パンチの独り言

(7月6日〜7月12日)
(天秤に掛ける、不幸の度合、聞き飽きた、猛省、不可視、無名の利、言論統制)



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7月12日(日)−言論統制

 何度でも書く。もうそろそろ、過ちを、認めたらどうか。馬鹿げた騒動を、続けようと、次々に、繰り出される話題は、余りにも、常識外れしており、それを、押し付ける為に、更なる恐怖を、植え付けようと、新たな恐れを、作り出す。普通なら、犯罪でしかない。
 詐欺紛い、ではなく、詐欺そのものでしかないが、誰も、指摘しなければ、犯罪とは、ならないのだ。権力者が、後世で、厳しく糾弾されるのは、まさに、このような状態だろう。社会全体を、制御下に置き、批判や異論は、徹底的に押し潰す。そんな指摘を、したとしても、民主主義では、そんなことは、行われず、きちんと、批判や議論が、行われている、との反論が、返ってくる。だが、肝心の、批判や議論の主が、見事に、騙された上に、先棒を担いでいれば、気付く筈も無い。普通に考えれば、非常識であり、根拠の無いことでさえ、専門家や、高い地位にある人が、それを宣えば、権威が、付け加えられ、当然のこととして、世間に、受け入れられる。更に、批判を、旨とする人々が、その片棒まで、担いでくれれば、まさに、敵無しの状態、となっている。死への恐怖を、徹底したことで、自身の不安が、煽られただけでなく、他人の死への、責任まで、負わされかねない、事態となることで、批判の声は、圧殺されている。しかし、誰もが、自由に、発言できる時代には、正論を、展開しても、何の問題も無い。縮み上がって、判断力までも、失った人々に、声が届けば、幸いだが、事は、それ程に容易くは無い。洗脳された人間を、その呪縛から、解き放つことは、かなりの困難を、伴うものだ。更に、それが、権力を有し、権威を笠に着て、言論統制を、行うとなれば、社会主義でなくとも、茨の道となる。だが、数字の大きさも、現場の状況も、多くの情報を、正しく解析せず、都合の良い数字だけを、引き合いに出しても、所詮、正体は、暴かれるものだ。こちらも、何度も繰り返し、間違いを、指摘し続けるのみだ。

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7月11日(土)−無名の利

 社会的連携機構、とでも言うのだろうか。だが、世間では、カタカナやアルファベットで、表現される。その仕組みの、利点、長所は、何かと問われれば、何と答えるか。多分、多くは、誰もが、世界に向けて、発信できること、と答えるのでは、ないか。
 確かに、手にした端末に、意見を打ち込めば、それらは、通信網に乗り、世界中、どころか、宇宙にまで、広めることが、できるのだ。友人との会話も、誰もが、読むことができれば、評判も高まる。いいね、の一言が、それを実感させ、悦に入ることも、できるのだ。それが、一番の利点、と思う人もいるが、一方で、秘密の話や、仲間内だけの話、というつもりで、書きたくなると、誰もが、という点は、欠点に思えてくる。そこで、登場したのが、一部の繋がりに、限定する仕組みだろう。同じ仕組みが、公開型のものにも、採り入れられ、選択できるようになった。一方で、もう一つの長所、と言われるのが、匿名性だ。全てではないが、一部では、匿名での発信が、可能となることで、特定されずに、自分の意見を、世に問うことの悦びを、感じる人も居る。ただ、こちらは、欠点ともなり、乱暴で、害を及ぼす意見を、撒き散らす、不埒な連中が、暗躍することとなった。でも、これは、単なる思い込みで、特定は、可能であり、犯罪的な行為は、厳しく罰せられる。だからといって、匿名の意味が、無くなる訳ではない。名を語らず、地位を明かさず、正論を綴ることこそ、この仕組みの妙味だからだ。名や地位に依り、暴論を、押し通す人間は、所詮、卑しい心の持ち主で、唾棄すべき存在だ。それに対し、匿名で、持論を展開すれば、読み手は、何の先入観も無く、意見を、読み解くことができる。それが、賛同を得れば、意見そのものの価値、となるのだ。書き手も、読み手も、互いに、名を語ることなく、意見交換できる。これこそが、この仕組みの、最大の長所ではないか。

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7月10日(金)−不可視

 見えない敵、という言葉が、巷に流れている。不安を煽る為に、最強の表現の一つであり、一部の人々は、好んで用いる。好都合となれば、何度でも使うのが、あの人々の悪癖だが、それだけ、効果を、産んでいるとの印象が、あるのだろう。特に、大事でないことに。
 この混乱の直前に、公開された映画の、主演者の一人が、当然の如く、この言葉を用い、映画の宣伝と共に、現状の厳しさを、訴えていたが、何とも、的外れなもの、と映っていた。映画の主題と、現在の混乱が、似たものとの解釈が、そこにあったのだろうが、主題の理解が、殆ど無いことを、露呈しただけで、したり顔での演説は、巷に溢れる、専門家や政治家の無知と、同類との見方が、当てはまる。ただ、これは、庶民の感覚と、よく似たものであり、扇情的な言葉に、洗脳された人間の、典型と思える。見えない、という意味では、放射性物質も、ウイルスも、同じだろうが、危険性への解釈が、どちらも、大外れであることは、前者については、既に、明らかとなりつつあり、後者についても、追々、明らかにされるだろう。それ自体も、愚かさの象徴なのだが、この役者の演説で、見えない敵、と表現されたものは、実は、映画の主題ではなく、要因の一つに、過ぎないものであり、主題は、迫りくる危機に、どう取り組んだか、というものであり、殆ど全ての、安全装置が、無力化する中、危機管理に、鬼気迫る姿勢で、取り組んだ人々を、描いた映画なのだ。それでも、事故が拡大する中、現場で起きていることは、ある程度、想像できる範囲にあり、講じるべき手立ては、思い浮かんでいた。それでも、効果の程には、確実な予測が立たず、混迷が続く中、決断したことの、記録だったのだ。それに対し、今の混乱は、何の確証も無く、何の知識も無いままに、盲撃ちを、しているだけで、出鱈目が続くだけだ。似て非なるものを、引き合いに出して、一説打っても、無駄なだけだ。見えない敵とは、実は、心に潜むものなのだ。

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7月9日(木)−猛省

 明らかな人災、なのだ。こう書くと、多くの人は、この国の政策の過ちを、思い浮かべるだろう。だが、今回の世界的な混乱では、数字が、表しているように、この国の被害は、非常に低く、問題は、殆ど起きていない。批判しかできない連中には、不都合ばかりだ。
 では、何が、人災なのか。感染症対策として、全世界で、挙って実施されたことに、検査の徹底がある。感染者を、特定することこそが、拡大や被害を、減らす為に、最重要の課題である、との主張は、世界機関を始め、多くの専門家から、強く示されてきた。だが、徹底した国々では、膨大な死者数を、出しており、人口当たりの死亡率は、この国の百倍程になる。徹底を、厳しく要求される中、死亡率を、抑えることに、力を注いだのは、必ずしも、政策によるものでは、ないのかもしれないが、結果論として、無駄な努力を、しないままに、混乱する現場を、支えたことが、好結果に繋がったのだろう。では、何故、検査だけでは、駄目だったのだろうか。本来、感染者を特定するのは、隔離へ繋げる為であり、それが、奏功した国も、あるにはあるが、それらは、感染爆発が、起こる前の手立てとして、使われた場合に限られ、高死亡率となった国では、後手に回っての、検査拡大が、逆効果を招いたとも言える。この戦略は、依然として、専門家の間では、唯一、最善の策であり、他の選択肢は無い、とまで言い切るようだが、恥の上塗りでしかない。彼らが、暴走を煽動し、恐怖を煽り続けたことで、多くの国が、軌道修正を、施す機会を、何度も失った。にも拘らず、この国でも、首都圏と呼ばれる地域で、敗着を、再現しようとしており、下らない論調も加わり、迷走が、始まりつつある。このままでは、二の舞が、とも思われるが、浅慮に基づく、愚策の結末は、明白だろう。人災は、専門家の無知が産んだもので、科学の世界に、猛省を促すこととなり、大局的な判断の必要性を、痛感させることになるだろう。

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7月8日(水)−聞き飽きた

 災害が、起きる度に、状況報告が、行われる。その任務に当たるのは、ある省庁だが、災害にも、大きく分けて、二つあり、それぞれで、対応が、異なるようだ。季節によるとは言え、ほぼ毎年起きる災害と、数十年に一度しか、起きないものでは、報告内容も、異なる。
 今の季節と、秋に、この国では、気象災害が、数多く起きる。自然の恵みは、時に、牙を剥き、住民に、多大な被害を、及ぼすことがある。同じ地域に、何度も起きれば、人々は、そこを避けるようになり、危険を回避するものだが、歴史上で、そんなことが、度々起きていても、いつの間にか、忘れ去られることもあり、突然の災害に、恐れ慄くこととなる。特に、高度成長が、続いていた時、人々は、新たな棲み家を求め、手付かずの土地に、移り住んでいた。その際、分譲の為に、開発を進めることで、環境が一変し、それまでは、平穏だった所が、危険地域となった場合もある。人災、などと言われ、批判の声が、高まるけれど、その責任の一端は、移り住んだ人にも、あるのではないか。件の省庁は、毎年繰り返す、天災による被害を、減らそうと、案を巡らし、様々に、警告の為の文言を、編み出している。それが、毎年変わることから、その効果の程は、推し量れるが、効果的なものが、見つからないことや、同じ言葉は、すぐに聞き飽きることから、まるで、商売に使われる、売り文句のようなものを、作る必要に、追われているようだ。だが、今、寝床で読んでいる本によれば、論理的に、人を説得するのは、不可能であり、感情的に、行うしかない、とある。つまり、あの感染症と同様に、死の危険を、過剰に表現し、逃れることの、難しさを伝えることが、重要となるのだ。今年の言葉は、「少しでも命が助かる」というものだが、当たり前過ぎて、響かないようだ。これも、早晩、使い古される。次は、何だろう。

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7月7日(火)−不幸の度合

 不幸を、比べても、意味が無い。だが、危険を回避する為に、必要となれば、違う話だろう。誰が、より不幸な境遇にあるか、を比べるのではなく、どちらが、より不幸な結末に、結びつくのかを、比較するのだ。今、丁度、その時が、来ているような、気がしてきた。
 これまで、辟易とする程、脅し文句が連ねられ、民衆の心理は、萎縮し切っている。そこに、新たな災害が、天から降ってきた。大量の水が、天から落ちてきて、それが集まれば、ある地域に、害が及ぶようになる。自明の理とも思えるが、その程度に、大きな変化が起きたと、これもまた、過度な程に、強調される。人の命を、救う為と称して、精神的な圧力を、かけることに関して、世間で話題の、ハラスメントは、適用されないらしい。だが、脅迫が、強められた場合、何方が、より危険度が高いか、あるいは、何方が、より不幸な結末に、結び付くか、を判断する必要が、出てくるのではないか。豪雨の場合、一夜にして、50人以上の死者・不明者を、出したと伝えられる。それに対して、避難の障害となる、とまで、大風呂敷を広げた、感染症は、同じ地域で、発生以来、4ヶ月を経ても、50人に満たない死者しか、出していない。だが、反論は、別の所に、向けられるだろう。感染者数は、依然として、増え続けている、という点を、強調するのだ。しかし、これとて、豪雨の避難指示は、100万人近くの人に、出されたのだ。比較として、正しいものとは、決して思わないが、個人が、どんな被害に遭うか、ではなく、どんな可能性があるのか、を考えれば、こういう数値の比較は、当然のものとなる。下らないフレーズを、繰り返すより、どちらの緊急性が、優先されるべきか、見極めねばならない。救助に来た人に対し、近寄るな、と叫んだとしたら、何が起きるか。誰だって、少し考えれば、理解できる。そんな簡単なことさえ、見失う程に、追い込むのは、やめておけ。

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7月6日(月)−天秤に掛ける

 不安や心配を、口にする人は、おそらく、微塵も疑っていない。望めば、安心で安全な、環境が、手に入ると、信じているのだ。だから、彼らを操る人々には、うってつけの状況が、産み出される。少しでも、波風を立てれば、恐怖に、震え上がらせることが、できるのだ。
 ここでも、少し考えれば、安全や安心に、「絶対」が、無いことは、すぐに理解できる。だが、不安に駆られ、逃げ惑う人々は、そんな余裕さえ無くし、慌てふためくばかりとなる。何故、こんなことが、起きるのだろう。脅す側は、あれもこれもと、次々に、危険なものを、取り上げていく。それも、どれもが、最大級の危険、という言葉を用い、逃れる術が、無いようにさえ、表現するのだ。だが、普通に考えれば、あらゆることは、確率で、論じられる。それぞれの危険性は、確かに、皆無ではなく、僅かながらも、可能性が残る。驚くべきは、報道の大部分は、それらを、さも、確実かの如く、扱い、突き付けてくるのだ。それにより、鵜呑みにする人々は、多くの、確実な、危険性に、怯えることとなる。だが、どれもが、大した割合でなく、大事に至らずに、過ぎていく。それは、火を見るより明らかだが、何故だか、それに気付かず、「絶対」を手に入れようと、躍起になるのだ。例えば、自動車事故と、飛行機事故を、比べた話があるが、数の多さに、目を奪われる人々には、論理的な説明は、用を成さない。確率で考えれば、物事は、簡単に理解できるが、それが、できない人が、数えきれぬ程、居るのだ。だが、彼らにかける言葉は、何一つ、見つからない。もし、自分の命を、守る為に、行動を、天秤に掛けねばならぬ時、ただ、戸惑い、立ち尽くすだけでは、目的は果たせない。危機が、通り過ぎた後で、報道は、屡々、そのことを、分析する。が、元凶が、自分達とは、微塵も思わず、同じ過ちを、繰り返すだけだ。

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