思い出して欲しい。不安や心配を、口にする時に、その対象についての話に、触れていると思うが、その内容を、どんな言葉で、表現しているか。特に、見えない相手に、不安を抱く時、それを表す言葉は、抽象的なものとなる。具体的に、表現する程には、理解できていない。
その時、役立つのは、煽りに使われた、一言なのだ。大切な人を守る、という表現は、この所、頻繁に使われるもので、元々は、感染を広げぬ為の、掛け声として、使われた。無症状で、自覚の無い人に、意識させようと、使われたのだが、無自覚だけに、脅されると、過剰な反応を催す。特に、感染を、悪い事、罪のように扱い、罰を下すような、風潮が広がると、この言葉の重みは、急激に増した。それに、味をしめたのだろう。自然災害にさえ、同じ表現が、持ち出されている。危険が迫る中、自分の命を、守ろうとする気持ちが、重要となる筈だが、警報や指示に、無感覚となる人々を、動かす為なのか、盛んに使い始めた。だが、通常の感覚では、これ程、耳障りな表現は、無いのでは、と感じられる。自分のことは、自分で守れる。判断は、慎重に行う、というつもりの人には、余計な一言どころか、余計なお世話でしかない。だが、こんな暴挙が、行われるのは、結局の所、自分の責任で、判断をせずに、他人のことばかり、気にする人が、巷に溢れており、彼らが、自分の失敗を、他人の責任と、叫ぶからなのだ。だから、神経を、逆撫してでも、動かそうとする、余計な一言が、突き付けられ、普通の感覚では、耐え切れぬ程の心理に、追い込まれるのだ。では、耐える代わりに、何をすれば、いいのか。簡単なことだ。対象を、具体的に、考えてみる。抽象的な言葉で、表されたものを、具体的なものに、捉え直してみるのだ。他人を守る前に、自分を守る為には、と考える。第二波を恐れるなら、どういうものが、それに当たるのかを、考えてみる。ほんの少し、言葉ではなく、数字を眺めてみる。難しくはない。
今、世間で、いや、世界で、流布されている話が、本当になったら、荒んだ社会で、息苦しく暮らすことが、当たり前に、なっているだろう。その話の主達は、そうならない為に、とばかりに、次々と、無理難題を、突き付けているが、数年後に、笑い話に、なるだろうか。
一笑に付すには、情けさを通り越し、恨みつらみが、募るばかりで、誰にも、できないかも知れない。それ程に、強い圧力を、掛けられ続け、窮屈さは、強まり続けている。最も危険なのは、この話の主達の、多くが、その道の専門家と呼ばれ、自負も含めて、自信満々の態度を、取っていることだ。その割に、話の根拠は、脆弱なばかりで、多くの疑問に、答えられぬばかりか、的外れな応答や、話のすり替えで、馬脚を現し、名ばかりの専門性に、信頼は、失われ続けている。しかし、命と引き換えに、その誤りを、正そうする人は、出る筈も無く、たとえ、その事例となっても、口先だけで、誤魔化されるのが、精々の状態となっている。それに、輪を掛けているのが、民衆を、操っている政治家達であり、彼らの無知は、こういう事態に、大いに役立つことが、示されつつある。受け売りばかりで、本質の理解は、全く無いばかりか、それを糧に、煽情的な言葉を連ね、民衆の不安を、煽り続けている。本来なら、苦言を呈す為に、存在する筈の人々も、命を惜しむばかりで、腰が引けたまま、問題を、掘り下げようとせず、権力に与するとなれば、これ程に、力が一点に集まったことは、独裁政治でも、無かったのではないか。更に、それを、強めているのは、民衆の手にある、発信装置であり、良識を抹殺し、正義を騙る人々の、力を増す助け、となっている。ここまで来ると、間違いを正すのは、病でないものに、命を懸けることとなり、面倒が増すだけとなる。もう、時間でしか、解決を導く手立ては無い。だが、諦めたのではない、荒んだ社会に、させない為に。
歴史は繰り返すとか、歴史に学ぶ所は大きいとか、歴史を重視する話は、数え切れぬ程にある。だが、肝心の歴史は、誰かが語り伝えたり、書き残したりしたもので、それが、事実とは限らない、とも言われる。では、何を信じ、何を学べば、いいのだろうか。
騒動の最中、盛り上がった所で、中断を、余儀なくされた、大河ドラマも、ごく最近、明らかとされた史実に、基づいて作られた、と言われていた。ある武将が、その地位を、獲得するまでの道筋が、大きく異なる、とされたのだ。一代で築いた、と言われたものが、実は、二代だった、というだけだが、記録が曖昧で、見方を変えることで、新事実が、明らかになった、とされた。だが、これとて、見方の一つに過ぎず、確実とは言えない。所詮、歴史とは、その程度のものであり、記録は、常に、不確かなものだ。では、それを、意図的に行う人が、出てきたら、どんなことが起きるのか。それを著した本を、先月読んでみた。ある人から、薦められたもので、自分で購入したものではないが、その直接的影響が、今も、地元に残るなど、大きな害を、及ぼしたと言える。一方、歴史に学ぶ姿勢が、危ぶまれることも、起きている。差別を発端として、海の向こうの各地では、像の破壊が、続いていると伝えられるが、それは、彼らが、差別を大きくした、という見方からだそうだ。怒りの矛先が、あらぬ方に向かうのも、歴史上で、何度も起きたことだが、学ぶべきことを、破壊する行為は、看過すべきではない。特に、ここでも、中心となるのは、弱者保護の考えであり、被差別者を、全面的に肯定する、愚かな考えなのだ。今の幸せを、手に入れる為に、差別を否定し、それが、歴史の否定へと繋がる。これを、繰り返すことで、結局、差別を無くすことが、いつまでも、できないことに、気付かない人々は、所詮、自分のことしか考えず、社会全体を、見ようともしないのだ。
またぞろ、差別の話題が、渦巻いている。制限の圧迫の最中、爆発的な力が、働いていたようだが、簡単には、鎮まりそうにない。根本的な問題を、解決すべきとの意見も、多く見られるが、可能なのか。多様性を、強調する一方で、差を、意識させないのは、無理だ。
ただ、その差を、何に結びつけるか、そこに、問題がある。差があるのは、当然のことであり、人それぞれに、違うのが、当たり前だ。だが、それを、扱いの違いや、疎外に、結びつけると、問題が出てくる、と言われる。これも、どちらが、どんな意識をするか、という点に、議論を移すと、それはそれで、複雑なものとなる。人種の違いを、差別に結びつけるのは、最も単純な考え方であり、それが、各人の窮状と、結びつくようだと、明らかな差別、と見做されるのだ。それを、意識的に、行う人が居れば、それは、厳しく批判されるが、状況を、眺めるだけでは、見抜けぬことが多い。これ程、明らかな違いでさえ、判断に窮するのに、そこに、何らかの違いが、あったとしても、何が原因か、わからない場合には、更に、難しい問題となる。多様性の観点から、違いを、強調するのなら、そこに、区別が生まれるのも、当然であり、それ自体を、問題視しても、無意味だろう。だったら、どうすべきか。どちらの立場でも、そこで生まれる違いが、どのようなものかを、見極めておけば、意識や思惑によるものではなく、明らかな違いが、出ていることがわかる。この手続きをせず、感情的な見解を、互いに、出すだけでは、何の解決も得られず、問題を、拗らせるだけだ。優しさとか、温かみとか、心の問題を、前面に押し出すことは、解決策の一つと、言われることがあるが、こう考えてくると、危険な選択と、思えてくる。まずは、違いがあるのは、当然のこととして、それを、明確に示した上で、その理由を、考えてみることを、優先すべきだろう。
論理の重要性を、説く中で、意外に多くの人が、誤解していることに、気付かされる。賢く生きる為に、最も重要なことは、答えを知ること、という点だ。学校に上がってから、ずっと長い間、答えを求め、何が正解かを、知ることこそが、大切である、と学んできた。
何事にも、答えを求める、という傾向は、社会現象にまで、なっているが、これが、今回の問題でも、高い障壁を、築き上げている。誰が、正しい答えを、示しているか、これまでの話からすると、論理で、判断できると思うらしい。これが、大きな誤りであることに、気付かぬままに、世の人々は、振り回されており、第二波への恐怖や、ワクチンへの期待など、別の見方からは、馬鹿げた論理としか、見えないものでも、その破綻を見抜けず、操られている。深く考えずに、周囲の動きに、流される人は、仕方ないが、しっかり考え、検証したつもりなのに、操られている人は、重要なことを、見落としているのだ。論理とは、道筋に過ぎず、どの道を、歩むかは、その前に、決められている。一旦、その道を、歩み始めれば、そこでの理屈は、確かに、通っていると見えても、一歩目を、誤っていれば、それは、間違った方に向かうのだ。これは、一つの論理だけを、眺めても、気付けない。ある論理が、立てられ、そこから想定される、可能性が、示されたとすれば、その後の展開は、その可能性を、検証する手立てとなる。論理から、結論が、導かれたとして、その正誤を、検証すれば、それを導いた論理の正誤も、判断できる。論理力とは、単純に、今ある材料から、何が言えるのか、ということではなく、その先に来るものにも、現れてくるのだ。そこに気付かず、話だけ聞いて、判断しようとしても、無駄なことだ。今回の騒動では、多くの人が、過ちを犯し、それを改めずに、同じ論理に、しがみ付き続ける。情けない姿を、曝け出しながら、多くの批判も、浴びているが、彼らの地位は、揺るがない。こんな馬鹿げた世界が、本当にあったことに、呆れるしかない。
認可を受けた、人々によって、情報が、操られていた時代と違い、今は、個人が、自由に、考えを、社会に向けて、発信できる。それによって、多種多様な情報が、巷に溢れ、人々は、漏らすことなく、全ての動向に、触れることができる。本当に、そうだろうか。
この考えは、多くの人により、否定されている。何故なら、人の噂と同様に、その情報の真偽を、判断する手立てを、殆どの人が、持ちあわせていないからだ。単純に、情報の多寡で、話が済んだ時代と異なり、多くの情報に、触れることは、可能となった。しかし、その殆どが、恣意的に流された、歪曲されたものだとしたら、そんなものに、数多く触れても、肝心な、真のものに、触れられない。これでは、どうにもならない、と言っても、本人が、何らかの努力を、しなければ、状況は変わらない。真偽を見極める、力として、ここで散々取り上げてきたのは、論理力だ。論理を展開する力とともに、そこにある論理が、妥当なものかを、見抜く力が、肝心となる。それを鍛える手立ては、それ程難しくはなく、日頃から、物事を、説明することを、納得できるまで、続けさえすればいいのだ。単純だが、面倒なようで、多くの人は、他人の見解を、鵜呑みすることで、済ませてしまう。だから、簡単に、騙されるのだ。そういう人が、増えたのは、実は、この仕組みが出てきた為ではなく、以前から、そういう人間だっただけだ。では、この仕組みの良さは、何処にあるのか。一つは、大手が、すぐに忘れることを、個人は、何時までも覚えており、それを、社会に再認識させることだ。これで、失敗の経験は、長く残り続ける。だが、それも、時と場合による。今回の騒動では、ある首長が、格闘技の会場に、駆けつけて、訴えたことや、別の首長が、パチンコ店を、槍玉にあげたことがある。その後、何の騒ぎも、起きなかったのは、彼らの言動が、無意味だった証拠であり、もっと、追及されて当然だ。だが、どうも、騒ぎの中心に居る人々は、折角の道具を、活用せずに、別の騒動を、続けている。例えば、ワクチンのように。
言葉の大切さは、どんな事態に陥っても、続くものだ。それは、相手の努力を、労う時も、感謝の気持ちを、表す時も、その一言で、その場の空気は、一気に変化することで、誰もが、理解できるものだ。だが、それとは、異なる目的で、相手に、言葉を投げかけている。
それが、「優しい言葉」という形で、世の中に、溢れている。確かに、言葉の大切さとして、通用するものも、あるにはあるが、多くは、欺瞞の現れであり、時に、差別意識さえ、潜ませている。それに気付かず、言葉を、ありのままに受け止め、その状況に、甘んじる人々が居て、彼らの可能性は、気付かれぬままに、押し潰されることとなる。だが、褒め言葉や、労いの言葉に、飢えている人々は、自分が、何を為したかより、その言葉の重みを、強く感じ、努力を、怠ることになる。褒め言葉も、本人のやる気を、高めるものなら、意味もあろうが、ただ、現状を認め、そこに留まらせるような、言葉では、本人の為に、なる筈も無い。それを、意図的に放つとなれば、悪意に満ちたものであり、差別意識が、そこに無ければ、できない行状に、思えてくる。だが、そんなことは、古今東西、何処にも、何時でも、あったことなのだ。それに、振り回され、自分で、可能性を、断ち切った人は、何処にも、その跡形さえ、残すことは無い。だからこそ、何度も、同じ目に遭わされ、歴史の波に、飲み込まれてしまった人が、居なかった時代など、あり得ないのだ。自分が、自身の意思で、そこに向かうのか、それとも、押し寄せる波に、逆らってでも、前や上に、進もうとするのかは、本人の判断だ。「優しい言葉」という、甘言によって、自らの道を、自身で、閉ざしたとしても、その責任は、言葉を発した人間に、ある訳ではない。その道を、選ぶのは、あくまでも、自分であり、他人の言葉は、時に、罠となり、嵌められることもあるが、それを、どう受け止めるかで、将来が決まると思えば、油断大敵を、思い出すことができる。まずは、上を目指す、気持ちを抱き、それを実現する為の、努力を惜しんではいけない。