パンチの独り言

(7月20日〜7月26日)
(安全装置、発言意図、ただの運、皆で渡れば、信頼値、学者気質、別の悲劇)



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7月26日(日)−別の悲劇

 天災、と書いたが、元々は、自然現象の一つ、であるにしても、この騒動は、人が起こしたものだ。あの人物でも、これまでの経過を、眺めれば、同じことを、言ったに違いない。これまでの数字の変遷を、冷静に眺めるだけで、そんな結論は、簡単に、導き出せる。
 では、何故、世界中が、これ程の、混乱を来しているのか。それは、騒ぎを大きくする、人々が、悲劇の台本を、押し付け、世界を舞台に、演じさせられているからだ。どんな数字が、提出されようとも、筋書きに、変化はなく、満足げな表情で、舞台の中心で、主役を、演じ続けている。三文芝居に、呆れたとしても、舞台も客席も、狂ったように、劇を演じる中では、弾き飛ばされてしまう。人災は、天災とは異なり、特定の人々が、自らの思惑で、利益を貪る結果、生じるもので、大多数は、何の利益も得ず、害を被るだけなのだ。今回の騒ぎも、世界機関を先頭に、世界中の製薬会社が、大きな利益を、得るものと、予想される。今、騙されている人々には、こんな話は、信じ難い、と映るだろう。人道的な見地で、人々の命を、守る為に活動する機関は、自分達を、守ってくれている、と信じている。だが、彼らの言動の、迷走ぶりだけでも、疑惑を、確かにすることが、できるのだ。一貫しているのは、自己弁護の徹底で、否定的な批判に、反論するだけで、問題の本質に、近づく気配も無い。どころか、自分達の台本を、否定するデータは、無視したり、目を背けることで、都合悪い展開を、避けようとまで、しているのだ。科学者に、あるまじき行為であり、態度であるが、おそらく、彼らの地位を、脅かすことは、難しい。一度、座ってしまえば、辞任以外には、退く手立ては無いのだ。こんな連中に、振り回される世界は、どうなるのか。多分、彼らの書いた悲劇ではない、別の悲劇が、演じられるのだろう。感染症ではなく、別の要因に、殺される、という。

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7月25日(土)−学者気質

 天災は、忘れた頃に、やってくる、と唱えたのは、寺田寅彦、と言われている。この人物のことを、知らない人は、居ないと思うが、どうだろう。漱石の教え子、作品の登場人物のモデル、等々、紹介されるが、彼の学問上の功績について、殆ど知られていない。
 物理学者としての業績は、学士院恩賜賞、を受けたと言えば、ある程度は通じるだろうか。まだ、海外への発信が、確かではなかった頃、欧米の学者が、発見したことと、似た事を、見つけたという話は、あの時代には、よくあったことだろう。優秀な学者でも、東の辺境に住む、馬の骨と見做されては、どうにもならない。彼は、学問上の功績でも、評価されるべき人だったが、それにも増して、一般への、科学の啓蒙という功績は、高い評価を受けてきた。数字に強い、物理学者として、市電の運行状況を、分析してみたり、観察を中心として、電線に止まる蜻蛉の、向きの原因を、探ってみたり、研究の基礎を、身近な例から、易しく説いた。スペイン風邪の流行時、彼は、まだ若かったが、どんな思いを、描いていただろう。彼が、今、生きていたら、どんな解説を、著しただろう。そんなことを、思い描くのも、非科学的な主張が、実しやかに、流され続け、その源流が、世界機関である為に、名声を欲する、似非専門家が、都合の良い数字を、選び出し、恰も、科学的事実の如く、喧伝し続ける中、科学的正論の殆どが、大衆に、顧みられることなく、打ち捨てられているからだ。その事実に、気付いた人々は、盛んに、叫び続けるが、それさえ、抹殺に似た形で、片隅に、追いやられている。学者に、あるまじき言動も、飛び出す始末には、あの連中に、研究費は、無用の長物、とさえ思えてくる。都合の良い結果だけを、選び出して、筋書き通りに、話を作るのは、誰でもできることだ。だが、そこに現れる、数多くの矛盾は、ある日突然、姿を現し、自信たっぷりに、語っていた人物に、襲いかかる。科学的な根拠と、論理は、こんな時にこそ、必須の道具になる。

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7月24日(金)−信頼値

 選挙では、対応への信頼から、絶大の人気を、誇っていた。が、今は、どうか。同じか、悪化したとしか、思えぬ数字に、歯切れの悪い言葉しか、発せられないのは、国の政治家達と、何の違いも無い。選ばれる、前と後で、事情が、変わったとでも、言うのだろうか。
 こんな変貌に対し、本来なら、集中砲火を、浴びせる筈の連中も、長期化する戦いに、精も根も、尽きたというのか。中でも、新聞という媒体は、庶民の情報源として、長い時間、信頼を得ていた。紙媒体から、人々が、離れるにつれ、読者の減少は、止まる所を知らず、嘗ての勢いは、失われてしまった。そこで、各紙とも、ネット媒体へ、進出することで、人の目を、引き戻そうとしている。だが、奢りに満ちた態度を、改めることなく、嘘や改竄を、撒き散らしては、状況は、変わる筈もない。先日も、こんな報道があったが、情報源を示すことで、取り上げた数値の、信頼性を、訴えたつもりか、計算過程も示さず、不確かな情報で、読者を惑わす意図が、見え隠れしていた。おそらく、論理もへったくれもなく、結論ありきの報道に、どっぷりと浸かる体質には、何の変化も無い。大新聞は、この為体に、何の疑問も、抱いていないが、新聞が全て、劣悪とは、限らない。数字に強い、経済新聞は、この混乱の最中でも、冷静な分析と判断を、下しており、中でも、この記事を、掲載する新聞は、記事からも、分かる通り、今知るべき情報を、提供しようという、編集姿勢が、前面に出ている。この新聞社は、感染症に関するデータを、分かり易く、纏めていることでも、知られている。どちらが、信頼に値するかは、すぐに、分かることだが、築いた地位に、居座る連中が、多くの情報を、操っていることに、気付かぬ人が、多過ぎる。庶民と言えども、見極める力が、必要なのは、古今東西、変わることが無い。

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7月23日(木)−皆で渡れば

 政治家達の見立ては、尽く、外れている。それでも、恐慌を来していないのは、現場が、的確な対応を、しているからだろう。その評価は、今も、将来も、高く保たれるべきであり、検証が、行われれば、世界との違いも、明らかにされるだろう。正しい評価が、必要だ。
 一方で、政治家達の無知は、次々と、暴かれ続けている。だが、それを、暴いているのは、批判を常とする、あの連中ではなく、単純に、日々発表される数字によって、であり、無知な報道の多くは、同じか、それ以上に酷い、的外れを、繰り返している。その片棒を、担いでいるのは、本来、現場で活躍し、評価を受けるべき、同業者とは、全く異なる視点を持ち、訳知り顔で、誤った解釈や、煽る為の材料を、提供し続けている、「専門家」と呼ばれる人々で、何ヶ月も、顔を出し続けることは、本来の仕事を、放り出して、稼ぎまくる為だろう。臨床医にしても、感染症の専門家にしても、何度も登場し、不安や心配を、拡大させる為の、言動を繰り返すのは、ある意味、馬鹿の一つ覚え、というべきものだ。数字は、次々と変化し、予想が外れ、見込みを誤っても、それ自体を、謝罪することなく、訂正することも、全く行わない。研究の過程で、仮説が、間違っていても、それは、次の段階への、一歩に過ぎないから、それ自体を、反省したり、謝ったりする必要は、全く無いが、見解を、求められる中、勝手で、非論理的な見解を、自慢げに語る人物は、専門家として、失格なだけでなく、人間としても、唾棄すべき存在である。名を成したいと、努力した結果、危険を訴え、不安を煽る手段を、見つけた人々は、今回の騒動に、乗っかかる形で、活躍の場を、見つけた。便利な道具として、使い続ける側の、不見識は、事ある毎に、露呈してきたが、今回も、そんな田舎芝居が、続いている。これまでとの違いは、誰も彼もが、寄ってたかって、騒ぎを大きくしていることだ。幕は、何時降りるのか。

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7月22日(水)−ただの運

 見込みを、立てる為に、人は、それぞれに、手立てを講じている。経験だったり、勘だったり、果ては、単なる思いつき、もあるに違いない。だが、誰もが、ある程度の、見込みを立てても、固定したものではなく、その後の変化で、様々に、修正をかけていく。
 それによって、確実性を、高めようとするもので、この作業を、重ねることで、経験を積む。と言っても、一つ一つの判断は、多くが、経験による中で、最終的には、勘に頼るようだ。幾つかの可能性の中で、どれを、選ぶかは、所詮、博打に似たもので、最終的には、賽を振るしかない。今回も、その程度のもの、だったのだろう。8割、と呼ばれた人が、提示した予想は、結果的には、外れ籤で、厳しい批判に、晒されたが、件の人物は、何事も無かったかの如く、別の予想に、手を付けている。何故なら、業界では、仮説を立て、それに基づく解析を、進めることが、当然の成り行きであり、今回も、その一つに、過ぎないからだ。世間が、如何に、振り回されようとも、それは、結果論に過ぎず、選んだ仮説が、外れただけ、なのだろう。だが、躍起になる人々は、人の命が、かかるものとさえ、思い込んだ訳で、馬鹿騒ぎは、簡単には、収まりそうにない。同じように、仮説を立て、予想をしたものには、偶々、結果を、的中させたものがあり、一部の人は、そちらに、乗り換えたらしい。だが、以前に、取り上げたように、仮説がどうあれ、元々、感染の仕組みが、明らかでない中で、立てた予想なんて、所詮、博打の一つに過ぎない。偶然は、偶然であり、必然とは、なり得ないのだ。にも拘らず、科学者達が、今だにしがみつき、的中させた手法の、予想と現実を、比べている。名を成したのかもしれないが、こんな連中は、自分の研究でも、同じことを、やってきたのであり、偶然の結果を、必然と見做すことで、今の地位を、獲得したのだろう。運も実力とは、彼らに当てはまる、と思う人が、居るかもしれないが、この運は、実力とは、無縁なものではないか。

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7月21日(火)−発言意図

 毎日、せっせと、書き綴っているが、読み手は増えない。検索で、引っかかるようにと思い、以前、Google検索に、繋がるように、したのだが、それも、最近は、2月から更新されず、どうも、止まってしまったようだ。更に、他の検索エンジンでは、何も出てこない。
 このような状況では、読み手を、増やすことが、できる筈もない。匿名による発言の、重要性を、強調してきたが、その意味は、読まれてこそ、出てくるのだ。それが、この状態では、何も起きない、としか言いようがない。そこで、少しでも、と思った結果が、Twitterの利用開始で、特に、ここ最近は、数人の発言者への、反応という形で、独り言でも書いてきた内容を、紹介してきた。アカウントから、こちらへのリンクは、確かに、張っているのだが、始めに、発言主が、覗いただけで、その後は、何の音沙汰もなく、また、他の人が、興味を持つことも、ないようだ。やはり、Twitterという仕組みでは、多くの参加者は、共感を得ることを、目的としており、他人の発言を、引用するまでで、そこから、更なる一歩を、踏み出すことは、ないらしい。その一方で、実名で開設した、Facebookについては、先日、意を決して、ここで書いてきたことと、似たことを、書いてみたのだが、反応は、芳しくはない。特に、これらの仕組みでは、発言が、誰の目に触れるかを、発言者自身が、選択できるから、友達ではなく、公開という選択肢を、意図的に、選んでみたのだが、その効果は、全く現れなかった。まだ、1週間程だから、これから、かもしれないが、あまり期待できそうにない。匿名でも、実名でも、世相とかけ離れた意見に対し、人々の反応は、乏しいものなのか。正論を、発することを、実生活でも、仮想世界でも、心掛けているが、世間は、そんなものには、興味がないらしい。

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7月20日(月)−安全装置

 騒動を、更に広げる為の環境は、整っている。恐怖を、強める為の数字が、次々に、発表され、増え続ける数値に、簡単に、騙される人々は、不安に苛まれる。そこに、愚かな政治家が、挙って声を上げれば、効果も、最高潮に達する。こちらには、茶番としか、映らないが。
 注意深い人なら、既に、気付いている筈だ。この所、死者の数や、亡くなった人を、伝えることが、激減していることを。その代わり、数の増加が、今後の体制の崩壊に、繋がるとの絵空事に、目を向けさせようとする。二流どころか、その域にも達していない、杜撰な台本を、書き上げた人々は、恐怖を煽れれば、満足なのだろう。劇の結末を、観る気など、微塵もないに違いない。何しろ、劣悪な筋書きでは、芝居としても、成り立つ筈もない。だが、専門家でさえ、そんな茶番や絵空事に、精を出しているのは、何故か。世界機関が、暴走を続け、恐怖のハリボテを、投げつけることで、恐怖を煽り続ける中、多くの専門家は、それに与する意見を、発している。科学に携わる人間なら、不確実なことを、軽々に語るのは、忌み嫌う筈だが、今の様相は、これまでの流れからは、理解し難いものとなる。だが、その理由は、実は、下らないものかもしれない。感染症の広がりを、予測する研究者が、次々に現れ、どれも、悲惨な経過を、示していると伝えられる。だが、最近の死者数の変遷、に限って、考えてみると、どうにも解せない。特に、急激な増加を、見せていた、欧米各国の動向が、鎮静化を示すだけに、予測の数々が、異様に見えてくる。科学者が、これまでに示してきた、慎重な姿勢に比べ、この状況は、理解し難いと映るが、実際には、そこに、からくりがありそうだ。騒ぎを、広げる為に使われる、予測の殆どは、感染者数に対するもので、死者数ではない。無症状の感染者が、大多数を占める中、それが増えても、死者が増えなかったとすれば、どうだろうか。実は、予測を発表した科学者達は、無傷で済むのだ。何しろ、「感染者」しか、扱っていないのだから。風邪という感染症が、どう広がるかを、確かめたものはなく、それとの比較も、必要ないから、その誤りも、攻撃されないのだ。彼らは、安全地帯に、居る。

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