、世間の人々は、依然として、警戒を解こうとはせず、口々に、不安を呟く。だが、その根拠は、何処にあるのか。彼らの中に、一人でも、答えられるのか。
 問い質すと、これまた、申し合わせたかの如く、同じ意見が、返ってくる。それは、ワクチンが無いから、不安なのだと。所詮、誰かの意見の、受け売りに過ぎず、その意味さえ、考えたことが無い。なのに、定番であり、確実なもののように、断言してくるのだ。だが、彼らに向かい、次の問いを投げると、表情が変わる。その問いとは、「感染を防ぐ為に、ワクチンが有用だけど、あなたの周囲で、感染した人を知ってる?」というものだ。ある業界では、肯定の返事が、戻ってくるのは、当然のことだが、巷の庶民にとり、感染者、正確には陽性者を、知ることは、宝くじの高額当選者を、知ること位に、稀なことなのだ。それは、今でも、0.03%にもならず、3000人に一人程度、となる。知り合いが、三千人も居る人は、余り居ないだろうから、知らないとの返事が、当たり前なのだ。だとしたら、感染を防ぐことは、そんなに重要なのか。それに比べ、毎年流行する、インフルエンザは、身近に感染者が居る。だからこそ、ワクチンが、供給され、接種する人が、居る訳だ。だが、こちらも、当たり外れがあり、年によっては、効果を得られぬことがある。それと同じことが、今、期待されるワクチンにも、当てはまるし、更には、副作用の心配も、出てくる。効果と副作用、どちらに転ぶかは、危険度の大きさに、よるものであり、それが、感染の確率となる。だとしたら、今の話、どう思う、と尋ねると、殆どが、成る程と答える。こんなに簡単な論理が、何故、広まらないのか、不思議でしかないが、それこそが、彼らの思惑であり、恣意的情報操作の結果、なのだろう。

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6月18日(木)−楽苦

 分かり易い話が、好まれる時代と言われる。手間をかけず、すぐに理解できれば、時間の節約になる、ということか。情報の氾濫の中、それぞれを、理解するのに、時間や手間がかかれば、後れを取るとされ、情報を整理し、解説する人々が、持て囃されるのだ。
 学問を、極めようと努力しても、その内容が、伝わらなければ、評価は上がらない。専門家の世界でも、この悩みを抱え、苦しむ人が出始めたのは、こんな背景が、あるのではないか。そこで、取り沙汰されたのが、伝達能力であり、難しい話を、噛み砕いた上で、分かり易く伝える技術に、注目が集まっていた。その中で、学問の能力そのものより、説明能力の高さが、評価の対象となり、画面や紙面を、賑わす人が、登場することとなった。では、その結果、大衆の理解は、深まったのか。今回の騒動を、眺める限り、そう言えそうに無い。それより、誤解ばかりが、拡散することで、却って、大きな問題が、生じ始めている。人間誰しも、簡単には、死にたくないものだ。だからこそ、死の危険を、大袈裟に取り上げ、その度合いを、誇張すれば、誰もが、危機感を抱き、我慢を強いられても、甘んじることになる。だが、その根拠の殆どが、不確実なものばかりで、説明上手の人間により、分かり易く語られることで、恰も、絶対確実のように、紹介されることとなり、逃れられぬ運命の如く、受け取らざるを得なくなる。だが、一つ一つを、丹念に検証すれば、どれ一つとして、確認されたことはなく、殆どが、想像の産物に、過ぎないことが、見えてくる。しかし、それを、入念に説明しようとしても、大衆の関心を、得ることはできない。何故なら、説明が複雑だったり、多くの要素を、整理することが、必要となり、手間も時間も、かかることになるからだ。それより、単純な話の方が、好ましく思える。だが、それが、本当に、生死に関わるものなら、その手間を、惜しんでいてはいけない。楽に走ると、苦しむことになる。

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6月17日(水)−犠牲

 子供達が、可哀想との声が、聞かれる。確かに、自分中心にしか、考えることが、できない幼子達に、家族の為とか、言い聞かせても、理解できず、不満が溜まるだけだ。それでも、社会は、あらゆる人が、協力しなければ、この窮地を、抜け出せないとしている。
 その一方で、別の要因を、取り上げて、同情の声を、上げる人々がいる。例えば、混乱を、和らげる為と称して、学校が始まる時期を、ずらそうという提案は、ある首長の思いつき、から始まったと言われる。そんなことが、不安や心配に、更なる影響を及ぼし、国を挙げて、議論する事態となり、結果として、時間の無駄となった。同様の混乱は、節目に実施される、試験制度にも、広がり始め、ここでも、監督官庁は、検討せよとの圧力を、強く受けた為か、要望調査を、行う羽目に陥った。こちらも、結果として、無駄となった訳だが、その理由は、簡単なことだ。小さな国とは言え、全国一律の制限が、掛けられた訳でもなく、例年と、殆ど変わらぬ状況を、続けられた地域もあり、格差を無くすことが、別の問題を、招くことになる、という懸念が、出てきたからだ。一方で、あの混乱が、始まった頃に、当事者である子供から、家族や自分の安全の為に、制限を掛けられても、自分は、しっかり勉強に、集中できるという意見が、取り上げられたことと、この騒動は、正反対のもので、大人達が、勝手に、振り回しているに過ぎないことを、表している。それでも、自力で、できる年代は、まだ、問題は小さい。小学校も、低学年の子供達は、自分でできることも少なく、自分中心から、社会への適応を、学校という単位で、進めていくことが、成長にとって、不可欠なものとなる。その機会を、この騒動で、奪われた子供達こそ、可哀想であり、最中も含め、あらゆる手立てを、講じるべきだったものが、ある意味で、無視された訳だ。その責任を、感じることなく、依然として、下らない議論を、続けている大人達に、厳しい声を、向けるべきではないか。

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6月16日(火)−ゴミ情報

 自分の判断は、常に、重要なものであり、その為に、必要となる情報を、どう集めるかも、大切となる。しかし、雑音が、大きくなるばかりで、耳を塞ぎたくなる程に、極まるとなると、情報遮断も、止むを得ない、となりかねない。選別しようにも、塵しかないからだ。
 正しい判断を、下そうとしても、肝心の情報が、操作された挙句、彼らに不都合なものを、排除されては、手をもがれたような、状態に陥る。一つ、抜け出す方法が、あるとすれば、偏った操作を、施された情報源ではなく、別の水源に当たることだ。例えば、国内の情報が、異常な偏りを、見せているのなら、海外に、目を向けるのも、方法だろう。今回の騒動では、国内の情報も、例の国際機関の情報も、粉飾が目立ち、時に、意図的な遅延まで、起こす中で、世界の目は、ある大学の情報に、向けられた。生の情報を、ただ集めただけ、とも言えるが、それこそが、重要と見做された時、その存在は、最重要な地位を、占めていた。集めた情報を、要素別に、表にするだけで、様々な比較ができ、閲覧者の目的に、沿った分析が、可能となったのだ。だが、それでも、思惑に満ちた人々は、都合の悪い数字を、外した後で、都合の良いものだけに、目を向ける。処理後の情報に、触れてしまったら、情報源が、どうであろうが、無意味なものとなる。気をつけるべきは、そこにある。一方、情報収集が、如何に重要だとしても、そこからの解釈には、別の要素が、必要となる。今、まさに、その状況にあるが、行方定まらぬ、迷走が続き、混乱が、極まっている。感染の仕組みが、理解できぬままに、その広がりを、予想するなぞ、できる筈も無いが、それをせねば、社会の混乱が、激化するとの見込みから、不十分なままに、予想や想定が立てられ、それに基づく判断が、下された。結果は、良好に見えたが、別の見方もある。依然として、不明なままで、突き進むが、実は、連中が、目を背けているものが、あることに、気付くだろうか。重症患者の治療こそが、肝心であり、感染防止は、二の次だということに。そこから、社会の目を逸らす動きは、誰が、主導しているのか、金儲けの為に。

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6月15日(月)−経験を糧に

 経験を糧に、生きていくのが、人間の特長だろう。しかし、大多数には、分かっていても、と思えてしまう。騒動の最中、必死で、情報を集め、そこから、自分なりの結論を、導く。その経験は、次に役立つ筈と、その時は思うが、暫くすると、そんなことは、忘れてしまう。
 再び、同じようなことが起きても、また、やり直しとなる。経験は、一欠片も残らず、時に、ふと、何処かで見た、と思ったとしても、それが何かを、思い出すことができない。騒動の中、何が正しいのかを、検証することは、殆どできない。だが、時間の経過と共に、一つ一つの正誤を、確認することが、できるようになる。一つ、障害があるとすれば、あれ程の騒動でも、時間が経つと、誰の関心も引かない、ということだ。だから、例え、検証できても、その結果に、興味を抱く人は、まず居ないのだ。その頃には、別の騒ぎが起こり、耳目は、そちらに向いてしまう。だから、経験と言っても、それを、自分なりに、記憶に留め、検証も、自分なりに、行うしかなく、それらを、他人任せにする、大多数の人々には、何の糧にも、ならずに、忘れ去られるだけなのだ。この国では、特に、重要な経験となる、前回の大震災と、その後の事故の経過は、例の人々が、不確かな情報を、意図的に流し、世論を操作していたが、それらの殆ど全てが、全くの誤りで、見込み違いから、予想も、大きく外れたことが、明らかとなっている。にも拘らず、事が起きれば、同じ論調を、振りかざすことで、空騒ぎを、続けている。では、今回の騒動は、どんな経緯を、辿るだろうか。愚かな人々は、害悪となる情報を、社会に垂れ流し、世の混乱を、主導している。その吟味は、人それぞれに、任されたものだが、今回も、自己判断を、下そうとする人は、殆ど居らず、振り回されており、時に、洗脳さえ、されている。猫の目の如く、日々変化する論調は、恐怖を煽ることを、貫くだけで、解釈は、正反対のものでも、平気で使うのだ。社会では、他人との関係も、重要だが、そこに立つのは、自分ということを、意識しても良いだろう。

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