弱い者を苛めて、そんなに楽しいのか、と思う人も居るだろう。弱者に対して、優しい言葉を、かける人々に、厳しい言葉を、浴びせるのは、そんな魂胆でも、あるのではないか、と思うかもしれない。だが、見せかけだけの、優しさにこそ、思惑があるのではないか。
弱い人々は、確かに、貧しい生活を、強いられているが、だからと言って、能力が無い訳ではない。だからこそ、今の状況に、甘んじるような方に、向けるのは、どうかと思う。全てではないが、優しさを、表に出す人の多くは、弱き者達が、現状打破に努めるより、今の状況を、受け入れておけばいい、と思っている。その代わりに、施しを与えるから、我慢しておけ、とでも言っているのではないか。本来なら、今の状況を、打ち破る為に、何らかの努力が、必要となる筈だが、その道を選ばせる代わりに、今のままで、いいのだとしている。そんなことはない、窮状を救う為には、何らかの施しが、必要だとするだろうか。だが、優しい言葉の殆どは、奮起を促すよりも、現状維持へと、導いているのではないか。更に、もっと訴えれば、何かが、得られるとも、囁きかけているようにさえ、見えてくる。これまで、そういう態度に、腹を立てて、優しさを、自慢する人々を、糾弾してきたが、それは、何も、弱者を、更なる窮地に、追い込もうとするものでは、決して無い。それより、現状に、甘んじずに、何かしらの努力を、積み重ねれば、自ずと、道が開けてくる、と伝えているのだ。そこに気付かず、ただ、厳しい言葉だけを、受け止めて、悲鳴を上げるだけでは、何の解決も、得られない。まして、今の状況のように、全てに、施しがなされ、その代わりに、今の困難に、立ち向かわずに、受け入れろとする動きには、個々の問題どころか、全体として、破滅に向かう、運命が見え隠れする。これを、受け入れては、何の解決も得られず、世界の破滅が、訪れるとしたら、個人の死は、比較の対象とも、ならないのだ。
血眼になって、標的を探す。ある業界の人々は、責める対象を、見つけることで、世間を、盛り上げられる、とばかりに、躍起になって、悪者を探すのだ。だが、これまでの例から、その多くは、本当に、悪事を働いた訳でもなく、ただ、話題とされただけ、なのだ。
この手法は、情報を操る為に、大いに役立つから、あの業界でも、他の世界でも、度々使われる。暫く、集中砲火を浴びせ、正体が、明らかになったり、注目を、浴びなくなると、一気に、熱が覚めたかの如く、忘れ去られる。以前なら、標的とされても、暫く、沈黙を保てば、取り上げられず、忘れられるから、我慢が必要、とも言われていた。だが、個人が、発信できる環境が、整ってからは、鎮静化したとしても、誰かが、昔の発言を、引っ張り出して、いつまでも、火が消えない。人の噂は、と言われ、賞味期限が、あると言われていたが、最近は、何年も前のことさえ、思い出したかのように、取り上げられる。個人の発信源が、そんな状況を、作り上げると、報道までが、昔のことを、思い出しながら、話題として取り上げる。それも、間違いだったことを、正しく伝えるのなら、問題ないが、杜撰な組織ほど、過ちを繰り返し、鞭を振るうのだ。それが、再燃へと繋がり、すっかり忘れていたことを、思い出させる。こんな迷惑は、あり得ないと思うが、暇な人々は、他人事のように、面白おかしく、扱うだけだ。今、起きていることも、検証が進めば、如何に、馬鹿げたことだったか、反省を込めて、伝えられるように、なるのかもしれないが、これまでの例からは、正反対の予想が、立てられそうだ。恐怖ばかりを、強調して、その源が、大間違いだったことに、触れることなく、恐れ慄く人々を、登場させることで、恐ろしさを、強めるのだ。目的は、ただ、注目を集めること、それに尽きる。
変化を望むのに、変わりたがらない。不思議な心理、と思うかもしれないが、当人達には、当然のこと、と映っている。変える為には、変わらねば、との助言は、圧力としか受け取られず、時に、反撃を受ける。現状打破は、過小評価の結果、と見做されるからだろうか。
これまで、何度も、取り上げてきたが、この国は、評価を苦手とする人ばかり、と言われる。苦手意識は、まずは、受ける立場で、露呈するが、その後、暫くすると、する側となり、もう一つの意識が、頭を出してくる。どちらにしても、評価とは、ある指標に従い、対象が、どこに位置するかを、見定めることで、それ自体、何の難しさもない、と思える。だが、他人の目は、自分の良さを、見つけてくれず、悪い点ばかりを、拾い上げている、と思えるし、自分の目は、他人から、不当な扱い、と反論される。嘗て、この問題を、解決しようと、自分で自分を評価する、という動きが、出てきたことがあった。自己査定と呼ばれ、業績の評価から、給与の査定を、自分で行うことこそが、最良の手法である、と一時期持て囃されたが、どうも、頭打ちに、あったようだ。ただ、今でも、多くの組織で、自己評価が行われ、指標から結果まで、自己責任で、行う所もある。ただ、これにも、無理があるようで、都合よく振る舞う人々が、利益を得るだけ、との批判が残る。ただ、自分自身を、評価することから、他人の評価へと、目を向けられれば、この問題も、徐々にだが、解決に向かうのでは、との期待もある。だが、世間を、見渡してみると、事は、それ程には、単純ではないらしい。依然として、不当な評価が、横行しているし、それに基づき、判断が下されれば、誤った決断が、行われる可能性も高い。自分が、どう評価されるか、を冷静に分析し、他人の評価へと、適用すれば、役立つ場合も多い筈だが、そうならないのは何故か。答えは、自分で見つけねばならない。
弱者が、力を持つ時代である。以前から、同じ論調を、貫いているが、元々は、弱き者に、配慮をすべき、という優しさから、始まった話だが、それが、いつの間にか、弱者からの訴えを、受け入れるのが当然、という風潮へと変わり、要求が、高まり続けてきた。
世界全体が、窮地に陥る中、この状況に、変化は起きているのか。本来なら、全体の衰退は、切り捨てを選択させ、末端から、排除されるのだが、現実には、正反対の動きが、起きている。困った時こそ、弱き者に、との掛け声は、弱まるどころか、更に、強調されているように、映っているのだ。そんな余裕は、無い筈だが、と思うのは、認識が甘いのだろう。実は、世間で考えられる程には、人々は、追い込まれておらず、弱者を優先させる、余裕が、まだ残っているのだ。ただ、そこには、別の思惑もあり、彼らへの施しが、自分にも及ぶ期待は、大きいようだ。一方、強い圧力と共に、変化を強いる動きが、強まっていることに、この状況は、どんな影響を、受けているのだろう。弱い者の特徴として、変化を望む反面、変われない現実に、縛られている。これについては、何の変化も無く、社会が変われば、それにより、更なる被害を受けた、と訴えるだけなのだ。ここに、大きな問題があり、弱者保護の副作用として、現状維持どころか、衰退を招くことに、目を向けるべきだろう。窮状にあるからこそ、打開策が、不可欠となる筈が、現状維持を、望む声だけが、届いている。これでは、何の解決も得られず、ただ、滑り落ちるだけだ。あれも嫌、これも嫌、という叫びだけで、動こうともしない連中に、構わないとの言葉で、解決しようとする動きは、事を悪くするだけで、何も良くはしない。それは、優しい言葉を、かける側にも、かけられる側にも、言えることなのだ。
ここを、読みに来る人も、来ない人も、もう、飽き飽きしていて、面倒や不快を、感じているに違いない。それ程、国内どころか、世界中で、影響が及び、人々の疲弊は、極まっている。それが、爆発的な行動に、繋がった地域もあり、究極の選択を、迫られている。
もう、いい加減にして欲しい。と願う声が、高まるのは、当然のことで、正体の知れぬ、恐怖の対象に、怯える一方で、いつまでも、正体を、明らかにしない、ある人々に対し、不満が募っている。ここでも、これ以上、愚かな連中の、愚かな行状を、批判するのは、辞めにしたい。そこで、一つの区切りとして、考えを纏めてみる。感染症の拡大を、止める手立ては、ワクチンしかない、との意見があるが、馬鹿げたものと思う。重症化する確率は、かなり低く、その状況は、国内で、普及してきた、高齢者向けの、肺炎ワクチンと、同じと見做せる。だとしたら、こちらの騒ぎは、余りに小さく、普及に向けて、広報活動が、盛んに行われてきたのに対し、何故、今回のものは、これ程に、緊急性を、強調するのか、理解できない。同じ病に、侵された結果、死を迎えることに、何の違いも無い。どちらも、感染に違いはなく、発症の確率も、おそらく、殆ど変わらない。そこに、目を向ける人が、居ないことに、呆れてしまう。もう一つ、今回の騒動で、異様さが、強まるばかりなのは、検査の徹底という戦略だ。風邪のウイルスの一種、と言われており、その重症化に、恐怖の中心があるが、軽症や無症状の人を、見つけることの重要性が、凄まじい勢いで、強調されている。だが、本来、風邪の流行が、起きた時に、休む条件は、あくまでも、自覚症状である。これまで、それしか見ず、それしか問題としてこなかった。だから、今回のものと、感染の広がりを、比較することさえ、できない。それに、目を向けず、騒ぐだけでは、愚の骨頂なのだ。ちゃんと見ろよ、と思う。
専門家達の不見識に、強い批判を、浴びせ続けているが、未知なことなのだから、仕方ない、と見るだろうか。だが、批判の的は、そこではない。未知なことを、扱う際に、不可欠なことを、行わぬまま、自分達の見解を、世界中に、押し付けていることが、問題なのだ。
これは、単純に、自己中心的な、考え方の現れであり、本来あるべき、あらゆる可能性の検討や、それぞれへの、対策の立案という、重要な役割を、放棄した結果なのだ。責任の重さから、考えれば、不見識も、重大な問題だが、それより、重大と思えるのは、他の可能性を、取り上げようともしない、怠慢だろう。彼らの役割は、疫学や公衆衛生学に、基づいた知識を、活用して、感染症対策を、講じることにあるが、今回の、ここまでの経緯を、眺めていると、通説に囚われ、新たな状況を、把握することなく、誤った解釈を、導き出すばかりで、自らの立場を、守ろうとして、過ちを認めず、自論に固執する、情けない姿だけが、印象に残る。今回の騒動では、単に、専門家達の、失態が露呈しただけでなく、著名な人々が、専門でもないのに、しゃしゃり出てきて、騒動を、拡大させてきたことに、注目が集まっている。政治家は、政を、専門とするが、この騒動では、極端な規制へと、舵を切ることで、世界的な混乱を、招いていた。その判断は、専門家の助言を、頼りとするものだったが、他の要素について、考えるべきことを、怠っていたと思える。更に、厄介なのは、科学の世界で、名を成した人が、余計な口出しを、始めたことだ。ここでも、何度か、取り上げたが、彼の横車は、依然として、続いており、迷惑さえ、広がり始めている。一度、手に入れた名誉が、失われることはないが、このままでは、折角手に入れた、地位や名声さえ、失いかねないとも見える。受賞以来、築き上げてきた組織は、今や、別事に使われ、本来の業務は、どうなっているのか。彼の世迷い言を、止められるのは、あの組織で働く、人々だけ、と思う。
不確かな話、と説いたとしても、不確かだからこそ、恐ろしいとの声が、返ってくる。だが、そこにある、大きな違いに、気付かぬ人が、多過ぎるのだ。はじめの不確かさとは、何の確証もない、という意味だが、後者の不確かさとは、理解できない、という意味なのだ。
今回の騒動は、大衆が抱く、その感覚を、利用しただけのことで、騒動の中心には、正しく理解しようとも、確証を見つけようとも、思わぬ人々が、居座っており、自らの不明を、恥じるどころか、棚上げした挙句に、妄言を繰り返し、煽動を続けているだけなのだ。この事態を、招いた張本人は、隣国の、発生源となった場所が、その一つとなるだろうが、もっと大きな、悪影響さえ及ぼした、極悪人達が、のさばる国際機関の責任は、計り知れないものと、なりつつある。改めて、見直すべきことは、幾つもあるが、中でも、感染の仕組み、そのものを、考える必要がある。特に、病原体は、通常の風邪と同じと、分類されるもので、その恐ろしさばかりが、強調されることで、感染が、どう起きるのかについて、何の議論も、行われていないことに、注目すべきだろう。それも、あの機関が、脅し文句ばかりで、実態を、暴こうともしない、無責任にこそ、罵声を浴びせるべきなのだ。風邪は、何時でも、何処でも、発生するものとして、普段から、馴染みのあるものだが、自覚症状が出て、初めて、風邪かな、との思いを抱く。それが、ある集団に、広がった時には、学校であれば、学級閉鎖などの措置が、採られるが、その際に、伝えられるのは、自覚症状がある児童・生徒の数、だけなのだ。誰が、病原体を、保有しているかを、分析することは、これまで無かった。ところが、今回のものは、何度も報道されるように、検査を行い、誰が保有し、その数がどれ程か、を明らかにする動きが、強まっている。だが、保有者の多くは、自覚症状を、示していない。ここに、比較できない数値を、出鱈目に並べ、騒動を、盛り上げようという、意図が見えている。彼らの罪を、冷静に見抜き、断じようではないか。